面影


   面影 31

 

「あのひとは言葉を違えなかっただけなの。身勝手に期待して…絶望して逃げ出したのは私のほう……あのひとには何の責任もない。そして、緑真(りょくしん)…貴方にも何の責任もないの……きっと、これは誰が悪いと決められることではないのだわ……」

 翡翠(ひすい)の悲しげな言葉に、緑真は依然として顔を伏せたまま、搾り出すような声を出す。

「…はい……分かっております。翡翠様がそう仰るだろうことは…分かっていたのです…しかし、私が身勝手な私情に流され、砂月(さづき)様を狙い、桜花(おうか)様を傷付けたのは、否定しようのない事実…私は確かに罪を犯したのです。その責めは負わなければなりません。例え、翡翠様が…旦那様さえもが、この罪を赦して下さったとしても…」

 …己だけはその罪を赦すことが出来ないのだ。

そう言って、その身を起こした緑真の手には何時の間にか白く輝く刃が握られていた。

 

「…緑真!」

 桜花が鋭い声を発するが、緑真は素早く己の喉を掻き切ろうと、鋭いナイフを振り下ろした。

 

 細く響く翡翠の悲鳴。

 

 紅い血が花弁のようにぱっと散った……

 

 

 

 緑真は呆然と目を見開いて、目前でナイフを掴む血に濡れた手を見詰めていた。

 

「砂月…」

 桜花も呆然と名を呟く。

 傷付くことも構わず、素手で緑真の刃を止めた砂月は、そのまま彼の手からナイフを奪い、その場に投げ捨てる。

 眼鏡で隠されることなく、晒されている色違いの瞳に宿っているのは怒りだった。

 しかし、それは目前の緑真や、この場にいる者たちに対するものではない。

「緑真、貴方は確かに罪を犯した。僕のことはともかく、桜花を傷付けた罪はしっかりと償って欲しい。でも、貴方は充分過ぎるほど長い間、苦しんできただろう。そんな貴方が、罪を償うために命まで捨てる必要はない」

「…しかし、私はあの男に似ているというだけの理由で、貴方様に理不尽な憎しみを向けた…」

「確かに。けれど、聞けば無理もない話だ。貴方も母も、責任はないと言ったけれど、僕にはその男にこそ、責任が、罪があるように思える。特にその男の情のなさには…話を聞くだけで腹が立ってくるよ」

 

 だから、そんな男の為に、命まで捨てることはないのだ。

 

 実父に対する怒りも露わに言い切る砂月を、皆が少々呆気に取られて見詰める。

そして、そんな彼の姿を緑真は、初めて出会った人のように見上げた。

 それは、緑真があの男の面影に惑わされることなく、初めて砂月を砂月として見た瞬間だった。

 

 

 

 

 

 黙したまま、緑真が俯いた。

「砂月」

 これ以上彼が何かをする気配がないことを察し、桜花が砂月の傍らへと駆けてくる。

「全く…お前は思い掛けない無茶をするな」

「自分でもこんなことをするとは思ってなかったよ」

 呆れたように言いながら、砂月の傷付いた手の手当てを始める桜花に、砂月は淡い苦笑を返した。

 

「緑真」

 それまで黙して状況を見守っていた公爵が、やっと口を開いた。

「お前が述べたように、仮にも主筋に当たる人間を、極めて個人的な感情で害したお前の罪は、許されるものではない。よって、その罪に相応の罰を与える」

「…公爵!」

「待て!」

 公爵の言葉を受け入れるように、頭を垂れた緑真の代わりに、砂月、桜花が異議を唱えようとする。

 しかし、公爵は厳しい視線を向ける二人を一瞥したのみで、厳然と言葉を続けた。

「罰として緑真、お前の第二執事の職を解く。代わりに、翡翠の従者となり、最期まで仕えることを命じる」

「…え?」

 その言には当の緑真を始め、皆が目を瞠る。

 思わず顔を上げた緑真を、公爵は変わらず厳しい眼差しで見返す。

「良いか、緑真。これは甘い罰ではないぞ。お前は最期まで従者としての分を越えてはならぬ。この意味を分かっておろうな?」

 

 翡翠に対する想いを捨て去る。

 それが無理なら、完全に封じ込めること。

 

 公爵は暗にそのことを示した。

「最期まで変わることなく、翡翠に仕えよ」

 しかし、それは緑真にとっては言うまでもないことだ。

 どのように応えて良いか分からず、宙を彷徨った視線が、翡翠の上へと辿り着く。

 すると、彼女は静かに微笑んだ。

「貴方にはまた、心配や迷惑を掛けてしまうだろうけれど……これからも…お願いできるかしら?」

「はい…はい…!必ず、お言葉通りに……!!」

 その言葉に、緑真は泣きそうな顔になって、再びひれ伏した。

 

 

 

 

 

 一通りの決着が付いたことに、砂月は息をつく。

 素早く砂月の手当てを終えた桜花と目が合った。

 桜花は陽に照らされた花のように、明るく微笑む。

 

「…オウカ」

 そのとき、小さな声で名を呼ばれ、彼は砂月の腕を掴み、二人で翡翠の元へと近付く。

 彼女は桜花を、そして砂月を見上げる。

 自分の息子を。

 彼女は淡く微笑みながらも、何処か躊躇いがちに砂月に話し掛ける。

「…名前をもう一度訊いてもいいかしら」

「砂月です。ここにはいませんが、もう一人、星砂(せいさ)という双子の姉がいます。貴方の…娘です」

 静かに応えた砂月の姿を、やや目を細めて彼女は眺める。

 

 その瞳に僅かに面影を求める光が滲む。

 しかし、それは一瞬だった。

 彼女は今、父ではなく、砂月自身を見詰めていた。

 

「そう…もうひとり、いるのね。その子は私に似ているかしら?」

「…ええ」

「…そう」

 翡翠は静かに相槌を打っただけだった。

 もう一人の子供に会いたいとも言わない。

 しかし、それは会いたくないということではないのだ。

 

 彼女にとっては突如現れた子供たちだ。

 どう接していいのか分からないのだろう。

 

 砂月は彼女の戸惑いを容易に察することが出来た。

 そして…このとき、初めて砂月は、ここに星砂も連れてくれば良かったと思った。

 傍らの桜花が、軽く砂月の背を叩く。

 元気付けるような叩き方に、砂月は彼に微笑んだ。

「サヅキはオウカととても仲が良いのね…まるで兄弟のよう…」

 翡翠は二人の様子を眺めて、淡く微笑んだまま、そう言った。

 

 やがて、翡翠は桜花に向かって、小さな手鏡を差し出した。

「返すわ…これは私のものではなく、真珠(しんじゅ)のものね」

 しかし、桜花は差し出した鏡を取らなかった。

「やるよ」

「…え?」

「その鏡は多分、俺よりあんたが持っていた方がいいと思うんだ。俺は手鏡なんて使わないし…ちゃんと使ってくれる人の手にあった方が鏡も喜ぶ。真珠もあんたがこの鏡を持っていてくれた方がきっと喜ぶと思う」

「…でも……」

 優しく押し返された鏡を胸に抱きながら、翡翠は戸惑ったような様子を見せる。

 桜花の笑顔の中に、姉の面影を見出したのか、何事か、言葉を躊躇うように、その翠色の瞳を揺らす。

しかし、彼女はそれを口にすることなく、目を伏せ、一言だけ呟いた。

「……有難う」

「礼を言われることじゃない」

 屈託なく、微笑む桜花と翡翠の姿を、砂月は静かに見詰めた。

 

 公爵の指示で、ひとまず塔に戻ることになった翡翠が、緑真に支えられるようにして立ち上がる。

 すっかり落ち着いた二人の様子を見て、砂月は安堵する。

 そのとき、翡翠が思い切ったように、桜花を見上げた。

「最後にもうひとつ…もうひとつ訊いてもいいかしら?」

「ああ、何?」

「真珠は…元気かしら、幸せに暮らしている?」

 躊躇いがちの問いは、彼女が最も訊きたかったことに違いない。

 しかし、その問いに桜花も、そして、砂月も驚き、一瞬顔を見合わせ、黙り込んだ。

 その様子に翡翠が不安げな顔をする。

 

「…どうしたの?」

「真珠は…いないんだ。彼女が亡くなってから、もう十八年経っている」

 

「嘘……」

 

 桜花の偽りのない応えに、翡翠は呆然と目を見開いた。

 ゆっくりと顔を俯けて、黙り込む。

 額や頬に降りかかる長い髪がその表情を隠した。

 

「翡翠様…」

 傍らの緑真がそっと気遣うように名を呼ぶ。

「…真珠は幸せだったのかしら?」

「断言は出来ないが、少なくとも不幸ではなかったと思う。だからこそ、自分の命と引き換えにしてまで、俺を産んでくれたんだと…思う」

「そう…きっとそうね……」

 翡翠はゆっくりと顔を上げる。

 微笑む瞳に一瞬、危うげな光が宿ったが、それは姉の死を悼む輝きだったのだろう。

 砂月はそう思った。

 

暫くの間を置いて、彼女はふいに笑みを消した。

そうして、砂月を見詰める。

「…貴方たちは、間違えないで」

「え?」

 砂月は向けられる真摯な眼差しと、意味深な言葉に戸惑う。

 彼女のこの言葉は砂月と星砂、つまり彼女の子供たちへ向けられたものだろう。

 しかし、一瞬、砂月には自分と桜花のことを言っているように聞こえたのだった。



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