面影
面影 30
言葉を途切れさせた緑真は、苦しげに一つ息をついた。
一瞬砂月の姿を見遣り、すぐに目を伏せる。
「…夜でした。紺色の空に大きな月が、禍々しいほどに紅く輝いていた……」
緑真はその色にどうしようもなく不安を掻き立てられた。
居ても立っても居られず、そのときはもう、助産婦とメイドしか出入りが許されていなかった三階の翡翠の部屋へと急ぎ足で向かった。
しかし。
階段でも、そして、翡翠の部屋へと繋がる廊下でも誰とも擦れ違うことはなかった。
おかしい。
翡翠はもう臨月を迎えているのである。
それなのに、この辺りに誰一人としていないのはおかしい。
部屋へと向かう足取りが、自然に早くなる。
ついには駆けるような勢いで、翡翠の寝室へと辿り着いた緑真は、扉を叩くこともせずに開け放った。
途端、目に飛び込んだのは紅。
その色彩の鮮やかさに目を奪われた緑真は、床の上でその色に染まっている華奢な人影に気付くのが一瞬遅れた。
開かれた窓から、ざ、と木立を割るような音が耳に届く。
「翡翠様!!誰か!誰かある!!」
その音に我に返った緑真は、大声で人を呼ばわりながら、床に血まみれになって倒れ込んでいる彼女の元へ駆け寄る。
衝撃と恐怖に震えそうになる腕で、注意深く彼女の身を起こす。
ぐったりと腕の中に倒れ込む血の気を失った顔。
しかし、よく見ると、彼女の身体には傷一つ付いていない。
これは返り血だ。
誰かの血に染まった果物ナイフが、彼女の細い手に固く握られていた。
この部屋に駆け込んだ時に聞いた、木立を割る音。
床を見れば、翡翠の倒れた場所から血の跡が点々と開かれた窓の先のバルコニーへと向かって続いていた。
あの男が来たのだ。
訳もなく、緑真は確信する。
その時、気を失っていた翡翠が、呻き声を上げ、薄く目を開いた。
「翡翠様…!」
「……どう…して?やはり…あなたは…行ってしまうの……?」
朦朧と呟く彼女の呼吸は、みるみるうちに乱れ、白い額には玉のような汗が浮かんできた。
時が来たのだ。
緑真がそう悟ると同時に、助産婦がメイドを従えて駆け込んで来る。
「翡翠様!!まあ…!これは一体…!」
部屋の惨状と翡翠の様子に、緑真同様、衝撃を受けると同時に、不審を抱いた彼女たちだったが、その理由を問う暇はない。
緑真から彼女の無事を確認すると、すぐに慌しく準備へと入った。
翡翠を彼女たちへと任せた緑真は、何処か覚束ない足取りで床の跡を辿り、バルコニーへと出る。
思ったとおり、血の跡はバルコニーの手摺まで続いていた。
翡翠のあの血まみれの様子と、この血の跡から考えると、相手は相当な深手を負っている。
そんな傷で三階とは言え、高さのあるここから降りるなど自殺行為だ。
きっと無事では済むまい。
しかし、緑真はあの男は生きているに違いないことも確信していた。
あの男が何の目的でここを訪れたのかは分からない。
しかし、あの男は確かにここへ来て、自らの手を汚してまで引き止めようとした翡翠を再び拒絶したのだ。
緑真は知らず、砕かんばかりに強くバルコニーの手摺を掴んでいた。
そうして。
忌まわしい血に彩られた部屋の中で、二つの産声が響いた…
「…その日を境にして、翡翠様は完全にそのお心を手放されてしまわれたのです。……私は…翡翠様のお心を傾けたあの男がどうしようもなく、憎かった……しかし、あの男が目の前に居ない以上、向け場所のないこの感情は無意味なもの……また、だからこそ、今まで抑えてこられたのかもしれません。このままこの感情を風化させることが出来れば……そう思っていたとき、砂月様がやって来られた」
あの男の面影をそのまま宿した翡翠の子が。
「砂月様はあの男ではない。そのことは充分承知しています。しかし…そのお姿を拝見する度に、風化しかけていた感情が徐々に……抑え難い程に蘇ってくるのです………砂月様はあまりにも……あまりにも、あの男に似ておられる……!」
今まで溜めてきた胸の内を吐露した緑真は、跪いた姿勢のまま、その場に突っ伏してしまう。
皆、彼の話を様々な表情で聴いている。
砂月は…呆然と彼の激しい感情を受け止めていた。
アナタハ…アノオトコニ……
「砂月」
明瞭な声に、砂月は、はっと振り返る。
そこには、真っ直ぐに砂月自身を見詰める透明な瞳があった。
何処か気遣いが滲む桜花の瞳に、砂月は僅かに微笑み返す。
「…大丈夫だよ」
自分は自分だ。
他の誰でもない。
例え、誰にその面影が似ていようとも。
そう信じさせてくれる真っ直ぐな瞳が、今ここにある。
だから…大丈夫だ。
「一度だけでいい…と言ったの」
ふいに、翡翠が口を開いた。
その言葉に、緑真は肩を僅かに震わせ、他の者は、彼女に注目する。
彼女は誰にともなく寂しげに微笑んだ。
「あのひとはね…私のことは何とも思っていなかったの……あのときも、はっきりそう言われたわ…あのひとが愛していたのは別の人……私、そのことをずっと前から知っていた…そして、あのひとが好きなのは、真珠だと思っていたの。だから、久し振りに会ったあのひとの口から真珠の居場所を尋ねられて……悔しくて、恨めしくて…あのひとを真珠のところへ行かせたくなくて、必死で止めようとした…」
真珠は貴方ではない人を選んだ。
今更、追い掛けても、意志の強い彼女はきっと振り向かない。
自分では駄目か。
ずっと好きだったのだ。
自分では彼女の代わりにはならないのか、と。
気の弱い自分が初めて必死の思いでした告白。
しかし…
「あのひとは身代わりなどいらないと言ったわ。私と真珠は違うと…それでも…諦められなかったの。どうしても、引き止めたかった。それが無理なら、一度だけでいい。この恋の証が欲しかった…」
自分にとって、この恋はきっと最初で最後のものだと信じたから。
だから。
「それだけで良かった筈なの。…けれど…願いが叶ってしまえば、期待が生まれてしまう……もしかしたら、ときどきにでも、あのひとは私を思い出してくれるかもしれない…会いに来てくれるかもしれない……そうして、子を宿したと分かったとき…これであのひとを引き止められるのではないかと…そう思ってしまった………期待して……あのひとの訪れを願って…待ち続けて………あのひとが再びやってきたとき、私の願いは叶ったのだと思った」
けれど、と翡翠は言葉を途切れさせ、一度息をつく。
次の言葉を紡ぐ彼女の唇には、自嘲の笑みが滲んでいた。
「あのひとは言葉を違えなかったわ。再び訪れたあのひとが訊いたのはやはり、真珠のこと。子が出来たのだと私が言っても、表情を変えもしなかった……そのとき、あのひとが何を言ったのか…もう、今は詳しく思い出せないけれど…」
ただ、拒まれたという事実、その衝撃に打ちひしがれた。
身勝手な願いだということは分かっていた。
それでも、拭い去れないほどの絶望が心を染めていく。
去っていこうとする背中。
それを引き止める術を持たない自分。
そのとき視界に入ったのが刃の煌きだった。
果実が切り分けられた皿の横に置かれた果物ナイフ。
気付いたときにはそれを手に取り、彼の背中に向かって飛び込んでいた。
脇腹の傷を抑え、その痛みに僅かに整った眉を顰めながらも、彼はやはり、殆ど表情を変えなかった。
そうして、自らの衝動的な行動に驚き、震えながら立ち尽くす彼女に、彼は静かに言った。
…その言葉だけははっきりと耳に残っている。
満足か…と。
こうして、望む相手の命を奪えば、その相手が手に入ると思っているのか、と彼はそう言ったのだ。
そんなことは無理なのだ、と言外に言い渡され、身体ごと暗闇に投げ出されるような心地がした。
…そのとき、意識さえも絶望の闇へと堕ちた。
その日を境に、彼女は現実の世界から逃げた。
子を宿した事実を認識しながらも、心は彼と知り合ったばかりの…無邪気に姉と彼とを慕うことが出来た昔へと遡る。
容赦なく、過ぎていく時の中で、彼女の心だけが矛盾を抱えたまま、その時間を止めていた。
その矛盾こそが、彼女が現実を取り戻す切っ掛けとなり、また、緑真が危惧を抱き、暴走する原因ともなったのだった。
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