面影
面影 29
「真珠様が自らブランシエルをお出になり、一年程たった頃でしょうか……半身とも言うべき方を失われて、翡翠様は気落ちした日々を過ごしておられた…お身体も弱くなられて……ああ…もう…十七年経ったのですね……そう、あの男の姿を垣間見たのは、ほんの偶然でした。あの夜、何故か私は無償に翡翠様の様子が気になったのです」
そうして、翡翠の部屋の前までやって来ると……
扉が僅かに開いていたのだった。
無意識にその隙間から部屋のうちを覗き込み…
緑真は翡翠に呼び掛けようとした声を思わず呑んだ。
部屋の中央、やや窓際寄りにこちらに背を向けて立つ、翡翠の姿があった。
彼女の前には背の高い人影が。
窓から注ぐ月光を背に佇んでいるため、蔭となったその人物の顔立ちは、そのとき緑真にははっきりと見えなかった。
ただ、その姿かたちから青年であるだろうことは察せられた。
その若者に縋り付きながら、翡翠は何事かを訴えている。
言葉を発する度ごとに、彼女の背で銀の髪が波打ち、その切実さをこちらまで伝えてくる。
しかし、言葉は切れ切れにしか、聞こえない。
青年は何と応えたのだろうか、縋り付く彼女の手をそっと振り解いた。
「待って!行かないで!」
そのとき、はっきりと彼女の声が聞こえた。
去ろうとする彼に、再び翡翠が縋り付く。
「…お願い!それでも行くというのなら、せめて……」
…その先の言葉は聞こえなかった。
しかし……
青年が応えるように、縋り付く彼女を静かに抱き締めた。
そのときだった。
向きを変えた青年の姿が、月光の元に晒されたのだ。
こちらが思わず息を呑むほど美しい若者だった。
しかし、それは何処か背筋が寒くなるような美しさだ。
翡翠を抱き締めるその仕種は優しげなものだったが、青年の端正な顔には不可解なほど、何の表情も浮かんでいない。
ふと、その美貌の青年が視線を上げた。
暗い廊下に佇んだまま、緑真はぎくりとする。
目が合った?
まさか。
動揺する緑真に気付いたのか否か、青年がゆっくりと整った口元に笑みを刻む。
そうして、ゆっくりと抱き締めた翡翠へと顔を寄せた……
…これ以上、見ていることなど出来なかった。
緑真は逃げるように翡翠の部屋から離れた。
脳裏に、先程見た青年の笑みが、幾度もちらつく。
笑みを浮かべる口元とは裏腹に、あれは…紅だったのだろうか、とにかく稀な色合いの瞳は、冷たいほどに、何の感情も映していなかった。
そして、青年が緑真の存在に気付いていたかどうかも判然としない。
しかし……
緑真は青年が確かに自分の存在に気付いていたのだと感じた。
あの笑みは覗き見る自分に向けられたものだと。
何の色もない微笑みに、嘲りが含まれているように感じる。
きっとそれは空しい想いを抱く自分に対する自分自身の感情なのだ。
自分はそれを勝手に青年の笑みに投影しているに過ぎない。
そのことを頭では分かっていながら、胸を掻き毟りたいほどに耐え切れない感覚から生まれ出でる感情を止めることが出来なかった……
「私があの男の姿を見たのは、それが最初で最後でした。その後、翡翠様が身篭られたことが明らかとなり……ブランシエル家は再び大騒ぎとなりました。しかし、翡翠様御本人は誰に問い詰められようと、決して相手の名を口にすることはありませんでした。ただ、何かを…誰かをひたすら待ち焦がれるような様子でいらっしゃって……」
緑真は確信していた。
彼女はあの美貌の若者を待っているのだ。
子を宿していながらも日々憔悴していく翡翠の様子に胸を痛めつつも、彼は同時にもう一つの確信めいた思いを抱いていた。
それは、彼女の願いは叶わないだろうということ。
しかし、その方がむしろ彼女にとっては良いかもしれない。
何と言っても彼女は子供を身篭っているのだから。
あんな男に拘り続けるよりも、生まれてくる子を心から迎える気持ちになって欲しい。
……生まれてくる子に罪はないのだ。
そう思いながらも、緑真は実際に生まれたあの男の子を、翡翠の子として心から歓迎できるかどうか一抹の不安を憶えていた。
「…そうして、翡翠様が臨月を迎えられた折に、あの忌まわしい事件が起こったのです。私がないだろうと確信し、また、密かになければ良いと願っていたあの男の訪れがあった日に……」
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