面影


   面影 28

 

「だから、この人に言われたように、出てきたの」

 語り終えて、翡翠(ひすい)はひそやかな息を吐く。

「出てきたって…どうやって?」

 今だ、戸惑ったままの砂月(さづき)が問いを零す。

「翡翠の部屋の内側には鍵がなかったんだ」

「え?」

 返事代わりの桜花(おうか)の言葉に、砂月は目を瞠った。

「彼女の部屋は外から内へ入るには鍵が必要だが、内から外へ出る際には鍵は必要ない」

 そこで砂月は気付く。

「桜花、それはつまり…」

「そう、彼女は幽閉されていた訳じゃなかったんだ」

 桜花は砂月にきっぱりと頷く。

「その気になれば彼女は、自由に外へ出て行くことが出来た。彼女をあの塔に置いた理由は、彼女を世間の目から隠すというよりも、世間の好奇の目から彼女を守るためだったのではないかと思う。そうじゃないか?」

 桜花が最後の言葉を奥の木立に向かって投げ掛けると。

「…そうだ」

重々しい響きの応えが返ってきた。

「もちろん、病に冒された翡翠を隠したいと言う気持ちがあったことも否定は出来ないが」

「…お父様」

 繁る木々に隠れた森の小道から現れたブランシエル公爵に、翡翠は目を見開いた。

 そんな娘を(らん)・ブランシエルは真っ直ぐに見詰める。

「お前は、自分で考えて出てきたのだな」

「…はい」

「お前の囚われた心の病は、お前の弱さが生み出したものでもある。緑真(りょくしん)を始め、周りの者全てがお前の弱さに巻き込まれたのだ。そのことを分かっているか?」

「はい…申し訳御座いませんでした」

 厳しい言葉に、翡翠は目を伏せる。

「そのことを忘れてはならぬ。そして、お前が現実から逃げている間も、お前を支えていた者が居たこともな。しかし…」

 公爵はそこで、一瞬言葉を途切れさせる。

 声には出さずに先の言葉を紡ぐ。

 

 戻れたことは良かった。

 

 その場にいた全員が、音として形をなさなかった公爵の言葉を聞いた。

 彼の厳しい眼差しの底に、娘に対する慈愛が僅かに滲んでいる。

 はっと顔を上げた翡翠は、言葉を発することなく、そんな父の表情に見入っていた。

 

「桜花、砂月。翡翠が戻ってくる切っ掛けとなったお前たちにも礼を言う。特に桜花。お前は翡翠をただ、外に連れ出すのではなく、自ら出てくるよう仕向けてくれた」

 公爵に視線を向けられた桜花は、華奢な肩を竦めてみせる。

「あんたに礼を言われると、何だか気持ちが悪いな」

「どういう意味だ」

不機嫌そうに僅かに眉を潜めた祖父に、軽く笑い掛けてから、桜花は翡翠を見遣る。

「俺が手を引いて翡翠を連れ出す方が簡単だったかもしれない。だが、彼女が自分で考えて、自分で歩き出すことを決めなければ意味がない。そう思っただけだ。まあ、こっそり彼女に会って話すこと自体、余計なお節介かとも思ったんだが」

 黙っていられなかったんだ、と苦笑する。

 隣で彼の言葉を聞いていた砂月も、知らず笑みを零していた。

 自分は桜花と知り合って間もない。

 それでも、彼の行動がとても彼らしく感じられて。

 花のような姿そのままに優しく、同時に、儚げな姿には不釣合なほど毅い。

 

 そんな桜花を見て、翡翠も目を伏せてそっと笑った。

「やっぱり、あなた真珠(しんじゅ)に似ているわ。厳しいけど優しいの……」

 

 

 

 

 

「旦那様」

 それまで黙して、皆の話を聞いていた緑真が、公爵の前で両手を付いて跪いた。

額を地面に擦り合せんばかりにして、頭を下げる。

「既に御存知のことと思います。私は公爵家の跡継ぎである砂月様のお命を狙い、桜花様を傷付けました。どうか、私を厳罰に処して下さいませ」

「待って、お父様」

 公爵が応える前に、翡翠が口を挟む。

「緑真は私のことを思って行動したのだわ。私の弱さを気遣って。私が現実を取り戻したら…その現実に私が耐えられないのではないかと…そう、思ったのでしょう?だから…」

「いいえ!いいえ!!」

 とりなす彼女の言葉を、緑真は激しく否定する。

「私が翡翠様の仰ったように思っていなかった訳ではありません。しかし、違うのです!!これは他の誰のためでもなく、私自身の為に犯した身勝手な罪……」

 呟くように言葉を途切れさせ、緑真はゆっくりと頭を上げた。

 

 その視線の先に居るのは砂月。

 しかし、彼は砂月を通して別の誰かを見詰めていた。

「砂月様のお姿を初めて拝見したとき…そのときから、私は過去の幻影に囚われてしまったのです。翡翠様がそのお心を傾けるほどに想われた…そして、それほどまでに想われながら、応えることのなかった男の幻影に…」

「…緑真、貴方はまさかあの人を知って…?」

 翡翠が呆然と目を瞠る。

 緑真はその言葉に頷き、何処か浮かされるような口調で、拭い去れない過去を語り始めた。



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