面影


   面影 27

 

 それは、砂月(さづき)にとって二度目の、そして桜花(おうか)にとっては初めての、翡翠(ひすい)との対面があった日の夜のことである。

 想い人と双子の姉、それぞれの面影を強く宿す二人と出会ったことで、翡翠の意識は完全に沈潜していた夢の世界から現実の世界の間際まで浮上し、その狭間を漂っていた。

 

 だからこそ、聞こえたのかもしれない。

 

 窓をこつこつと叩く音。

 夢うつつの状態で、彼女は音のする窓辺へと顔を向ける。

 その音に導かれるままに、緩慢な動きでベッドから降り、窓辺へと歩む。

 途中よろめいて手元の椅子の背凭れや壁に縋りながらも、やっと窓辺に辿り着く。

 それまで、窓を叩く音は止むことなく、断続的に繰り返されていた。

 緑色のベルベットのカーテンを開け、その下にあった白いレースのカーテンも引き開けようとして、彼女は一瞬迷った。

 

 硝子越しに、外にいる者と顔を合わせるのは、恐ろしいような気がしたのだ。

 先に相手の姿を目にしたら、窓を開けて相手を迎え入れようとする気持ちが、挫けてしまうかもしれない。

それが恐ろしかった。

 

 そこで、カーテンの境目から手だけを差し入れ、窓の鍵を外す。

 カチャリ、と掛け金が外れる音に次いで、窓が静かに開かれた。

 部屋の中に忍び込む夜気が薄いカーテンを揺らす。

 それにやや遅れて、夜闇から突如ぬっと現れた白い手が、彼女の手元の窓枠を掴んだ。

驚いた翡翠は小さな悲鳴を上げ、思わず後退る。

 その細い声が、空気に染み込むよりも早く、白い手の持ち主が、ひらりと窓枠を越えて現れた。

 

「お邪魔します」

 少々悪戯っぽく響く言葉と共に、降り注ぐ月光をそのまま形にしたような銀の髪が揺らめく。

 煌く髪に縁取られた白い顔は、自分とよく似た造りだった。

 

真珠(しんじゅ)

「真珠じゃないよ」

 思わず双子の姉の名を呼ぶと、そのひとはカーテンを避けて、窓辺に腰掛けながら、紅い唇を開いた。

 相手から一歩離れた位置で佇んだまま、翡翠は首を傾げる。

「真珠じゃないの?」

 その顔は間違いなく双子の姉のように思えたのに。

「ああ。俺は桜花」

 そう名乗る声音は美しく澄んでいる。

しかし、姉のものにしては低めのような気もする。

 

 似ていると思ったこと自体が間違っていたのかしら?

 

 ぼんやりとそう考えたが、そんな思考はすぐに曖昧になり、どうでも良くなってしまった。

 目の前にいるひとの華奢な肩越しに見える月を見るともなしに眺める。

 薄い夜着姿で夜風に当たった所為か、少し寒くなってきた。

 

「すまない。寒いか?」

 僅かに身震いすると、その様子にすぐ気付いたように桜花と名乗ったひとは、窓辺から立ち上がった。

 開けっ放しになっていた窓を閉める。

「風邪でも引いたら事だからな。ベッドに戻ろう」

 そう言って、翡翠の細い手を取り、ベッドへと導く。

 そうして導いてくれる手も細く華奢で、しかし、僅かに彼女のものよりも暖かかった。

 導かれるまま夢うつつの状態でベッドに横たわると、桜花は翡翠の身体を包むように丁寧に上掛けを掛けてやる。

「水はいるか?」

 問い掛けに首を振った後は、桜花の存在を忘れたように、翡翠は黙り込んだ。

 霞が掛かったような頭の中を、たどたどしく探る。

 

 何か自分は求めているものがあったのではなかっただろうか?

 それは何だっただろう?

 

 彼女がふわふわと考え続けている間、桜花はゆっくりと室内を巡っていた。

 部屋の扉まで来て、ふと気付いたことに、目を丸くする。

すると。

 

「そうだわ」

 微かに聞こえた声に呼び戻された。

「どうした?」

 枕元に近付くと、翡翠が横たわったまま、やや身を乗り出すような形で見上げてくる。

「そう、貴方でもいいわ。鏡を…鏡を持ってきて欲しいの」

「鏡?」

 改めて部屋の中を見回してみると、この部屋の中には鏡が一つもない。

「お願い。だって、あのひとに会うのだもの。それに、何か……思い出さなければいけないものがある気がするの…鏡があればそれが思い出せそうな気がするのよ……誰かに頼んだような気もするけれど……私、貴方に同じことを頼んだことがあるかしら?」

「…いや」

「じゃあ、お願い」

 見上げる瞳の奥に真摯な光が宿っていることを認めながら、桜花は頷く。

「手鏡でもいいか?」

「いいわ、何でも」

「分かった、明日持ってくる」

 差し伸ばされた白い手を、挨拶代わりに軽く握り返してから、桜花は再び窓から出て行った。

 

 

 

 

 

 砂月と緑真(りょくしん)は言葉もなく、二人の話に聴き入っていた。

 言葉を切った桜花の後を引き継ぐように、翡翠がゆっくりとその色の薄い唇を開く。

「次の日の夜、約束通り桜花はまたやってきたわ」

 

 コツコツと窓を叩く音が響いた。

 翡翠は初めてその音を聞いたように首を傾げる。

 実際、曖昧な意識は昨夜の出来事を確かなものとして認識することができなかったのだ。

 翡翠は昨夜と同じように窓を開ける。

「…真珠」

「真珠じゃないよ」

 昨夜と全く同じ呼び掛けに、僅かに苦笑しつつ現れた桜花は、しかし、焦れることなく応えた。

 今夜は部屋に入ってすぐに窓を閉め、帳を軽く巻き上げつつ、翡翠と並んでベッドの端に腰掛ける。

「約束したものを持ってきた」

「…約束?」

 ぼんやりと問い返す彼女の細い手に、掌に収まるくらいの大きさの丸い手鏡を持たせる。

「…ああ……ああ、そうだわ。有難う…」

 翡翠の緑色の瞳に、僅かな輝きが宿る。

 

 この鏡は見覚えがある。

 そうだ、十六の誕生日に真珠と揃いで造ってもらった手鏡だ。

 

 そう気付き、翡翠は手鏡を胸に抱き寄せる。

 桜花はその胸に引き寄せられた鏡を一瞥してから、彼女に向かって微笑んだ。

「やるよ、この鏡」

「…え?」

 

 このひとは一体何を言っているのか。

 あげるも何も、この鏡は元々彼女のものなのに。

 

 首を傾げる彼女に構わず、桜花は言葉を継ぐ。

 

「この鏡を見て、その気になったら出てくるといい」

 

「……何のこと?」

 謎めいた言葉にますます首を傾げる彼女の肩を軽く叩き、桜花はすぐに部屋から出て行った。

 

 残された翡翠は、ぼんやりと手の中の鏡を見詰める。

 鏡面の裏に刻まれた花模様を指でゆっくりと辿りながら。

 そうして気付いた。

 

 彫り込まれた花の中央、花芯に当たる部分に埋め込まれた小さな宝玉。

 彼女のものはその名と同じ翡翠が埋めこまれている筈だ。

 しかし、そこに埋め込まれ輝いているのは翠色の宝玉ではなく、白く艶やかな……

 

「真珠…?」

 

 そうだ、この鏡は彼女のものではない。

 双子の姉、真珠のものだ。

 それを何故、あのひとが持っていたのだろう。

 真珠に良く似た…とても綺麗なひと。

 

 困惑しながら、翡翠は鏡を裏返した。

 そして……

 

「ああ……」

 

 鏡面に映し出された真実に、彼女は安堵とも絶望ともつかぬ声を漏らしていた。

 

 ……そこに居たのは年を経た自分の姿だった。

 

 それを認めた瞬間。

 

 目隠しを取り払われたように、彼女は全てを思い出したのだった。



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