面影
面影 26
そのとき。
小さく呻き声をあげながら、緑真が目を開いた。
「動けるか?」
桜花の言葉に無意識に頷きながら、ゆっくりと身を起こす。
そうして、傍らの砂月の姿を目に捕らえ、ぎくりと身を強張らせた。
「緑真…」
砂月の呼び掛けに、緑真は目を伏せる。
無言の彼に、今度は桜花が問い掛ける。
「緑真。砂月を襲ったのはお前だった。そう考えて間違いはないか?」
その言葉に緑真は頷き、やっと口を開いた。
「…言い訳は致しません。主家に連なる方のお命を狙ったのです。どのような裁きでも受ける覚悟です」
「その前に教えてくれ。緑真、君は何故、僕を殺そうとした?僕の何が君の殺意を促すものになったのだろうか?」
「…砂月様には何の咎も御座いません。全ては私の身勝手な妄執の所為なのです。悪いのは全て、そこから逃れることのできなかった私なのです」
「その妄執とは一体?」
問い掛けても、緑真はひたすら自分が悪いのだと繰り返すばかり。
「緑真。僕たちはこうして実際に君に襲われ、桜花は僕の代わりに怪我さえ負ったんだ」
「…申し訳ありません。どんな罰でもお受け致します」
「だから、そう謝られるだけで、理由も教えてくれずでは、納得できない」
「……」
頑なに口を閉ざす緑真の様子を眺めていた桜花が不意に口を開く。
「緑真。お前はもしかしたら、他の誰かの為にその理由を伏せているんじゃないか?」
その言葉に緑真は明らかに動揺した。
「…いいえ。いいえ!そのようなことは御座いません!!全ては私の…私だけの罪…!」
「もういいわ、緑真……」
言い募る緑真を遮ったのは、思わぬ声だった。
何処か星砂にも似て澄んだ、しかし、儚げな声。
この声は……
だが、そこに以前はあった虚ろな響きがない。
声が聞こえた背後の茂みに目をやった砂月は思わず絶句する。
「…翡翠様……」
緑真が驚愕と安堵、混乱の入り混じった声で呟く。
そう、そこに佇んでいたのは、塔から突如姿を消した砂月の母、翡翠だった。
彼女はおぼつかない足取りながらも、自分の力で、彼らの方へゆっくり歩いてくる。
そのこと自体も驚きだったが何よりも、
「…翡翠様、私が分かるのですか…?」
緑真は呆然と呟いた。
自らの心の時間を止め、傍で仕える緑真のことさえ見分けられなかった彼女が。
「ええ…」
応えながら近付く彼女が、途中で足元の草に足をとられる。
よろめいた彼女を、素早く動いた桜花が支えた。
「…有難う。貴方は真珠…じゃなかったわね。一度名前を聞いたかもしれないけれど…」
もう一度、教えてくれるかしら?
そう見上げて問うた彼女に応えて、桜花は微笑む。
「桜花。真珠の子供だ」
「オウカ…そう、真珠の……やっぱりこうして見ても良く似ているわ。気の強そうなところなんてそっくり」
桜花は軽く笑みを零す彼女に笑みを返し、その手を引いて、砂月たちのところまで導いた。
草の上に脱いだ上着を敷き、彼女を緑真の正面に静かに座らせる。
一度しか会ったことがないにしては、親しげな二人の様子に、砂月は不審を憶えた。
同じく不審気な様子の緑真と向き合う彼女の瞳は、確かに目前の彼の姿をはっきりと映し出している。
それは、彼女が間違いなくこの現実へと戻ってきたことを示していた。
十七年もの間、その心を別の世界に漂わせていた翡翠。
それが、一体どのようなことがあって、こうして戻ってくることができたのか。
「翡翠様、一体何故…?」
問い掛ける緑真を見詰め返した翡翠は、次いでゆっくりと砂月と視線を合わせる。
僅かに細められた瞳は、砂月を想い人そのものとして見る真摯なものから、その面影を追うものに変わっていた。
「私が夢の世界から抜け出す切っ掛けをくれたのは桜花なの」
静かに砂月から目を逸らし、翡翠は傍らの桜花を見上げてそう言った。
「何だって」
「何ですって」
驚いて同様の言葉を発した砂月と緑真に、桜花はちょっと微笑んで見せた。
「大したことはしていない。鏡を渡しただけだ」
そうして二人は、ブランシエル家で桜花と多くの時間を過ごした砂月、そして、長い間翡翠の世話をし続けていた緑真でさえも知らなかったことの経緯を語り始めた。
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