面影


   面影 23

 

「…桜花(おうか)

 無言で庭をずんずん歩く桜花に引っ張られながら、砂月(さづき)は呼び掛ける。

「桜花」

「…何だ」

 二度目の呼び掛けに、やっと応えた桜花は、歩調を緩め、やがて立ち止まった。

 掴んでいた腕も離したが、不機嫌そうな表情や声はそのままだ。

 明らかにまだ怒っている。

 そんな桜花を目にしたのは初めてだったので、砂月は少々戸惑っていた。

 それでも、訊きたいことを口にする。

「桜花、君はいつから話を聞いていたんだい?」

「お前の自称後見人が、あの馬鹿と言い合いを始めたときからだ」

「じゃあ、殆ど最初から聞いていたんだね」

「ああ。俺が出て行ったら、ますますこじれそうだと思って隠れていた。だが、失敗したな。もっと早く出て、あの馬鹿を黙らせるべきだった」

桜花は忌々しげに舌打ちする。

 その言い様は桜花が自分を軽んじた大地(だいち)よりも、瑪瑙(めのう)の方に腹を立てていることを示していた。

「どうしてだい?」

「え?」

 思わず零した問いに、桜花は眉根を寄せたまま、怪訝そうな表情で見上げてくる。

「どうして、瑪瑙に対して、そんなに怒っているんだい?」

「どうしてって、あいつは根拠のない理由で砂月を侮蔑したじゃないか!」

「大地には怒らないの?彼は君自身を侮蔑したんだよ?」

「そんなものは後でいいんだ!!」

 噛み付くような応えに、砂月は一瞬、言葉を失う。

 次いで、笑みが零れ出てしまう。

 くすくすと楽しそうに笑い出した砂月の様子に、桜花は目を丸くする。

 しかし、すぐに細い眉を顰め、今度は砂月の胸倉を引っ掴んで、顔を寄せてきた。

「お前こそ、何故、瑪瑙に怒らない?何故、そうやってヘラヘラしていられるんだ」

「ちょっと…ちょっと待って……」

 桜花は睨み付けてくるが、砂月は笑うのを止められない。

 桜花はますます不愉快そうに、眉根を寄せる。

 砂月の胸倉を掴んだ手に力を込め、砂月を見上げながら、苛立たしげに舌打ちした。

「でかいな」

「え?」

 何の脈絡もないような言葉に、ようやく砂月の笑いは止まる。

「何だって、お前はこうでかいんだ。話にくいことこの上ない。いや、お前だけじゃない、この国の人間は皆でかい。お蔭で、ここにいると、俺は自分がとてつもなく小さいんじゃないかと思えてくるんだ。お前、もう少し縮んだらどうだ!」

「そんな無茶苦茶な……」

 理不尽な文句を付けられて、砂月は思わず苦笑を零す。

 しかし、いつも相手を気遣うばかりだった桜花が、こんな他愛もない文句を付けてきたことが、砂月には嬉しかった。

 そして、彼が自分のことよりも砂月のことに、憤っていることが嬉しかった。

 砂月は微笑みながら、自分の胸元を掴んでいる桜花の細い手を、片手で包むように握って、微妙にずれた話題を戻す。

「…まあ、瑪瑙に腹を立てなかったかと言えば嘘になるけど」

「…だったら何故!」

「僕が怒ろうとしたら、桜花に先を越されてしまったんだよ」

 砂月に手を握られたまま、桜花は目を瞬く。

「と、いうことは…俺はお前が怒る邪魔をした訳か?」

「そういうことになるね」

 砂月がしみじみと頷いてやると、

「そうか!それは悪かった」

桜花は慌てて掴んでいた手を離そうとする。

「謝ることなんかないよ」

 その手を今度は強く握り、砂月は桜花の華奢な身体を引き寄せる。

「有難う」

 桜花の澄んだ瞳を見詰めながら、囁くように、しかし、しっかりと噛み締めるように言葉を紡ぐ。

「君が代わりに怒ってくれたから、僕は必要以上に怒りを溜め込まなくて済んだんだ」

 だから有難う、と繰り返すと、桜花は困ったように一瞬長い睫を伏せる。

 しかし、すぐに真っ直ぐ砂月を見上げた。

「…砂月も俺の代わりに怒ってくれただろう。だから、お互い様だ。礼を言う必要なんかない」

 そう言って微笑んだすぐ目の前にいる少年を、砂月はふいに抱き締めたい衝動に駆られた。

 

 そうだ。

これが桜花なのだ。

 彼には嘘偽りなど一つもない。

 その言葉も行動も、その存在自体も。

 こうして間近で彼の澄んだ瞳を見れば一目瞭然なのに、今まで自分は一体何に惑わされていたのか。

 

 

 立ち止まった場所はちょうど、二人が初めて出会った湖だった。

 ごく自然に二人は並んで腰を下ろす。

「でも、桜花が怒ったのを見たのは初めてだったから、ちょっとびっくりしたよ」

「実のところ、俺はあまり感情を抑えるのが得意じゃないんだ。注意はしているつもりなんだが、こういうことがあるとやっぱり駄目だな」

 桜花は困ったように、整った指先で軽く頬を掻く。

 そんな彼の様子を眺めながら、砂月は何故、彼への疑念がなかなか消えなかったのか、その理由を思い知った。

 彼との付き合いの浅さも一片の理由としてあるだろう。

 しかし、一番大きな理由は、砂月自身の心にあった。

 疑念を持ち続けることによって、砂月は自分の心に歯止めを掛けていたのだ。

 

 その歯止めが外された今、否応なく自覚した感情がある。

 それは双子の姉の星砂(せいさ)に対する想いや、両親に対する複雑な感情とは全く別のもの。

しかし、それらと同じくらい強くこの胸に喰い込むものだ。

そして、この想いは砂月のこれからの未来を大きく変えていく程のものになるかもしれない。

 

心の片隅で危ういような予感を感じながら、ここで砂月は初めて、狩の日にあった襲撃のことを桜花に打ち明けた。

 

やはり、自分の能力のことについては言えなかったが。

いや、このことに関しては桜花への想いを自覚したからこそ、ますます言えなくなってしまったのだろう。

打ち明けたことが受け入れられなかった場合を考えると、今までにないほど心が竦む。

 

一方、桜花は先程とは違う、引き締まった表情で、砂月の語る襲撃事件の内容に耳を傾けていた。

聞き終えた後、暫く考え込むように、陽光を受けて輝く湖面を凝視する。

それから、鋭く傍らの砂月を振り返った。

「その犯人について俺には心当たりがある」

「え?!」

 意外な言葉に砂月は驚いた。

 

そのときだった。

 

先を継ごうとする桜花の肩越しにきらりと陽光を反射するものが見えた。

 それが何であるかを砂月は瞬時に認識する。

鋭く警告の声を発した。

「桜花!!」

 その声と殆ど同時に桜花は振り返り、自分に向かって飛来する矢をその目に捉える。

目にも止まらぬ速さで、懐から出した小刀で間近に迫った矢を叩き落とした。

 

 砂月も桜花もほっと一息つく。

 

 しかし…

 

 顔を上げた桜花が、一瞬にして顔色を変えた。

 その視線につられるように、振り向いた砂月の目に、恐らく桜花を狙った矢と殆ど同時に放たれたであろう矢が、すぐ目前まで迫っているのが見えた。

 

 避けきれない。

 

「砂月!!」

 

 細い手が硬直した彼の身体を思いも寄らぬほどの強い力で突き飛ばす。

 砂月は右肩から地に倒れ込んだが、すぐに体勢を立て直そうと起き上がった。

 

その目の前で……

 

 真紅の華が散った。

 

 

「桜花!!!」



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