面影
面影 19
「翡翠様、お食事とお薬で御座います」
消化の良いものを取り揃えた食事と小さな粉薬の包み、水差しとコップを載せた盆を捧げ持ち、緑真は塔にある一室へと入る。
翡翠はベッドの上に身を起こしていた。
背中を支えるように置かれた枕と幾つかのクッションに頼りなく凭れ掛かりながらも、彼女は声のする方へと首を傾け、はっきりと緑真の姿を捕らえる。
彼女がこのように現実にあるものをその目に捕らえるようになったのは、何年振りのことだろう。
緑真はそっと彼女の枕元の台に盆を置く。
翡翠が不意に口を開いた。
「…あの人はまだ来ないの?」
その言葉に緑真の表情が曇る。
「翡翠様、先にお食事とお薬を…」
「貴方はあの人をもう一度連れて来てくれると言ったわ……」
「…申し訳ありません。翡翠様とのお約束を忘れた訳ではないのです。必ずあの方をもう一度ここにお連れしますから、もう少しお待ち下さいませ。あの方に会う為にも翡翠様は少しでもお元気になられなくては。さあ、まずはお食事を」
再度促した緑真に、翡翠は抵抗せず、食事を取り分けられた小皿とスプーンを受け取る。
そうしてから、急に思い出したように、目の前の執事に問い掛ける。
「…そうだわ。ねえ、貴方、ここに鏡はないかしら?」
「鏡…で御座いますか?」
「ええ…だって、これからあの人に会うのだもの、少しでも身だしなみを整えなければいけないでしょう…?」
「……」
この豪奢な牢獄に等しい部屋には、鏡は一つも置かれていない。
手鏡でさえも。
「…申し訳ありません。この部屋には鏡はないのです。次には手鏡を忘れずに持って参ります」
「お願い…なるべく早く持って来てね。あの人が来る前に」
何処か幼げな、ふわふわとした口調で請う翡翠の姿に、緑真の顔が一瞬痛ましげに歪む。
この一連の会話は、実はこの二三日、緑真が彼女に食事や薬を運ぶごとに何度も繰り返されてきたものである。
まるで少女のような彼の主人は、砂月に出会った一件で、現実を取り戻したかのように見えた。
しかし、彼女の翠の瞳に映る現実は、歪んだ形でその心に投影されているようだった。
何度も同じことを問い、請う。
彼女自身はそれに疑問を抱くこともない。
それらの言葉は口から零れると同時に、彼女の頭の中からも消え去ってしまうようだった。
そうして、彼女は何度も叶わない願いを唱え続ける。
先日のような恐慌状態に陥らないだけましだといえるかもしれないが……
彼女の心は依然として、迷い続けている。
…もし、緑真が彼女の願いにどれか一つでも応えたならば、それが心の迷宮から彼女が抜け出せる切っ掛けになるのかもしれない。
が、その可能性に思い至りながらも、緑真は実行することが出来ずにいた。
取り戻した現実に彼女の心が耐え切れずに壊れてしまうのではないかという大きな不安があったからだ。
彼女はもう長くない。
ならば、いっそこのままで……
しかし、同時にこのままではいられないだろうという予感もある。
彼女は己の息子に……いや、現実を見失うまでに想い続けた人の面影と出会ってしまった。
そして、同じように彼を想いながらも、別の者を選び、彼女の元を去った片割れの面影とも。
渦巻く不安を胸に秘めながら、緑真は彼女にゆっくりと食事を取らせ、薬を与える。
半分以上残った食事の皿を載せた盆を下げようと立ち上がる。
そんな彼を翡翠は見上げて、もう一つの質問を繰り返した。
「…ねえ、緑真は何処かしら?私の世話をしてくれるのは緑真の筈よ。貴方は…誰かしら?緑真より歳を取っているけれど、少し彼に似ている気もするわ……」
他ならぬ本人を目の前に、そう問う彼女に緑真は微笑む。
「緑真は休暇で実家に戻っておりますよ。代わりに親戚筋の私が、翡翠様のお世話を任されたのです」
「…ああ、そう、そうだったわね……」
翡翠はゆっくりと目を閉じた。
そんな彼女に丁寧に一礼し、緑真は盆と共に部屋を下がる。
扉を再び閉める為、懐から取り出した鍵を鍵穴に差し込もうとする。
その手が小刻みに震えた。
盆に載せられた皿が触れ合い、ガチャガチャと耳障りな音を立てる。
「…翡翠様……」
緑真はそのまま屈みこみ、誰に向けるともない悲痛な声を漏らした。
「…お願いです…もう…もう、お止め下さい……!」
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