面影


   面影 18

 

 勢子が獲物を追い立てる声が、丘の上まで聞こえてくる。

 すると、傍らに座っていた桜花(おうか)が、そわそわとし始めた。

 その様子に、やっと身を起こした砂月(さづき)が笑う。

「桜花、狩の様子が気になるのなら見に行ってもいいよ」

「え」

「ここの人たちがどんな狩をするのか興味があるんだろう?だったらこんな機会は滅多にないんだし、見に行ってくるといい」

 微笑んで勧める砂月に、桜花は薄い水色の瞳を輝かす。

「有難う。じゃあ、少しだけ」

そう言って、立ち上がったところで、気付いたように、

「あ、砂月は?」

と、問い掛ける。

 砂月は再び草の上に寝転んで応えた。

「僕の方は生憎狩には興味がないんだ。君が戻ってくるまでここに居るよ」

「そうか。じゃ、行ってくる」

 自分が行かないと言ったら、少々渋るかもしれないと思ったが、桜花は思いの他あっさりと砂月の言を受け入れた。

 嬉しそうな顔で、大木の陰で休ませていた自分の馬に跨り、瞬く間に丘を下っていった。

 そんな素っ気無いとも見える態度に、一瞬拍子抜けした砂月だったが、やはり桜花は少年だったのだな、と妙なところで改めて納得する。

青銀の髪を翻しつつ、馬を駆って行く生き生きとした表情は、当り前ではあるが、好奇心旺盛な少年そのものだ。

 しかし、外見はどう見ても、楚々とした美少女なのである。

 その不釣合が却って面白くて、砂月は一人でまた、笑ってしまうのだった。

 

 それからは、何を考えるともなく青い空を眺めていた。

 風に揺れる葉擦れの音と共に、花の蜜を探す小さな羽虫の音が聞こえる。

 砂月は静かに目を閉じた。

 

 

 いつの間にか、眠っていたようだった。

 はっと気付いて身を起こしてみるが、先程からあまり時間は経っていないようだ。

 桜花もまだ戻って来ない。

 木陰にずっと待たせている馬はどうしただろうと急に気になって、砂月は大木の下へと向かう。

 そのときだ。

 

 避けられたのはほんの偶然だった。

 

 小さく風を切るような音が耳元を過ぎる。

 それは鋭い音を立てて、正面にあった木の幹へと突き立った。

 木陰でゆっくりと草を食んでいた馬が驚いたように、頭をもたげ、身じろぐ。

 砂月は幹に突き立った矢を認めるとすぐに、周りへと視線を巡らせた。

 

 緑と風の自然が奏でる微かな音の他は何も聞こえない。

 何処までも静か。

 

 先程の矢音に驚いた馬もすぐに落ち着いていた。

 放ち間違えた矢が飛んできたと解釈するには、あまりにも狩の喧騒が遠過ぎる。

 

 この矢は明らかに自分に向けて放たれたものだ。

 

 砂月はやや足早に木へと近付き、鋭く突き立った矢を強い力で引き抜いた。

 変わらず周囲の気配を探りながら、手にした白い羽の付いた矢を凝視する。

 

 誰だ。

 

矢柄の部分を持つ手には、いつの間にか強い、強い力が込められている。

眼鏡の奥の紅い右目が、自ら光を発して、煌いた。

 

 その瞬間。

 

 砂月の握った矢が、形を無くす。

 一瞬で細かな粒になり、手の中から零れ、風に浚われていった。

 

…しまった。

 

 砂月は思わず舌打ちする。

 貴重な証拠を灰にしてしまった。

 こうして、感情が高ぶると、能力(ちから)の統制が出来なくなる。

砂月は握る物を無くした手を開いた。

 己の白い掌を眺める。

 

 ここ数年で大分大きくなった手。

 しかし、指が長く、繊細な印象を与えるところは変わらない。

 

 砂月は思わず軽い声を立てて笑う。

 軽さの中に陰鬱さが含まれた自嘲の笑い。

 何の穢れもないように見える、己の手の白さが滑稽だったのだ。

 

 触れるものを一瞬で灰にすることのできるこの能力。

 

これこそが砂月の抱える最も大きな秘密なのだ。

 幼い頃は今以上に統制が出来なくて、度々触れるもの、本やカップ、或いは植物、ときには小動物に到るまで灰と成さしめていた。

 そんな場面に遭遇するのは、専ら彼の養父母だった。

 養父母は確かに優しい人たちでもあったから、貴城の家から追い出されることはなかったが、いつも腫れ物に触るように砂月に接していた。

 砂月の持つものが、この他にはない右目だけであったなら、彼らもそこまで注意深く砂月と接することはなかっただろう。

彼らは砂月の紅い右目に潜む尋常ではないこの能力こそを恐れていたのだ。

 砂月は幼い頃から、能力の発現の度に、養父母から恐れに満ちた視線を注がれ続けてきた。

 そんな彼らと親子の絆など結べよう筈もない。

 この能力を、紅い右目と共に何よりも恐れていたのは砂月自身であったのに。

 そんな彼に、真っ直ぐ向き合ってくれたのは結局星砂(せいさ)だけだった。

 

 桜花は…どうだろうか。

 

 この能力を目の当たりにしても、彼は今までと変わらず自分と接してくれるだろうか。

 

 取り留めない思考に囚われていた砂月は、丘を登ってくる蹄の音によって現実に引き戻される。

 視線を向けると、馬に乗った桜花が、こちらに戻って来るのが見えた。

 その細腕に弓を携えて。

 砂月は一瞬息を呑んだが、その驚きが桜花に悟られる前に、素早く穏やかな表情を取り繕う。

「それ。どうしたんだい?」

 砂月の問いに、傍近くで馬から降りた桜花は屈託なく、応えた。

「ああ、最初は見てるだけだったんだが、途中から狩に参加させて貰った」

「収穫は?」

 その問いに応えようとした桜花は、砂月の顔を見て、大きな澄んだ瞳を驚きで見開く。

「砂月。その傷は一体どうしたんだ?」

 言われて初めて、砂月は己の負った傷に気付く。

 先程の矢は完全に避けきれた訳ではなく、僅かに頬を掠ったらしい。

 白い頬に走る一条の傷から、まだ温かい血が流れていた。

「ああ…そこの草陰で居眠りでもしている間に葉で切ってしまったのかな」

 何でもないことのように呟いて、流れる血を無造作に指先で拭おうとする。

 それを止めて桜花は、懐から小袋を取り出す。

中から消毒液に浸した小さな布を何枚か取り出して、砂月の頬の血を拭い、傷を清める。

桜花はこんなときでも常に簡易の医療道具を持ち歩いているらしい。

手早く簡単な治療を施しながら呟くように言う。

「草で切ったにしては傷が深いようだが」

 その言葉に、砂月は肩を竦めるだけで応えた。

 

 先程の襲撃について桜花に語る気にはなれなかった。

 第一、語ろうにも証拠の品を砂月自身が駄目にしてしまったのだ。

 とは言え、桜花ならば証拠などなくても、砂月の話を信じてくれるだろう。

 そう心得ていても、どうしても話せなかった。

 

「桜花。君は…」

 本当に真っ直ぐ丘を登ってきたのか。

 思わず問いを投げ掛けようとして、口を噤む。

「俺が、何?」

「いや、なんでも…」

 首を傾げる桜花に、砂月は曖昧な笑みを見せながら首を振る。

 桜花は彼らしい気遣いで、砂月を問い詰めるようなことはしなかった。

「狩はもう終わりだそうだ」

「そう、じゃあ戻ろうか」

 治療を終えた桜花の言葉に応えて、砂月は馬に乗り、桜花と共に狩の一行の元へと向かった。

 

 

 砂月たちが狩の一行と合流したとき、彼らは本日の獲物を数えているところだった。

 そんな中、瑪瑙(めのう)が目敏く桜花を見付け、彼を無理矢理引っ張るようにしながら、しとめた鳥が並べてある場所へと連れて行く。

 桜花が迷惑そうに眉を顰めるのを物ともせずに、捲くし立てるように、ひたすら彼の狩の腕を称えている。

 砂月がそんな様子を眺めていると、緑真(りょくしん)が傍らへとやって来た。

「桜花様は枝に止まっている鳥ではなく、空を飛んでいる鳥を矢で射止めたのですよ」

「飛んでいる鳥を?」

 驚いたように訊き返した砂月に、緑真は瑪瑙よりは控え目に、しかし、心の底から感服したように頷き、言葉を続ける。

「ええ、桜花様は、まぐれだと仰っておられましたが、とても狩をするのが初めてとは思えません。桜花様は素晴らしい腕をお持ちでいらっしゃいます」

 桜花の仕留めた獲物はその一羽だけだったと言うが、数よりもその腕の良さに狩の一行は、心を奪われたらしい。

 しかし、砂月はそんな話に感心するだけではいられなかった。

 

「緑真」

「何で御座いましょう?」

 忠実な執事に、砂月は慎重に問い掛ける。

「桜花以外に狩をしている最中に、一行から離れた人はいるかな?」

 緑真は砂月の質問に怪訝そうな顔をしながらも応える。

「私も動き回っておりましたから、はっきり断言は出来ませんが……瑪瑙様はもちろん、私ども、使用人を含めてもそのような者はいなかったと思います。砂月様は何故そのようなことを?」

「…いや、今の質問は忘れてくれ。下らない理由なんだ」

 

 …そう、本当に下らない、馬鹿げた理由。

 

 やっと、瑪瑙から離れることの出来た桜花が、こちらへやって来る。

 途中で砂月と目が合い、水色の瞳を綻ばせる。

 結い上げた青銀の髪が煌き、白い美貌を彩る。

 

 ……胸の底に蟠り始めたものがある。

 

 砂月はそれが自分でも信じられなくて、嫌で嫌で堪らない。

ともすれば湧き上がってこようとする不快さをどうにか堪えて、砂月はどうにか、無邪気に微笑む桜花に微笑み返した。



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