面影


   面影 17

 

砂月(さづき)、乗馬の経験はあるか?」

「多少は。桜花(おうか)は?」

「俺も多少だ」

 新たに引かれてきた馬に、後から加わった桜花と砂月が跨り、一行は狩へと出発した。

 二人分の弓と矢も用意されたのだが、桜花も砂月もそれらを受け取るのを断った。

 桜花がどうなのかは知らないが、狩に関しては全くの素人である砂月は、元より狩に参加する気はなかった。

 だから、狩場である森に着いた後は、別行動をすることに決めていた。

 

 辿り着いたブランシエル家所有の森は、屋敷から程近い場所にあり、思っていたよりも広大だった。

 「多少」と口にはしたが、育てられた貴城(きじょう)家が、牧場を持っていた関係で、砂月はかなり馬に乗り慣れていた。

周りから見ても、全く危な気なく、馬を操っている。

 傍らを進む桜花もまた、驚くほど上手く馬を乗りこなしていた。

「何処が「多少」だって?」

「同じ言葉を君に返したいね」

 馬上でそんな軽口を叩きつつ、木漏れ日の降り注ぐ中、砂月は緑の濃い香りのする空気を胸に吸い込んだ。

 

 緑真(りょくしん)に狩の現場になる大体の場所を確認して、桜花と砂月は狩の一行から離れる。

 桜花を呼び止めたそうな瑪瑙(めのう)のことは、敢えて無視をする。

 軽快な蹄の音を響かせながら、二人を乗せたそれぞれの馬は森の小道を駆けていく。

 爽やかな風が頬を撫でていくのが、清々しい。

 なるほど、これはいい息抜きになりそうだ。

 

 次々と過ぎる木々の合間から小高い丘が見えた。

そこに一際大きな木が一本、緑の頭を覗かせている。

 丘へと続く小道は二人のいる森まで続いていた。

「砂月」

 傍らを進む桜花が呼び掛ける。

「何?」

「あの丘の木まで競争!」

 そう言うや否や、桜花はその綺麗な顔に悪戯っぽい笑みを閃かせて、馬腹を蹴り、丘を目指して一気に駆けていく。

「あっ、ずるいぞ、桜花!」

 一瞬遅れて、砂月も慌てて、馬の腹を蹴った。

 

「俺の勝ちだ」

 結局紙一重の差で、桜花が先に終着点へ辿り着いた。

「始発から不意打ちだったじゃないか。この勝負はなしだよ」

「なんだ、そんなことを気にするなんて砂月は小さいな」

「公平だと言ってくれ」

 そんなことを言い合いながらも、笑みが零れる。

 

 それから、二人は馬から降りて、丘の上に寝転がった。

 青い空をゆったりと泳ぐ白い雲を見上げながら、砂月は呟く。

「有難う」

「?何が?」

 とぼける桜花の方へ身体ごと向き直り、砂月は微笑む。

「狩の誘いに応じたのは、僕を気遣ってくれたからだろう?」

「まさか。俺が行きたかっただけだ」

「二人でなければ行かないと断ろうとしたのに?」

「俺が二人で行きたかっただけだ」

 桜花はあくまでも砂月の為ではなく、自分の為だと主張する。

 このところ、両親のことでかなり滅入っていた砂月の傍に常にさり気なく居たのも、自分がやりたいからやったと言うことだろう。

 桜花は嘘を吐いている訳ではないと思う。

 しかし、ここまで他人を思いやる行動を、自分の為であると躊躇いなく言い切れる人間は珍しい。

 それだけ桜花が優しいということだろうか。

 或いは、彼は他人の為にならないどころか、他人をも傷付ける程の身勝手で強い願望を持ったことがないのかもしれない。

 

 危うささえ覚える程、純粋で、綺麗な人。

 

 そんな人間と出会ったのは、砂月にとって桜花が初めてだった。

 それでも、そんな彼の無意識の気遣いが嬉しいと素直に思う。

「それでも、有難う。いい気晴らしになったよ。出てきて良かった」

 感謝を込めて見詰めてくる砂月の穏やかな瞳と眼鏡越しに目を合わせた桜花は屈託なく、笑う。

「そうか、良かった。少し無理矢理だったから、砂月には迷惑だったかもしれないと思っていたんだ」

 輝くような無邪気な笑みに誘われるように、砂月の口元も綻んだ。

 

「…あれ」

 間近で桜花を眺めていた砂月は、彼の左耳にきらりと光る銀を初めて見付けた。

 耳飾りだ。

 それまでは軽く結んでいるだけだった桜花の輝く髪は、今高い位置できっちりと結い上げられている。

 その為に、無造作に降り掛かる髪に隠れて見えなかった彼の白く、形の良い耳がすっきりと見えていた。

 砂月は手を伸ばして、一筋、二筋落ちてきている銀糸の合間から、耳飾りのある白い耳朶に触れた。

 思った以上に柔らかな感触と、滑らかではあるが硬い感触を確かめる。

「随分小さな耳飾りをしているんだね。さっきまで気付かなかった。もしかして、ずっとしていた?」

「ああ」

 砂月は耳飾りを良く見ようと、桜花の近くへ顔を寄せる。

 それに応えて、桜花も寝転がったまま、左耳を突き出すようにしながら、身体ごと彼の方へ身を寄せた。

「…ああ、良く見ると花の形をしているんだね。これは……桜?」

「当たり」

 澄んだ声で返された言葉を耳元で聞きつつ、砂月は指先で花の形をゆっくりとなぞった。

 その名前と同じ花の形の耳飾り。

「君が自分で選んで買った…訳じゃないよね」

 何となく、桜花はそのようなことをしないような気がした。

 案の定、

「いや、貰った」

と、桜花は応える。

 その声音に滲む、誰かを懐かしむような響き。

 それだけで、桜花がこの耳飾りを随分大事にしていることが窺える。

 いや、大事なのは、耳飾りそのものではなく、その贈り主なのだろう。

 いつも身に付けていることからも、それは充分に伝わってくる。

 

 何となく、面白くない気分になりかけた砂月だったが、ふと気付く。

 心に浮かんだ疑問をそのまま口にした。

「もしかして、その耳飾りは(さき)一族にとって意味あるものなのかな?」

「良く分かったな」

 その問いに、桜花がくるんと首を回して、砂月と目線を合わせる。

「これは位を受け継ぐ際に渡される咲一族総帥の証なんだ。一族は皆、花の名を持っているんだが…後継者の名にちなんだ花を象った耳飾りを、総帥が手ずから作って贈るのが伝統になっている。これも先代だった(れん)…俺の父親が作ったものだ」

「君のお父さんが?」

 小さな耳飾りの精緻な細工は、職人の手によるものだろうと思い込んでいた砂月は驚く。

 とするならば、咲一族は…或いは総帥位を継ぐ直系に限定されているのかもしれないが、医術、語学のみならず、芸術的な才能もある程度磨かなければいけないということか。

「……凄いね、咲一族は」

「そうか?」

 生まれたときからそのような環境で育った桜花には、砂月の驚きが分からないようだ。

 

 それはともかく……

 この耳飾りの贈り主が桜花の父親だと言うのなら、彼がこれを大事にしている理由も分かるというものだ。

 しかも、彼は生まれてすぐに母親を亡くしている。

「…大事なお父さんの形見でもあるんだね」

「まあ、そうだな」

 少し照れたように、しかし、素直に父親への愛情を認める桜花の姿を、砂月は眩しいものを見るように眺めた。

 仲の良い父子だったのだろう。

 その絆は深いものだったのだろう、自分と星砂(せいさ)のように。

 しかし、やはり彼と砂月とは違う。

 桜花が、その父親と築いてきた愛は、時を経ても変わることない、真っ直ぐで曇りのないものなのだろう。

 砂月と星砂のように、時を経て、次第に噛み合わなくなった歯車のように、歪んだものではない。

 そんな家族との関わり方一つにさえ、桜花の内面の純粋さが窺える気がして、砂月は何ともいえない気持ちになる。

 それは淡い憧れに近い。

 しかし、そこには僅かな寂しさも含まれていて……

 これは、何だろう。

 暫し、そこにはない何かを見詰めて、考え込んでいた砂月だったが、振り切るように視点を元に戻す。

 そうして初めて、思った以上に近い距離で、桜花と見詰め合っていたことに気付いた。

 桜花の吸い込まれそうなほど澄んだ薄い水色の瞳がすぐ近くにある。

 砂月が視界を曖昧にしていた間も、桜花はずっと砂月を見詰めていたようだ。

 内心の動揺を隠し切れずに僅かに身じろいだ砂月の瞳の奥を覗き込むようにして、口を開いた。

「砂月は綺麗な眼の色をしているのに、何故それを隠すんだ?」

 心底不思議そうな響きを持った問いに、砂月はすぐに応えられなかった。

 彼の瞳に映る自分の顔。

その眼鏡の向こうに隠された瞳が、何故かいつもと違って見えた。

彼の言葉どおり、綺麗なものに。

 しかし、それはきっと桜花の綺麗な瞳が、その中に映すものさえ、浄化してしまう所為だ。

「君の瞳の方が何倍も綺麗だよ」

「お前、それは応えになっていないぞ」

 細い眉を顰めた桜花に、砂月は微笑んでみせる。

「君のように言ってくれる人は少ないんだよ。それに…僕自身、この瞳の色は好きじゃないからね。だから、自分でもあまり見ないよう、隠しているんだ」

 この瞳が好きではない最も大きな理由が、他にもあるのだが。

 そればかりは、桜花に告げることが出来ずに、砂月は口を噤む。

「何だか勿体無い気がするな」

 彼の様子に気付いているのか否か、桜花はそれ以上突っ込むことはせずに、率直な感想を漏らすだけに止めた。

「有難う。君にそう言って貰えると、少しはこの色もいいかなという気になってくるよ」

「…現金だな」

「そうかな?君の言葉だからこそ、そう思えるんだけど」

「お前の言うことは、ときどき分からないな…」

 穏やかな、それでいて底の知れない独特の笑みを浮かべながらの砂月の言葉に、桜花は少々呆れたように応えながら、やや勢いを付けて、身を起こす。

 それから技と厳しげに眉を顰めてみせた。

「こういう気晴らしもいいが、俺はここ三四日、まともな仕事をしていない。そろそろ拙い気がしてきたぞ」

「そんな。後、少なくても二三日は我慢しなくてはならないんだよ?」

「仕事の仕方を忘れてしまいそうだ…」

「まさか」

 技とらしいしかめっ面に砂月は思わず声を立てて、笑ってしまう。

 桜花と一緒に過ごしている内に、母との対面から抱えていた憂鬱が、払拭されたような気がした。



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