面影


   面影 16

 

 それから、二三日の間は砂月(さづき)桜花(おうか)も、翡翠(ひすい)と面談することはなかった。

 医者である桜花は時折彼女のことを気にするような様子を見せたが、砂月は普段の会話でも極力彼女のことには触れないようにしていた。

 二人は少なくとも表向きはのんびりと、互いの部屋で読書をしたり、二人が初めて出会った湖の辺を散歩したりなどして過ごしていた。

 二人の後見人を自称する者たちが、相変わらずそれぞれに接触を図ってくることはあった。

しかし、今の砂月にとってそれは既に気になるものではなくなっていた。

 

「こうしてのんびり日々を過ごすというのも随分久し振りだ」

 広大な庭の芝の上を、ゆったりと歩きながら、桜花は両腕を空に向け、大きく伸びをする。

 そんな姿を傍らで見詰める砂月は穏やかに微笑む。

(さき)一族の仕事は大変そうだものね」

「どうかな。比較したことはないから分からないが、やり甲斐はある」

「桜花は医術(いじゅつ)()として色々な国を旅してきたんだろう?今まで何カ国ぐらい旅してきたんだい?」

「う〜ん、何カ国だろう?数えてない」

 数え切れないほどの国々を旅してきたということだろう。

 砂月の他愛ない質問に、桜花は両腕を天に向けたまま、応える。

 白いシャツの袖から、更に白く滑らかな腕が覗いている。

 

 砂月は桜花と出遭ったときから彼を質問攻めにしていたが、それは今も続いていた。

 自分のこともそれなりに話すのだが、すぐに話題が尽きてしまうのだ。

 それに、自分勝手な話だが、自分のことに関しては正直話しにくいこともあった。

 もちろん桜花にもそれはあるだろう。

 しかし、その分を差し引いても自分と桜花とでは経験の差があるのか、彼に対して訊きたいこと、知りたいことは止め処なく出てくる。

 そして、桜花は砂月が投げ掛ける問いに、素直に嫌がらず応えていた。

 

「その間桜花は一人で旅をしてきたの?」

「ああ」

「言葉の上での不自由はなかったのかい?ああ、それとも、現地で通訳を雇ったりしていたのかな?」

「一介の医術師がそんな贅沢できる筈がないだろう?それに、元より通訳は必要ない」

「まさか、言葉が通じない地域では、標準言語と身振りで乗り切っていたのかい?でも、そんな曖昧な意思疎通で医術師としてやっていけるものなのかな?」

「それこそ、まさか、だ。医者としてはっきりした意思疎通を図ることは必要不可欠だ。だから、俺はいつも現地の言葉で話している」

「え?それって…」

 桜花の応えに、砂月は目を丸くする。

「…桜花。訊きたいんだけど、君は一体何ヶ国語話せるんだい?」

「数えたことはない。だが、咲一族が訪れたことのある国の言葉は、大体習得している」

「………凄いな」

 思わず感嘆の声を上げる砂月に、腕を下ろした桜花は、華奢な肩を竦めて見せる。

「必然的なことだ。咲一族内では医術と平行して、語学も徹底的に教え込まれるんだ。何せ日常会話からして、日替わりで使う言語が違っていた」

「……それも凄いな」

「しかし、生まれたときからそういう環境に身を置くからな、沢山ではあっても言語そのものを覚えることはそれ程苦じゃない」

「…へえ。彩和(さいわ)も咲一族を見習って、国家的にそういう教育をすれば、自国語以外は標準言語さえ覚束無い国民が多いという今の状況は生まれなかったかもしれないね」

「どうだろうな。しかし、砂月は結構話せるじゃないか。標準言語だけじゃなく、ロゼリア国語もかなり流暢に話せている」

「必死に勉強したんだよ。…初めの会話からして侮られたくはなかったからね」

「お前、相当な負けず嫌いだな」

 

 

 そんなことを話しつつ、屋敷に沿ってゆっくりと歩いていた二人は、いつの間にか庭の反対側、屋敷の正面玄関に辿り着いていた。

 すると、そこでは弓を持ち、矢筒を背負った緑真(りょくしん)が、馬屋番に何頭かの馬を牽いて来させていた。

彼の背後には、彼と同じく弓と矢を持った従者たちが数人控えている。

「これは、桜花様。砂月様も」

 こちらへやって来る二人にすぐに気付いた緑真が、一旦矢筒を肩から下ろし、深く腰を折る。

 緑真と従者たちの装いを眺めた桜花が言葉を掛ける。

「これから狩にでも出掛けるのか?」

「はい。領地内にある森で行うものですが」

 ロゼリア国では環境を守るという名目で、例え、私有地であろうとも森の動物の乱獲は禁じられている。

一月の間に狩る動物の数は、種類ごとにそれぞれ予め定められており、銃の使用も認められていない。

代わりに、銃より命中率は劣るが、古来のものを改良した弓矢を用いるのだ。

「随分徹底しているんだね」

「はい。ですが、この狩りも生活の為に行うものでもありませんから……」

 砂月の言葉に応えていた緑真がふと口を噤んだ。

 

「おお、これは桜花殿ではありませんか」

 声も仕種もやけに大きい狩装束を纏った初老の男が、屋敷玄関から出てきた。

 桜花の後見人を自称する瑪瑙(めのう)・イファス侯爵だ。

 彼は前ブランシエル公爵の甥である。

 先代の娘の婿となることで、爵位を継いだ現ブランシエル公爵、(らん)にとっては義理の従弟となる。

 その彼もまた、ブランシエルを出て、前イファス侯爵の娘と婚姻することで、その爵位を継いだ。

 しかし、侯爵という公爵に次ぐ爵位を持ちながらも、イファス家は相次ぐ事業の失敗によって没落の一途を辿っていた。

 それは資産家であり、名門でもあるブランシエルから、瑪瑙を婿として迎え、爵位を継がせた今も変わらない。

 いや、ますます没落の速度が増しているのではないかという噂である。

 そんなイファスの窮状を救うため、次期ブランシエル公爵の庇護を受けようというのか、それとも、イファスを見捨て、ブランシエルへと戻ってきた際に、なるべく良い立場を確保しておきたいだけなのか、その魂胆は不明だが、彼は桜花をブランシエルの跡継ぎとして担ぎ出そうとしている。

 そんなことをされても、桜花には恩を感じるどころか迷惑なだけなのだが、彼はそれを知らないし、そう告げたところで信じようとはしないだろう。

 詰まるところ、まるで価値観が違うのだ。

 

 瑪瑙は愛想良く、桜花に微笑み掛ける。

 傍らにいる砂月は、完全に無視だ。

「我々はこれから狩に出るのですよ」

「そうらしいな。緑真から聞いた」

 素っ気無い桜花の応えにも、瑪瑙はめげない。

「どうです?宜しければ桜花殿も御一緒に」

 そう瑪瑙が誘い掛けると、傍らにいた緑真も控え目に言葉を添えた。

「ずっと、屋敷内で過ごされていては退屈なさるでしょう。良い息抜きになるかと思いますが…」

 そうして、ちらりと砂月を見遣る。

 断ろうとしていた桜花は、その視線で緑真が砂月を気遣っていることに気付いた。

 砂月が翡翠の一件に衝撃を受けていることは桜花も分かっていた。

 この二三日、彼女のことに全く触れようとしないことが何よりの証拠だ。

 周りには朗らかに振舞ってはいても、時折、暗い表情が見え隠れする。

 緑真もそんな砂月の様子に気付いていたようだ。

 自分はともかく、確かに砂月には息抜きが必要だろう。

 そう考え、桜花は誘いに頷く。

「そうだな、行ってみようか。砂月も一緒で良ければ」

「…砂月殿も?」

 桜花の言葉に、瑪瑙が一瞬嫌そうな顔をする。

 やっと視線を桜花の傍らの砂月へと向ける。

 明らかに好意的ではない視線を向けられて、砂月は軽く肩を竦める。

 砂月も桜花や緑真の気遣いに気付いていた。

それは有り難かったが、目の前の男にこんな眼で見られてまで、狩に参加したいとは思わない。

「桜花。僕は別にいいよ。もし桜花が行きたければ一人で行ってくるといい」

「そうか。ならば俺も行かない」

 さっぱりした桜花の応えに慌てたのは瑪瑙である。

「…いや、桜花殿!そんなことは言わずに是非!砂月殿も宜しければ…!」

「僕が御一緒しては御迷惑ではありませんか?」

「いや!そんなことは御座いませぬぞ!」

 内心はどうあれ、桜花を釣る為に、瑪瑙は砂月を口説き始める。

「僕は狩をしたことがありませんので、皆様のお邪魔になってしまうと思いますよ」

「いやいや、この狩はそもそも遊び。お邪魔などということはありませぬ」

 遠慮する砂月をその気にさせようと、必死になる瑪瑙。

すると、再び緑真が言葉を添える。

「私たちの狩に無理に御参加なさる必要はないかと思います。ただ、狩の様子を御覧頂くだけでも…或いは途中から別行動なさっても宜しいかと。馬を走らせるだけでも多少の息抜きにはなりましょう。如何でしょうか?桜花様、砂月様。瑪瑙様も」

「…おお!そうだな!そうですぞ、砂月殿!」

 緑真の上手い助け舟に、瑪瑙は何度も頷く。

 随分と調子の良い男である。

 彼の様子を眺めながら、砂月は己の後見人のことを思い出した。

 二人は互いに、敵対していると言うが、この調子の良さという点では似た者同士だ。

「そういうことなら、行ってみよう、砂月」

 黙ってやり取りを聴いていた桜花が、笑みを堪えつつ、最後に誘い掛ける。

「そうだな。桜花がそう言うなら…」

 やっと砂月も苦笑を堪えて、頷いた。

 固辞し続けるのも馬鹿らしい。

 しかし、そんな思いは尾首にも出さず、砂月は目の前の男に微笑み掛け、殊勝な言葉を吐いた。

「それでは、御迷惑をお掛けするかもしれませんが、宜しくお願い致します」



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