面影


   面影 15

 

 暫くの間、といっても実際はそれ程長い時間ではなかったが、砂月(さづき)は何も考えられなかった。

 一度外に出た方が良いと、桜花(おうか)に促され、塔から出ると、脱力したように壁に凭れながら芝の上に腰を下ろす。

 そうして、落ち着いてくるに従って、頭の中で苦い確信と不審が渦巻き始める。

 

 母が自分に重ねていたのは、紛うことなく父だ。

 そして、父はおそらく……

身篭った母を捨てたのだ。

 

 それは、昨日母に初めて会ったときから、察していたことでもあった。

 しかし、今日初めて知ったこともある。

 

 母の狂気の原因は父と……

 

「…桜花、念の為に確認させて欲しいんだけれど…」

「お前の父親と俺の父親が同一人物である確率は限りなく低い」

 桜花は砂月の不審を一蹴する。

(れん)…俺の父親は、黒髪碧眼。顔立ちの方も、お前とは全く似ても似つかない。写真も何も持っていないから証明することは出来ないが」

 桜花の言葉に砂月は静かに首を振る。

「いや…桜花が嘘を吐くとは思っていない」

「お前の父親と俺の母親の間に何らかの関わりがあったことは確かだと思うが……全くこんな状況で真珠(しんじゅ)の名前が出てくるとは思わなかった」

 桜花も先程の出来事にはかなりの衝撃を受けたのだろう。

 やや青褪めたように、白い頬をますます白くして溜息をつく。

「…大丈夫かい?」

「そっちこそ」

 砂月は震えるような溜息を吐きつつ、目の上に掛かる銀髪を掻き上げようとして、眼鏡を外されたままだったことに気が付いた。

 今までこの異様な瞳を隠すための眼鏡を忘れることなど一度としてなかったのに。

 この事態に自分がかなり動揺していたことを改めて思い知る。

 緑真(りょくしん)にこの目を見られたかもしれない。

 しかし、今更慌てたところでもう手遅れだ。

もし、緑真がこの瞳を見たことによって、砂月への態度を変えたとしても仕方がない。

 

桜花には既にこの瞳を見られている。

そして彼はこの瞳を欠片も気にはしなかった。

砂月が気遣わなければならないのは、緑真のみである。

その点、ここが隔離された場所であることが幸いしたようだった。

 

暫し、その場に沈黙が満ちる。

その間、砂月の頭の中を巡るのは、眼鏡のことではなく、母と父のことだった。

「……どういうことなんだろう?」

 砂月が呟くような声を漏らす。

 頭の中ではほぼ想像が付いていたが、このような疑問が口を突いて出た。

 桜花は、芝の上に投げ出していた脚を己の顎の近くまで引き寄せた。

 まるで砂月の想像を辿るように、何処か淡々とした口調で言葉を紡ぐ。

「今まで見聞きした話と翡翠(ひすい)の断片的な言葉から推測するに、お前の父親は、彼女と真珠の共通の知り合いだったみたいだ。そして、それは俺の父じゃない」

 

 貴方はやはり真珠を選ぶの……?

 

 耳に彼女の言葉が甦る。

「…彼は彼女よりも真珠さんに好意を持っていたんだろうか…」

「どうだろうな。だが、その男の想いがどうであれ、結局真珠は蓮と駆け落ちしてまで一緒になった訳だ。それから間もなくして、翡翠は問題の男の子を身篭った…」

 

 その男…砂月の父にとって翡翠は何だったのか?

 真珠の……身代わりだったのだとでもいうのだろうか?

 だから、子を成しても、結局彼は彼女を捨てたのだろうか?

 

 そんな思考を立てていくうちに、苦い気持ちが胸を塞いでいく。

 脳裏に甦る彼女の真摯な眼差し。

 

 あれほどまでに自分に恋焦がれ、子まで身篭った女性を父は捨てた。

 

 緑真は自分を母と祖父に似ていると言った。

 しかし、本当は彼らではなく、父に似ているのかもしれない。

 

 …母を捨てた父に。

 そして、恐らく…母の想いに応えることのなかった父に。

 

 苦い溜息が零れる。

 桜花の父と一緒になった真珠。

彼女は父のことをどう思っていたのだろう?

「…桜花は真珠さんから…父のことを一度も聞いたことはなかったんだよね」

 おそらく桜花は知らないだろうと思いつつ、訊いてみる。

「ああ、聞いていない」

「そんな素振りも見せなかった?」

「素振りも何も…」

 砂月の質問に、桜花は苦笑する。

「俺は真珠のこと自体憶えていないんだ。真珠は俺を生んですぐに亡くなったから…」

「そんなに早くに…?」

 現在、(さき)一族は桜花一人だというから、彼の両親は既に亡くなっていることは承知していたが……

「ごめん。変なことを訊いてしまったね」

 何となく気まずくなって、砂月は応えのない空しい質問をやっと切り上げる。

 

 ちょうどそのとき、塔から緑真が出てきた。

 暴れた翡翠を抑えた為に、顔に幾つか浅い引っ掻き傷が残っている。

 常はきちんとしている衣服も僅かに乱れていたが、彼は常と変わらぬ足取りで立ち上がった砂月たちの前まで歩み、丁重に腰を折る。

「砂月様、桜花様。大変申し訳御座いませんが、本日の面談はこれで終了とさせて頂けないでしょうか?」

「…分かった」

 予想通りの緑真の言葉に砂月は頷く。

 しかし、例え翡翠の容態が良くなって、面談することが可能になったとしても、彼女に会うことには、正直躊躇いがある。

 再びあの眼差しの前に己を晒すことに耐えられそうもない気がしていたのだ。

 

「あの…砂月様。お忘れ物で御座います」

 そんな彼に緑真は、呼び掛けながら懐から取り出した砂月の眼鏡を差し出した。

「幸い傷などは付いていないようです」

「ああ…有難う」

 砂月は差し出された眼鏡を受け取り、再び身に着ける。

 その滑らかな仕種を眺めながら、緑真がそっと言葉を紡ぐ。

「砂月様はお目が悪い為に、眼鏡を使用されている訳ではなかったのですね……」

 その言葉にはっとして砂月は緑真を見下ろす。

 彼の瞳にはやはり恐れが見えた。

 しかし、それは今まで他の人に見たものとは何処か違うような気がした。

 それでも、緑真はそんな恐れを態度に表すことはせず、いつもと同じ調子で再び頭を下げた。

 だから、砂月は緑真に感じた違和感を、他とは違う自分に対する態度に起因するものだったのだろうと解釈する。

「本日はお二人には大変なご迷惑をお掛け致しました」

「そんなことはないよ」

 相変わらずの緑真の態度を有難く思いながら、砂月が応えると、

「こっちもすまなかった。俺たちの所為で却って大変なことになってしまった」

桜花もそう言葉を添える。

 その言葉に穏やかに首を振り、もう少し翡翠に付き添うからと言った緑真と別れて、二人は屋敷へと戻る森の小道へと入った。

 

 暫くは双方とも黙したまま道を歩む。

 砂月の胸には、それまでの苦いものとは別の気持ちがこみ上げてきていた。

母は自分に愛する人の面影を重ねていた。

 

…そうして、一度も自分を息子として見ることはなかった。

 

そのことが、何ともやり切れない気持ちを砂月に抱かせていた。

翡翠の病を考えれば、仕方のないことであるし、自分だって彼女を母とは思えないと堂々と口にしていたのに。

 

それでも。

 

息子として、父の身代わりではない砂月として、母に見てもらいたかったのだ。

 

何と身勝手で図々しい願いだろう。

 

思わず、苦笑が零れる。

 すると、

「砂月」

桜花が急に立ち止まり、砂月を呼び止めた。

「…何?」

 砂月が振り向くと、桜花は手だけで顔を寄せるよう促す。

 何か、大きな声では言えない話でもあるのだろうか。

 素直に彼に近付き、身を屈めると、彼は突然砂月の眼鏡を取り去った。

 驚く砂月の瞳を真っ直ぐに見詰める。

その透明な眼差しは砂月の瞳を恐れるでもなく、また、その中に別の誰かの姿を求めるものでもなかった。

次いで桜花は華奢な腕をゆっくりと持ち上げ、砂月の頭を自らの肩に押し付ける。

 細い両腕で砂月の頭を優しく抱え込むようにしながら、桜花は砂月の耳元で静かに囁いた。

「お前が誰に似ていようと、お前はお前だ。誰かの身代わりなんかじゃない。砂月は砂月だ。俺はそう思っている」

 その声音はただ事実そのままを語っているかのように、淡々としていた。

 

 実際、ごく当り前の言葉でもあった。

 恐らく桜花は砂月の父を知らないのだから。

 しかし、彼のその言葉を耳にした途端、砂月は何故か泣きたい気持ちになった。

 頭を彼の肩に押し付けたまま、そっと腕を伸ばし、傍にあるか細い身体を抱き締める。

 

 涙は出なかった。

 しかし、砂月は自分よりも遥かに華奢で壊れそうな桜花の身体を、縋るようにずっと抱き締めていた。

 彼の印象そのままに、儚い温もり。

その今にも消えそうな淡い温かさが、砂月の胸の奥深くまで染み込んでいくような気がした。



前へ 目次へ 次へ