面影
面影 14
その日の午後、砂月は再び緑真に案内され、幽閉されている母に会うために、敷地の外れにある塔へとやって来ていた。
傍らには桜花がいる。
「これは…一体どういうことだ」
塔の前で、桜花は砂月以上に叔母が幽閉されているという事実に驚いていた。
険しい視線を向けられて、緑真が恐縮して説明する。
「……申し訳ありません。旦那様の指示で御座いまして……翡翠様は特殊な御病気でらっしゃいますから…」
「公爵家の体面がどうなのかは知らないが、特殊な病気なら尚のこと、このようなところに閉じ込めては治るものも治らない」
いつになく厳しい口調と表情に責められて、緑真はますます小さくなる。
「桜花。緑真を責めるのは筋違いだよ。彼は公爵の指示に従っているだけなんだから」
滅多に見ない桜花の様子に驚きつつも、砂月は彼を宥める。
すると、桜花ははっとしたように、表情を緩めた。
「…すまない、緑真」
心底済まなそうな顔をされて、緑真は恐縮しつつ首を振る。
「…いいえ。桜花様の仰ることは分かります。しかし、僭越ながら私は、翡翠様はこちらにおられた方が心安らかに過ごすことが出来るような気がするのです……」
その言葉に桜花は再び僅かに眉を顰めるが、一度翡翠に会った砂月には緑真の言うことが分かるような気がした。
心をこの世から解き放ってしまった彼女にとって、人目の多い屋敷内で好奇の目に晒されるよりも、この塔内のような静かな場所にいた方がいいのではないかと思えたのだ。
昨日と同じように、暗く長い塔の階段を昇る。
その塔の最上階にある部屋の鍵を緑真が開けるのを見て、桜花は、
「こんなところにまで鍵を掛けているのか…」
と呟き、溜息を吐いた。
扉が開かれる。
「どうぞ。私はこちらでお待ちしておりますので」
緑真に促され、桜花は砂月を見る。
「砂月。お前が先に入ってくれ」
「え?」
「お前は彼女の息子なんだろう?甥よりも息子が先に挨拶した方がいい」
「…分かった」
彼女はきっと分からないだろうと思いつつも、砂月は頷き、先に部屋へと入る。
昨日と全く変わらない部屋。
奥のベッドに横たわる人も、昨日のままだった。
少女のようにあどけない、しかし何処かくすんだ美貌。
昨日と変わらず、夢見るように煙る瞳を空間に漂わせている。
後から入ってきた桜花が、砂月の背後で息を飲む気配が伝わってきた。
そんな彼に微笑んでから、砂月は彼女の傍らへと近付き、投げ出された細い手を取りつつ、身を屈める。
「こんにちは、砂月です。今日は僕の従兄で、貴方の甥にも当たる桜花を連れてきましたよ」
彼女の耳に届く筈もない空しい言葉を紡ぐ。
そうして、砂月の言葉に応じて、桜花が一歩踏み出そうとしたとき。
思いも寄らぬ変化が起こった。
軽く握っていた手が強く握り返される。
そのことに驚く間もなく、ただ空を彷徨うだけだった瞳が、はっきりと砂月の姿を捕らえていた。
目を見開く砂月に向かって、翡翠は淡く、しかしはっきりと微笑みかけた。
空いている方の手をゆっくりと砂月の頬へと伸ばしながら、身を起こす。
事態に気付いた桜花が、近付こうとした。
が、彼女が初めて口を開き、発した言葉に再び立ち止まる。
「…ああ、あなた…あなた……やっと…やっと帰って来てくれたのね…」
砂月に寄り添うように身体を凭せ掛け、その頬に触れながら彼女は言う。
砂月を見詰める瞳は、親が子に向けるものとは明らかに違っていた。
それは……
彼女が自分の姿に誰を見ているのか、砂月はすぐに悟る。
悟ると同時に言い様のない嫌悪感が湧き上がって来る。
目の前の人に恋い焦がれるような目を向けられることがどうにも耐え難かった。
嫌悪感に身体も表情も凍らせつつ、砂月は一方で気付く。
自分はこの人のことを母とは思えなかった。
しかし、そう思っていたのは、己の理性的な部分であり、その実、感情的な部分はこの人を母であると受け入れていたのだと。
「…どうして黙っているの?あなたの声を聞かせて……だって…あなたなのでしょう…?」
熱い囁きを零しつつ、翡翠はゆっくりと細い手を伸ばし、動けない砂月の眼鏡を取り去る。
「…ほら、その瞳……やっぱりあなただわ…嬉しい…わたし、ずっと待っていたのよ……」
尋常ならざる紅い瞳を恐れ気もなく、真摯に見詰める母の姿は、何処か星砂にも似ていて……
そのことに気付いた衝撃と身に巣食っていた嫌悪に、砂月は思わず彼女の手を振り払っていた。
突然のことに、彼女は目を見開く。
「僕は…違います……」
砂月はやっとのことで絞り出すように声を出す。
その様子に彼女は戸惑うように瞳を揺らした。
「…何を言っているの…?」
「砂月!」
尋常ではない様子に、桜花も思わず、声を発する。
その澄んだ声は砂月よりも、傍らに居た彼女に思いも寄らない効果をもたらした。
ビクリ、と身体全体を震わせて、今初めて砂月以外の人物の存在に気付いたように、恐る恐る首を巡らせる。
その瞳が桜花の姿を捕らえたと同時に、大きく見開かれる。
「…真珠…?」
それは彼女の双子の姉、桜花の母親の名。
桜花を見据えたまま、その痩せた身体ががくがくと震え出す。
瞳を見開いたまま、砂月に振り向く。
「何故…どうして……あなたはやはり真珠を選ぶの……?あなたの子を身篭ったわたしよりも…?あなたの子を……」
彼女は縋るように砂月の手を掴む。
「…っ!」
その尋常ではない力に思わず砂月は眉を顰めた。
虚ろでありながらもその手と同じくらい強い、強過ぎる視線で砂月を縫い止めながら、彼女は必死に自らの腹部を探る。
己の子が宿る膨らみを探しているのだ。
彼女の子は今、目前にあり、幾ら探ったところで、最早膨らみなどあろう筈もない。
しかし、おそらく子を身篭ったときのまま、自らの時間を止めてしまったのだろう彼女はそのことが分からない。
幾ら探っても証が得られないことに、ついには恐慌状態となる。
「…いや……嫌ああぁぁぁ!!」
「翡翠様!!」
血を吐かんばかりの叫び声に、部屋の外で待っていた緑真が驚いて、中へ飛び込んでくる。
医者である桜花も、彼女に近付こうとするが、彼を姉と信じ込んでいる翡翠は、怯えてますます恐慌状態となる。
「翡翠様!翡翠様!!…どうか、どうか落ち着かれて下さいませ!!」
必死に身体を抑えようとする緑真を跳ね飛ばしそうな勢いで、彼女は波打つ銀の髪を振り乱し、暴れる。
悲鳴の合間に何故、どうして、と熱に浮かされたように呟きながら。
砂月も桜花も呆然として、その場から一歩も動けなくなってしまった。
「…っ砂月様、桜花様、…申し訳御座いませんが…一度…お部屋の外でお待ち頂けますでしょうか?」
翡翠の爪に頬や腕を傷付けられながら、どうにか緑真はそう言葉を紡いだ。
その言葉に先に反応したのは、桜花だった。
未だ呆然としている砂月の腕を掴み、戸口へと向かう。
彼に促される形で、部屋を出るところで、砂月は昨日と同じ視線に振り向く。
彼女はようやく幾らか落ち着いてきたらしかった。
緑真に身体を横たえられ、着衣の乱れを整えられながら、彼女は乱れた髪の合い間から昨日とは反対に真っ直ぐ砂月の姿を捕らえていた。
しかし、彼女が見ているのは砂月ではない。
その人に向かって彼女は声にならない言葉を紡ぐ。
何故。
どうして。
と。
その真摯な眼差しに、嫌悪とは別の息苦しさを憶え、逃げるように砂月はそれから目を逸らした。
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