聖なる水の神の国にて〜懐秋〜

 

   揺らめく心 4

 

 流星(りゅうせい)の攻撃に、触手を伸ばそうとしていた黒い影は、萎縮したように僅かに小さくなった。

 今までにない手応えだ。

 また、襲い掛かろうと蠢き始めた影を見据えながら、流星は再度、掌に気を集める。

「大分手慣れてきたか」

「ぬかせ」

 軽口を叩き合う余裕もある。

 必要に迫られてではあるが、確かに、大分能力の使い方を心得てきたようだ。

 しかし、この手応えは、間違いなく霊の正体を看破したことよるもの。

 流星は、油断なく黒い影の動きを見据えながら、もう一度きっぱりとその正体を口にした。

 

「そう、母親だ」

 

 祖父たちの手によって陥れられ、その命を奪われたティーンカイル家の先々代の跡継ぎ。

 その母親。

 祖父とその係累に恨みを抱く者が、当の本人でないとすれば、彼に近しい、

彼を慕わしく思っていた者がそうであるに違いない。

 それが女性であり、一族と関わりのある者であるならば、一番可能性があるのは母親ではないのか。

 

 このひとの形さえ失った霊が、流星の言葉を聞き分けたかどうか分からない。

 しかし、目の前の黒い塊が、僅かに揺らめいた気がした。

 一瞬後、襲い掛かってきた影を紙一重で躱し、もう一度溜めた気を叩き付ける。

 黒い影の一部が千切れて霧散した。

 だが、決定打にはならない。

「流星、この霊の心臓に当たる部分は、もう少し右だ」

 視る能力に長けた華王(かおう)には、この霊の弱点も見えるらしい。

冷静に狙うべき場所を指摘してくるが、動く的が相手では、そこを上手く突くことができない。

おまけに、攻撃する流星にはその場所が見えない。

「全く、中途半端な能力だぜ!」

 流星は盛大に悪態を吐きながらも、攻撃を続ける。

 しかし、高い集中力を要するこの攻撃を続けるには、限度がある。

 次第に息が上がり、掌に込められる気も徐々に小さなものとなる。

 それに呼応するかのように、黒い影は大きく拡がる。

「ちっ!」

 何度目かの攻撃が、相手の黒い体を掠めたのみとなったのに、思わず舌打ちしたとき。

 

「くっ…!」

 僅かな苦悶の声にはっと振り返ると、背後にいた華王の手首に黒い触手が巻き付いていた。

 相当強い力で締め上げられているのか、血の通わなくなった手が、常より一層白くなっている。

「華王!!」

「大丈夫だ!お前は…気を散らすな!!」

 思わず助けに走ろうとした流星を、細い眉を顰めながら、華王が止める。

 すると、流星の目が華王へと移った、その一瞬の隙を突いて、拡がった黒い影が流星へと覆い被さってきた。

「流星!!」

「うっ…!」

 瞬く間に、全身が黒い靄に包まれる。

 同時に、暗鬱な響きを持つ声が直接頭の中に届いてくる。

 

 ……ユ…ルセナ……イ………

 ナ……ゼ…?

 

 繰り返される絶望的な声に、こちらの心まで黒く染め上げられてしまいそうだった。

 もがくように頭を振るが、纏い付く声は止まない。

 

「流星!」

 黒い影に呑み込まれた彼の名を再度呼んで、華王は紅い唇を噛み締めた。

 影は徐々に大きくなっていく。

 華王を囲む影も、動きを封じようと変幻自在にその形を変えながら、地を這うようにその輪を狭めてくる。

 締め上げられた手も既に感覚がなくなっていたが、そんなことよりも流星の身が心配だった。

 

 透明な硝子越しの灰色の瞳に、一瞬、躊躇いが走る。

しかし、それはすぐに決意の光へと取って代わられた。

 

華王が長い睫をす、と伏せる。

瞬間、細い手首を締め上げていた黒い触手が霧散した。

華王の手が、白い肌が淡い燐光を発するように、薄暮に浮かび上がる。

その光に慄くように、華王を取り囲んでいた影が、後退していく。

華王の華奢な全身が靄のような光に包まれた。

それに応じるように、華王の艶やかな黒髪も、色褪せるようにその色彩を薄くしていく。

薄い瞼に半分隠された濃い灰色の瞳も。

華王が伏せた目をゆっくりと上げる。

 

次の瞬間、華王の身に起こった不可思議な変化がぴたりと止まった。

つい先程までその細身を包んでいた神々しいまでの気配は、跡形もなく消え去り、髪も瞳も本来の色彩を取り戻す。

そんな己の変化を意に介することなく、華王は空中のある一点を凝視していた。

 

差し込む夕陽に透ける白い腕。

優しげな顔立ちの女性。

そのまま空気に溶け入ってしまいそうな淡い存在感だ。

その女性が、流星の捕らえられた黒い影に向かって恐れることなく腕を差し出す。

そして、その反対側にもうひとり。

影に向かって腕を伸ばす女性がいる。

どちらも華王の知らない女性だったが、あとから現れた女性の顔を見て、彼女らの正体に合点がいく。

面影がある。

 

この世の者ではない彼女らの白い腕に守られるように、影の中から救い出された流星は、

突如闇から光の中へと連れ出され、目を細める。

「助かった…のか?」

 流星には、自分を救い出してくれた存在が見えない。

 訳が分からぬまま、背後にいる華王を振り返る。

「華王、お前が?」

 しかし、華王は流星の問いに応えない。

 驚いたように目を丸くして、蠢く影の向こう側を見ている。

「おい、華王!そこに何があるんだ?」

 焦れて問い質す流星に、華王が視線を寄越す。

 既にその瞳には、迷いのない強い光が戻っている。

「質問はあとだ。もう一度、霊の心臓を狙え」

 毎度ながら、驚くほどの切り替えの早さだ。

「また、外されるんじゃないのか?」

「大丈夫だ。彼女が抑えてくれている」

 その言葉に、流星は目を見開いた。

「彼女?それは…」

 思わず、灰色の瞳を探るように見詰めてしまった流星に、華王はしっかりと頷く。

 流星は一瞬目を伏せてから、顔を上げて振り向き、黒い塊と化した霊に向き直る。

 霊の背後に目を凝らしてみても、何も見えない。

 しかし、霊の動きは確実に鈍くなっている。

 狙うべき場所を見据えながら、右手に気を集中させる。

 爆ぜるような火花の音。

能力の塊が、掌の上で渦を巻き始めるのを感じながら、流星はその手を頭上へと翳した。

「大丈夫だ。お前には俺と彼女の他に、ふたりも味方がいる」

 華王の言葉の意味を問う余裕はなかった。

 今までになく、大きく渦を巻く気の圧迫感が掌から直接伝わってくる。

 傍らに立った華王が、す、と腕を正面に伸ばした。

 その白く細い指先が示す場所。

 流星は立ち向かう霊に向かって口を開いた。

 

「お前の恨みを否定する気はない。だからといって、取り殺されてやる訳にはいかないんだ!」

 以前の自分なら、ここまで足掻くことなく、簡単に諦めることが出来ただろう。

だが、今の自分は違う。

これからの自分に何ができるか分からない。

何も出来ないかもしれない。

だが、ここで終わる訳にはいかないのだ。

今の自分は、強くそう思う。

 

 傍らの天使が指し示す場所へ向かって、流星は自分の思いごと、溜めた霊力の塊を投げ打った。

「命中したぞ…!」

 華王の言葉が耳に届くと同時に、苦悶とも安堵ともつかない声が頭の中に谺して、

流星は思わずきつく目を瞑り、頭を抱えた。

 間もなく、ふっと身体が軽くなったような気がして顔を上げると、

目前に凝っていた黒い影が霧のように空中に溶けていくのが見えた。

 いや、溶けていくのではない。

 空へと昇っていく。

 その証拠に、傍らの華王の視線は空の高みへと向けられていた。

 そうしながら、流星の肩を強く叩く。

 そこに何故か、労わりのようなものを感じて、肩から力が抜けた。

「彼女たちがこの世に縛り付けられていた魂を天上へと導いてくれる」

 目を細めて言う華王に倣って、流星も暮れなずむ空を見上げる。

 やはり、流星の目には何も見えなかったが、きっとそれは美しい光景なのだろう。

「万事めでたし、という訳か。あんまり、めでた過ぎて気味が悪い気がするくらいだ」

 内心の安堵を隠すように、憎まれ口を叩いたあと、流星は華王の白い横顔を見た。

「…で、誰の助けがあったんだって?」

 霊を抑えてくれたのは、あの娼婦。

 しかし、呑み込まれた自分を助け出してくれたのは?

 華王が言った「あとふたりの味方」ではないのか。

 

 それが聞こえているのかいないのか、空を見上げたまま、華王が独り言のように呟く。

「正直、俺も助かった。あの助けがなければ、魂ごと消滅させる羽目になっていたからな。

まあ…気付かれたかもしれないが」

「…何の話だよ?」

「いや、こっちの話さ」

流星の問いを躱してから、華王がやっと人形のように整った顔を振り向かせる。

 まじまじと流星の顔を眺めた。

「な、なんだよ?」

 間近で、澄んだ瞳にじっと見詰められて、流石に少したじろぐ流星に、華王はにこりと微笑んだ。

 男にしておくのが惜しいほどの、可憐な笑みである。

「お前は本当に女性にはもてるんだな。この一件でつくづくそう思った」

「はあ?」

「もっと良く自分の周りを見てみろよ。今まで気付かなかった好意に気付くことができるかもしれない」

「お前、俺の質問にひとつも応えていないぞ。どういうことだよ!」

笑いながら、華王は身を翻し、眉を顰めた流星がその後を追う。

 

 

…見つけたぞ。

 

囁くような声が耳元で聴こえ、それがふと、華王の細い肩を震わせた。

 

「どうした?」

 問われて、何でもないと首を振るが、

「寒いなら、俺の上着を貸してやろうか?」

応える前にばさりと頭から上着を掛けられる。

「……」

 上着の蔭から、黙って流星を見上げる華王を、腕を組んだ流星が怪訝そうに見返す。

「何だよ」

「もしかして、お前って優しい?」

「こんなに優しくていい男を捕まえて何を今更。どうせなら、肩も抱いていってやろうか?」

「遠慮しておく」

「あらら、冷たい」

 調子よく言い添えた流星に、素っ気無く応えて、華王は先に歩み出す。

 やがて、通りに長さの違うふたつの影が並び……

 

 群青色の空には、星が煌き始めていた。

 



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