聖なる水の神の国にて〜懐秋〜 揺らめく心 3 次の日、流星たちが再び伯爵邸を訪れると、セリア伯爵は約束どおり、出掛ける準備を整えて出迎えてくれた。 貧民街に出入りしても辛うじて不自然ではない平民の格好をした伯爵を連れて、彼女の元へと向かう。 伯爵も最近までの流星がそうだったように、貧民街には初めて訪れる筈だ。 その入口を潜るとき、僅かに身を強張らせたようだが、しっかりと後を付いてきた。 しかし、街の寂れた様子に、茫然と呟く。 「ここにあのひとが……」 病に冒された彼女が最期を迎える場所には相応しくないと改めて思ったらしい、伯爵は真っ直ぐに華王を見詰めて、 「早く彼女に会わせて下さい」 やや強い調子で言った。 それにしっかりと頷いた華王だったが、所々欠け崩れた敷石の通りの向こうから、 急いでこちらに向かってやって来る街の女性の姿に細い眉を寄せた。 「どうした?」 「俺がいない間、なるべく彼女の面倒を見てくれるよう頼んだひとだ」 応えると、華王も女性の方へ向かって歩き、通りの真中で会う。 「学生さま!実は……」 声を潜めた会話は、通りの手前に佇む流星と伯爵には届かない。 しかし、振り向いた華王の張り詰めた表情に、その内容は容易く察することが出来た。 「彼女の状態が良くないらしい。急いで行くぞ」 …恐らく彼女が明日を迎えることは難しい。 言葉にしなくても、そのことははっきり分かった。 流星の傍らで伯爵が息を呑む。 「行くぜ」 言って、流星が伯爵の腕を掴むと、はっとしたように身を震わせ、頷いた。 先を行く華王の後を追うように歩き出す。 久し振りに彼女の顔を見た流星は、言葉をなくす。 この数週間の間に彼女はすっかり痩せ衰えていた。 やつれた顔には、以前にはまだ窺えた美しさの面影もない。 実際の年齢以上に老け込んで見えた。 何よりも…… 「学生さんがいらっしゃいましたよ」 面倒を見てくれている女性の言葉に、彼女は視線を彷徨わせる。 「具合はどうだ」 長椅子の傍らに座り込み、顔を覗き込んだ華王に、彼女は微笑んでみせる。 「ええ…痛みはないのよ……でも、身体が重くて……」 掠れた声で応える彼女の目の焦点は合っていなかった。 「ごめんなさい、貴方の顔が良く見えないの……今は夜かしら?それとも……ついにそのときがやって来たのかしら……」 そう呟く彼女を一瞬痛ましげに見詰めてから、華王は気を取り直すように口を開いた。 「実は、他にもひとを連れてきている」 「…あのお友達?」 「ああ。それともうひとり。あんたに縁のあるひとだ」 「私に……?」 華王に促されて、伯爵は彼女の横たわる長椅子に近付いた。 思っていた以上の彼女の憔悴振りに、彼の身体は衝撃に震えていた。 それでも、華王と同じように床に膝を付き、そっと痩せた彼女の手を取る。 「…私だよ。分かるかい?」 その声に、彼女は見えない目を見開いた。 「…まさか……貴方がどうして……」 「こちらの方たちに貴方のことを聞いてね……」 そこまで言って伯爵は声を詰まらせる。 震える声で、どうにか言葉を継いだ。 「すまなかった…こうやって教えて貰うまで、私は貴方の苦しみも悲しみも全く知らずにいた…… もっと早く知っていれば……」 そう言って、彼女の手を握り締めて僅かに嗚咽を漏らす伯爵に、彼女は首を振る。 「いいのよ…私は幸せだったわ……貴方に、会えたもの……」 こんなに見苦しく痩せ衰えた自分の手を躊躇わずに握り、涙を流してくれる優しい貴方に。 彼女もまた、乾いた目に淡い涙を浮かべていた。 「もう少し状態が安定したら、私の別邸へ行こう。ここは貴方には相応しくない」 真摯な伯爵の言葉に、彼女はまた首を振る。 「…本当に優しいひと……でも、いいのよ…もう分かっているわ……」 掠れながらも、穏やかな声でそう言い、最期を待つ彼女の手をただ伯爵は握り締めるしか術がない。 彼女がふと、見えない目を空に彷徨わせる。 途切れがちに、躊躇いがちに口を開いた。 「今…あの子は……私のこどもはどうしているかしら…?貴方に育てられたのだもの……きっと、幸せだと思うけれど……」 その問いに、伯爵はぐっと言葉を詰まらせる。 こどもは既に亡くなったことを、言おうか言うまいか悩んでいるのが、傍で見ている華王にもはっきりと伝わった。 その後ろで、彼らの様子を見ていた流星にも。 目の見えない彼女には伯爵の表情は分からなかったが、不自然な沈黙に不安げな声を出した。 「あなた…?」 意を決したように、伯爵は口を開く。 「…実は、あの子は…あの子はね…」 その言葉を遮るように、流星は口を開いていた。 「ここにいる」 不意に発せられた声に、皆が驚いて振り向く。 他ならぬ流星自身も、自分の発した言葉に驚いていた。 何故、こんな嘘を言ってしまったのか、自分でも全く分からない。 しかし、一度発してしまった言葉は打ち消すことなど出来ない。
「まさか…まさか、本当に……?」 声の主が、流星であると気付かない彼女は、信じられないように、僅かに首を振った。 伯爵は、流星が突然吐いた嘘に驚き、茫然と彼を見詰める。 華王の瞳も驚きに見開かれていたが、想像の範囲内だったらしい、すぐに、にこりと微笑んで、立ち上がった。 その動作に促されるように、流星は長椅子へと近付き、伯爵と並んで、彼女の枕元に跪いた。 伯爵に握られていないもう片方の手にそっと触れる。 「…母上」 彼女の手が一瞬びくりと震えた。 「…父上から貴方のことを聞いた……」 「……ごめんなさい………」 急に涙を溢れさせた彼女に、流星は慌てる。 一瞬嘘がばれたのかと思ったが、違った。 「…がっかりしたでしょう?貴方の生みの母が、こんな卑しい娼婦だったなんて…」 思いも掛けないこどもとの邂逅に喜ぶよりも、伯爵の息子の母として、相応しくない自分の素性を恥じているらしい。 「母などと…呼ばなくてもいいのよ。私は貴方を生んだだけで、母親らしいことは何一つやっていないのだから…… そう…それなのに、貴方に会いたいだなんて…私は何て図々しくて愚かしいことを願ってしまったのかしら……」 だからもう、この手を離して頂戴と、泣きながら弱弱しく訴える彼女の手を、流星は僅かに力を込めて握る。 「…いいえ。確かに、俺を育ててくれたのは、父の正妻だった。彼女から、母としての愛情も充分与えられてきたと思う。 今でも、俺の母は彼女だったと言える。だが、貴方も間違いなく俺の母なんだ」 彼女のこどもとして、彼女が納得するだろう言葉を紡ぎながら、流星は妙な錯覚を憶えていた。 …今、目の前にいるのは、流星の母だ。 本当ならば、一度も会うことなくこの世を去った筈の母がここにいる。 流星の言葉に、ますます彼女は涙を溢れさせた。 しかし、今度のそれは後悔の涙ではない。 「母上」 「…私を……こんな私を母と呼んでくれるの……?」 「…有難う、母上。俺を生んでくれて有難う……」 静かな言葉に、彼女は目を見開き、透明な涙を流しながら微笑んだ。 「……有難う…もう…私は、その言葉だけで……」 伯爵が彼女の名を呼び、彼女は伯爵の方へも顔を向けて微笑んだ。 「有難う……」 それから間もなく、ふたりに手を取られたまま、彼女は静かに息を引き取った。 その顔は、病にやつれてはいたが、穏やかに澄んだ表情をしていた。 「…有難う御座いました」 ふいに、伯爵に深く頭を下げられ、半ば茫然としながら、彼女の顔を眺めていた流星は我に返る。 「…余計なことだったんじゃないのか」 「いいえ。私たちは確かに彼女を偽りました…それでも、その嘘で彼女は穏やかに逝くことができた…… それで、充分だと思うのです」 「……」 「それに、例え偽りでも、貴方の言葉には心が、別の意味での真実が感じられました。 彼女の為にそこまで心を砕いてくださって……本当に…有難う御座います」 もう一度、深々と頭を下げた伯爵に、流星は僅かに苦笑しながら首を振った。 こうして看取ることしかできなかったが、せめて丁重に彼女を自分の領地にある墓地に葬りたいと言う伯爵が、 呼び出した使いの者と共に、彼女を連れて行ったのを見送った後、流星たちは貧民街を出た。 通りを歩みながら、流星は、自分が彼女に向かって告げた言葉をもう一度、反芻してみる。 あれは自分が、生みの母に言いたかったことだろうか。 …分からなかった。 母を恨んでいるわけではない。 しかし、この世に生まれたことを素直に感謝できるほどの確固たる何かを得ているわけでもない。 伯爵は自分の言葉に真実があると言ってくれたが、結局自分が口にした言葉は、気休めにしか過ぎないのだ。 とすれば、自分は実の母を目の前にしても、偽りしか口にできないということか。 それでも。 彼女の穏やかな顔に、心を覆う氷が少しだけ溶けたような、そんな気がする。 「今までにないほどすっきりした顔をしているじゃないか」 軽く肩を叩かれて振り返ると、傍らで華王がこちらを見上げていた。 その邪気のない笑顔に、流星はまた苦笑する。 「お前は何でもお見通しなんだな」 「まさか」 眼鏡の奥で大きな灰色の瞳が、不思議そうに丸くなる。 「お前が言った、俺が彼女にできることっていうのはこのことだったんだろ?」 「買い被り過ぎだ。俺に比べて、多少の付き合いがあったお前の方が、 彼女に対してできることが多いだろうと思って、ああ言ったまでだ。それ以上の意味なんてない」 今の流星では、華王が本気なのか惚けているのか判断できない。 「それにしては確信的だったけどな。ま、過ぎたことをとやかく言っても始まらない。追及はこれぐらいにしといてやるよ」 「お前にしては前向きだ」 「おいおい」 それはないだろう、と技とらしく嘆いてみせると、華王が澄んだ笑い声を上げた。 その明るい声に、また少し氷が溶けたような心地がする。 いつかは明るい青空を見ることができるだろうか。 いつか心の底から、実母に、義母に、そして、この世の全てに、生まれてきたことを感謝できる日が来るだろうか。 以前の自分ならば、嘲笑って、否定するだろうことを思ってみる。 ああ、確かに華王の言う通りだ。 自分にしては前向きな考えだ。 思わず笑みが零れたところで、ふと気付く。 憶えのある感覚。 気配のようなもの。 しかし、流星はまるでそれに気付いていないかのような口調で、華王に話し掛ける。 「お前に会ってから、随分と色んな目に合ったぜ。まあ、全部がお前の責任って訳じゃないけどな。 でも、お前が切っ掛けだ」 「俺は別に大したことはしていないぞ」 「お前がそのつもりじゃなくても、俺にとってはそうなんだよ」 「そういうものか」 華王もまた、何事もないかのような軽い口調で、流星と話している。 しかし、その目は流星の背後に向けられ、今現れようとしているものを確かに捉えている。 華王もやはり、気付いているのだ。 徐々に大きくなる気配を感じながら、流星は華王に向かって、にやりと笑んで見せた。 「ま、そのお蔭で分かったこともある」 「それは?」 あれほど、てこずった相手なのに、今は不思議と危機感を感じない。 それは… 「俺に取り憑いてる霊の正体さ」 軽く言い渡しながら、右手に念を込める。 目には見えなくとも、その手に、確かに気が集まっているのが感じられる。 「看破できたか」 「ああ、やっとな」 目の前の華王も、静かに身構える。 背には重く圧し掛かるような霊の気配。 その嘆きが、怒りが頭に響いてくる。 その声ならぬ声に僅かに眉を顰めたものの、流星は動じることなく、言葉を継いだ。 「母親だろう」 当りだ。 微笑んだ華王の紅い唇がそう言っただろうか。 それを確かめる余地もなく、流星は背後に振り向き、襲い掛かってきた霊に向かって、気の塊を投げ付けていた。 |
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