聖なる水の神の国にて〜懐秋〜

 

揺らめく心 2

 

「まさか、セリア伯爵だったとはな。流石に驚いた」

 娼館の主人から、件の貴族の名を聞き出すことに成功した華王(かおう)は、次の休日の朝早くから渋る流星(りゅうせい)を引っ張り出した。

これからその貴族に会いに行こうというのである。

 

通りで拾った馬車に揺られながら、流星が呟くと、隣に座った華王がちらりと視線を寄越した。

「セリア伯爵というのは、どのようなひとだ?」

「俺も直接会ったことはないんでね、よくは知らない。でも、多少の評判くらいは聞こえてくる。評判は悪くないぜ。

温厚で教養深く、誠実な人柄…だそうだ」

「それならば、期待できるか」

「さあ、どうだかな」

 あくまでも無関心を装いつつ、流星は無造作に前髪を掻き上げた。

「休日とはいえ、伯爵が在宅中とは限らないぜ」

 だいたい、今から流星たちが訪れるという知らせの手紙も送っていない。

「留守だとしても、邸には帰ってくるだろう。それまで、門前でもどこででも待てばいい」

「…めんどくせえ」

 一向めげない華王の返事に流星は、溜め息をついた。

 

 少し躊躇うような間を置いた後、華王に訊ねる。

「……彼女は今、どんな風なんだ?」

 華王は霊について調べている間も、いつもどおり二日と開けずに貧民街を訪れていた。

対する流星は、彼女と再会してからというもの、貧民街からは脚が遠のいていた。

件の霊騒ぎに巻き込まれていた所為もあるが、

流星の中で、貧民街を訪れて彼女に会うことを避けたい気持ちがあったことは否めない。

 

 会えば、また、彼女に生母を、或いは養母を重ねてしまう。

 長い時間を掛けて凍りつかせた心が、揺らめきそうになる。

 今更、何を思ったところで、失ったものは取り戻せる筈がないのに。

 今更、失ったものを思い、苦しむことに何の意味がある。

 自分は凍りついたままでいい。

 いつかは、この冷たさを心地よいと思う日が来るだろう。

 

 そう思っているのに、いつの間にか、こうして、逆の方向へと引きずり出されている。

 引きずり出したのは、今傍らにいる華王だ。

 娼館で出会った彼女は切っ掛けに過ぎない。

もちろん、華王自身は流星に何らかの影響を与えるつもりなど全くないだろう。

彼はただ、自分の望むままに動いているだけだ。

それに振り回されている自分に、流星はただ舌打ちするしかなかった。

 

 その華王は痛ましげに柳眉を顰めて流星の問いに応えた。

「良くはないな。痛みは薬で抑えているが、病は確実に進行している…この調子ではあと一週間もつかどうか……」

「一週間……」

 流星は半ば茫然と呟く。

 改めて、事態が切迫していることを思い知らされた。

 華王が、何としても伯爵に会おうとする訳だ。

 今日このときを逃せば、彼女は二度とこどもに会えない。

 

 

幸いにも伯爵は邸にいた。

彼は国内でも有数の侯爵家、その跡取りの突然の訪問を、訝しみながらも丁重に迎えた。

流星の友人として紹介された華王は、勧められた椅子に腰掛ける間もなく、用件に入った。

伯爵は初対面である彼らが、自分と関わりのあった娼婦とそのこどものことを知っていることに驚き、

戸惑っていたようだが、最後まで口を挟まずに話に耳を傾けていた。

 

「そうですか…彼女が病に……」

 華王が言葉を途切れさせると、小さな溜め息をつき、ゆっくりと己の膝の上で手を組んだ。

 痛ましげに目を伏せるその様子には、評判どおりの彼の誠実な人柄がありありと感じ取れた。

 一瞬の間を置いて、伯爵は口を開いた。

「彼女に私が会うことは許されるでしょうか?」

その言葉に、流星は目を丸くし、華王は笑顔になる。

「願ってもないことだ。彼女もきっと喜ぶと思う」

自分のことのように顔を輝かせる華王に微笑み、伯爵は静かに言葉を継いだ。

「彼女にはこどもだけではなく…形にならない多くのものを貰いました……

それなのに、私は何一つ彼女に報いることのないまま、時を過ごしてしまいました。

だからせめて…これが最後だというのなら…再び会って、この感謝の気持ちを伝えたい…そう思うのです」

 もし、時間が許すようなら、彼女の身を自分の別邸へと移したい。

そこまで言う伯爵の言葉を、半分信じられない思いで聞いていた流星だったが、ふと重要なことに気付く。

 ちらりと、傍らを見遣ると、華王の灰色の瞳と目が合い、それが頷きを返した。

「セリア伯爵。彼女は貴方を恨んでなどいなかった。貴方が会いたいと思うなら容易く彼女に会うことは叶うと思う。

しかし、まだ、俺は貴方から重要なお約束を頂いていない」

 華王の静かな指摘に、伯爵ははっと息を呑む。

「彼女は何よりも、自分のこどものことを案じていた。会いたいと願っていた。その願いは…叶えては下さらないか?」

「………」

嫌な予感がする。

 重い沈黙に、流星は僅かに眉を顰めた。

 その予感は的中した。

 

「…申し訳ありません」

 伯爵は搾り出すように言葉を発し、頭を垂れた。

「あの子を…こどもを彼女に会わせること…それだけはどうしてもできないのです」

「どういう意味だろう」

「あの子は……五年前に病で亡くなりました」

 華王は目を見開き、流星はやはり、と内心呟き、目を伏せた。

「このようなことになる前に、あの子が亡くなったことを彼女にきちんと伝えるべきでした。

しかし、伯爵家の跡継ぎとして…必ず幸せにすると約して引き取ったこどもを、あんな形で失ってしまったことが、

嘆かわしく…彼女にも申し訳なくて…伝えることを躊躇っているうちに……」

 言葉を途切れさせ、伯爵は俯いたまま目頭を抑えた。

 

 彼女のこどもは、既に亡くなっていた。

 どんなに会いたいと願っても、彼女はこどもに会うことは出来ない。

 

 華王は長い睫を伏せ、暫し考えているようだったが、やがて口を開いた。

「事情は分かった」

「本当に申し訳ない…」

「謝られることはない。代わりに、と言っては何だが、貴方が彼女に会って下さるのだろう?」

「もちろんです」

「彼女の容態を考えるなら、会うのは、早い方がいい」

「大丈夫です。予定は私のほうで調整しますので」

「ならば明日、朝のうちに俺たちが迎えに上がる」

「お待ちしています」

 手早く段取りを整えると、華王はす、と立ち上がった。

 

 

伯爵邸を後にしたふたりは、馬車は拾わずに、徒歩で帰路に付いた。

「残念だったな」

「…そうだな」

 黙したままの華王に、流星が声を掛けると、静かな返事が返ってきた。

「そんなに落ち込んでないんだな」

 意外だった。

 何とか、彼女とそのこどもを会わせようと努めていた華王。

「正直もっと落ち込むかと思ったんだけどな…お前の今までの努力が無駄になったんだぜ?」

 他人の為に動くことが、空しくはならないか。

 どうなんだ、と問われて、華王は細い肩を竦める。

「どうもこうも…彼女をこどもに会わせられなかったことは確かに残念だが、俺が落ち込む問題じゃない。

俺が勝手にやったことだ、空しいと思うのもお門違いだろう。

しかし、実際のところ、ここまでが俺が彼女に出来ることの限度なんだろうな」

 華王は溜め息をついたが、その物言いは吹っ切れている。

 それを、また、意外に感じる。

 その思いが視線に表れていたらしい、華王が僅かな笑みを形の良い唇に閃かせた。

「だが、まんざら無駄な努力だった訳でもない。

伯爵は彼女に会って、できるなら最期まで看取りたいとまで言ってくれた」

 それだけでもきっと、彼女にとって多少の救いとなる筈。

「まあ、それはそうかもしれないけどな…」

「伯爵が思いの他、いいひとで良かった」

「ああ…それは俺も意外だった。あんなに人のいい貴族もいるんだな。親父とは大違いだぜ」

 そう嘯きつつ、流星は通りの向こう側に見える丘に何気なく視点を転じる。

 

もし、父があの伯爵のように誠実なひとであったなら、自分も今とは違っていただろうか。

埒もない思いが胸を掠める。

 

ふと、華王の視線を感じて、そちらの方を見遣ると、真っ直ぐな眼差しとぶつかった。

 迷いのない眼差し。

 その強さに、流星は華王がまだ、諦めていないことに気付く。

 華王はまだ、彼女の為に動くことを止める気はないのだ。

「俺が彼女の為に出来ることはここまでだ。だが…」

 間近で流星を見上げながら、華王は言葉を継いだ。

「お前にはまだ、出来ることがあるかもしれない」

 



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