聖なる水の神の国にて〜懐秋〜

 

   揺らめく心 1

 

「女…か」

 陽が落ちて、暗くなった部屋で、明かりも灯さずに流星(りゅうせい)は寝台の上に寝転んでいた。

 見るともなしに、目の前の空間を眺めていると、薄闇の向こう側から華王(かおう)の白い美貌が立ち現れてくる。

 同時に耳に蘇る彼の言葉。

 流星は軽く舌打ちして、身を起こす。

 侯爵本家でも現れた霊。

 父の話からその霊の正体は、先々代の跡継ぎであろうと確信を持ち掛けていたのに。

 それを華王が一言の元に引っ繰り返して見せた。

 

『女…だって?じゃあ誰なんだ』

『それは俺に聞くことじゃないだろう?

俺はお前の家のことどころか、お前自身のことだって殆ど知らないんだ、分かる訳がない』

 何処か呆れたような口調で言う華王の様子に流星は不審を憶えた。

『…お前、分からないとか言ってるけど、本当は見当が付いてるんじゃないのか?』

『さあな』

 睨む流星に細い肩を竦めて見せて問いを躱し、華王はきっぱりと言った。

 

『どちらにしろ、お前自身が取り憑いている霊の正体を看破しなければ意味がない。今のままでは除霊は無理だ』

 

「可愛くねえ…」

 ひとりで悪態を吐きつつ、流星は私服に着替える。

 何処に行くかは決めていない。

 ただ、寮内で漫然と夜を過ごしていても埒があかないと感じたのだ。

 上着を羽織ったところで、部屋の扉が叩かれる。

 華王だった。

「何だ、出掛けるところだったのか。何処へ行くんだ?」

 ひとの気も知らず、軽やかに訊ねる華王に、流星は仏頂面となる。

「別に」

「決まってないのか、なら丁度いい。一緒に行って欲しいところがあるんだ」

「お断りだ」

「先だって、お前が本家へ行くのに付き合ってやっただろう。なら、今度は俺に付き合え」

 きつく撥ね付けても、相手はめげずにそう言い返し、有無を言わさぬ強引さで、こちらの腕を取った。

 華奢な見掛けよりも力のある華王に部屋から引っ張り出され、流星は憮然とする。

「…可愛くねえ」

「それは結構。お前に可愛がられるのは御免だからな」

 流星の悪態に、彼の腕を取って廊下を歩む華王が笑いながら小憎らしい応えを返す。

 その余裕ある態度に、流星は舌打ちして、彼の腕を振り払った。

「もう逃げねえよ。ひとりで歩ける」

「そうか、じゃあ行くぞ」

 

 学院と神殿を囲む塀を身軽に乗り越えたふたりは夜の街へと出る。

 華王の歩む先がいつもと変わりないことに気付いて、流星は話し掛けた。

「こんな夜中に貧民街へ行くのか?」

 街の明かりに漆黒の髪を煌かせながら、華王がちょっと笑う。

「いいや、今夜用があるのは色街だ」

「お前が?色街へ?」

 あまりにも意外な言葉に、流星は目を丸くしたが、よく考えてみれば、華王も男だ。

 たまには娼館で遊びたいときもあるのだろう。

………全くもって意外だが。

「…とすると、俺はお前の案内役として、付き合わされてる訳?」

「ああ。お前は色街界隈については俺よりも詳しいと思う。よろしく頼む」

「まあ…いいけどな」

 しかし…色街には数多の美女がいるが、華王の好みに合う娼婦などいるのだろうか。

 それ以前に、人並み外れた華王の美貌に敵う娼婦がいるかどうか、疑わしいところだ。

華王自身の好みは別として、彼を前にしては娼婦たちのほうが気後れしそうだ。

 

そんな流星の懸念を余所に、華王は迷うことなく歩を進め、ふたりは色街へと辿り着いた。

華やかな灯りが零れる大通りへ、華王は臆することなく入る。

しかし、遊びに来た割には、客引きの声に立ち止まることもしない。

その様子に、流星はやっと華王がここに遊びに来た訳ではないことに気付いた。

「…おい」

「何だ」

「お前、色街に遊びに来た訳じゃないのか?」

「いつ、俺が遊びに行くと言った?」

「ああ、まあ…そうなんだが」

 ある意味予想通りの応えだ。

華王らしいと言えば、華王らしい。

そのことに安堵に似た気持ちを抱いている自分が可笑しい。

「何だかなあ……」

しかし…この歳の男が全くこの手のことに興味を持たないというのもどうなのか。

…華王にとっては、余計なお世話だろうが。

複雑な気持ちで、華王と並び、客引きを適当にあしらいながら歩いていると、傍らの華王の脚がぴたりと止まった。

流星よりも頭一つ分、低い位置にある小さな頭がくるりと振り向いた。

「…!」

 通りに零れる仄かな灯りに照らし出された華王の姿に、流星は一瞬目を奪われる。

振り向いた動きにつられるように流れる黒髪の上を、橙色の光が滑り落ちる。

灯りに映える陶器のような白い肌が、いつもよりも艶めいた色合いに見える。

通りに零れる灯りは、華王の澄んだ瞳の中にも踊っている。

本来は灰色一色である瞳が、今は蛋白石(オパール)のような虹の煌きを宿していた。

 娼婦らが気後れするどころか、嫉妬しそうな麗しさである。

「…あまりに、勿体無さ過ぎるぞ」

 思わず嘆いてしまいそうになる。

「何の話だ?」

 ひとの気も知らず、目の前の少年はいたって無邪気に首を傾げている。

「別に大したことじゃない。俺が勝手にひとりで空しくなってるだけだ」

「?そうか」

 長い前髪を掻き上げつつ、周囲をそれとなく見てみれば、通りを行き交う色街の客の幾人かが、

華王に好色そうな視線を向けていることに気付く。

それに流星は、今日何度目かの舌打ちだ。

「面倒なことにならないうちに、さっさと用事を済ませたほうが良さそうだな」

「…乗り気になってくれたのなら有難い」

 流星の言葉の意味を図りかねているのか、華王は不思議そうに何度か瞬きを繰り返したが、気を取り直したように頷いた。

「頼みたいことがある。お前があの娼婦だった女性と出会った娼館へ連れて行ってくれ」

 予想していた言葉に、流星は盛大に眉を顰めた。

 しかし、予想できていた筈の言葉に、胸はさざめく。

「やっぱり、それ絡みか。だが、今更あそこへ行ってどうなるものでもないだろ?何をするつもりだよ」

「彼女のこどもを引き取った貴族のことについて、館の者に訊きたい。

当の本人に訊いた方がもっと早いだろうが、彼女はきっと口を噤むだろう。それに…」

「見付かったこどもが彼女に会えるとは限らない。

上手くいかなかったときに、病身の彼女をぬか喜びさせる訳にはいかないってんだろ?」

「まあ、そんなところだ」

「前にも言ったと思うけどな、十中八九上手くいかないと思うぜ」

「それこそ、俺も以前に言ったと思うが、やってみなければ分からない」

 徐々に騒ぎ始める胸の鼓動を抑えつつ、乱暴に言い放つと、一歩も退かない強気な言葉が返ってきた。

 

 心が…揺らめく。

 

「実際に確かめてみれば分かるだろうさ」

 それを押し隠すように、憎まれ口を叩いて、流星は先に立って例の娼館へと歩み始めた。

 

 

 以前と同じように扉の水仙の金具を叩くと、すぐ覗き窓が開いた。

以前訪れた流星を憶えていたらしく、窓越しの案内人の目が綻んだ。

「これは、ようこそいらっしゃいました」

「今夜は連れがいるんだが、構わないか?」

「結構で御座いますとも。どうぞお入りください」

 扉を開いた案内人は、華王の容貌に一瞬目を瞠ったものの、余計な詮索は控えるらしい。

静かに目礼のみをする。

 その彼に華王は、真っ直ぐに問い掛けた。

「突然ですまないが、館の主人に会わせて頂けるだろうか?」

「は?」

 目を瞬く男に、苦笑交じりで流星が言葉を添える。

「悪いな。今夜は娼婦を買いに来た訳じゃないんだ。ここの主人に二三訊きたいことがあってな。大したことじゃない。

あんたたちの仕事に何か言う訳じゃない。俺たちは単なる学生で、取り締まりの役人じゃないからな」

 次第に顔を強張らせる案内人を宥めるようにそう言うと、今度は、相手が戸惑った顔になる。

「しょ、少々お待ち下さいませ…」

 取り敢えず、流星たちを玄関広間の長椅子に座らせ、

螺旋階段の後ろに隠れるようにあった廊下の奥へと引っ込んでいった。

 暫く待っていると、案内人が再び現れた。

「主人の部屋へご案内致します。どうぞこちらへ…」

 流星と華王は、奥の廊下突き当たりにある娼館の主人の部屋へと案内された。

 

 

「あの女と深い関わりのあった貴族のことについて知りたい?」

 燭台の揺れる灯りに館主人の戸惑い顔が、映し出される。

「拝見するところ、貴方がたも貴族のご子息でいらっしゃるようですが……

あの女の過去を訊いてどうなさろうというのですか?」

 華王は自分の出自等の細かい訂正は入れなかった。

どうにも解せない、と首を傾げる相手を真っ直ぐ見据える。

「ご主人。不審に思われるのも無理はない。しかし、貴方も御存知のとおり、彼女は病を得て、もう長くはない。

その彼女がこどものことを案じているんだ」

「こども…さて、何のことでしょうか?」

 惚けようとする主人に向かって、流星が軽い調子で言う。

「隠しても無駄だぜ。俺たちは彼女本人からこどものことを聞いたんだ」

「せめて彼女に、こどもが今どうしているか、教えてやりたい。以前、彼女はこの館一番の稼ぎ頭だったと聞いた。

貴方の館に少なからず貢献した彼女の最後の願いだ。

ご主人、彼女のそんなささやかな、母親として当たり前の願いくらい叶えてやってもいいのではないだろうか?

それとも、貴方が与えられるのは、貧民街での孤独な死だけなのか?」

 華王に穏やかながらもきつく問われ、主人はぐ、と言葉を詰まらせる。

 ちらりと顔を上げて、華王の真っ直ぐな視線と会い、後ろめたそうに再び目を伏せる。

 華王の瞳の威力は、流星も多少なりとも経験済みである。

 どんな者も、その瞳の清冽さに、心の奥底に秘めていた感情を暴かれてしまうのだ。

 今、主人が抱いている後ろめたさもそうだ。

 営利を優先して、今まで館に貢献してきたあの娼婦を切り捨てた後ろめたさ。

(これも一種の武器だよな)

 しかも、それを使う相手は無意識と来ている。

 相当に最強で厄介な代物である。

 流星がそんなことを思い巡らせている間に、案の定、館主人が折れて、

娼婦と関わりのあった貴族のことについて話し始めた。

 


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