聖なる水の神の国にて〜懐秋〜

 

   彷徨う影 5

 

 流星(りゅうせい)が身を起こすと、散々に乱れた部屋の中央に、侯爵がうつ伏せに倒れているのが見えた。

「親父…」

「流星」

 呼び掛けにはっと振り向くと、既に立ち上がっていた華王(かおう)がこちらに細い手を差し伸べていた。

「お前には見えなかっただろうが、まともに見ていられないほどの強い光だったぞ。立てるか?」

「…はっ、これしきで、足腰立たなくなる訳がないだろ?」

「そうか」

 目の前にある華奢な手に縋るのは、どうにも抵抗があって、流星は勢いをつけて、自力で床から立ち上がる。

 少し足元がふらついたが、何とか大丈夫そうだ。

「流星、大丈夫だとは思うが、一応、父親の様子を見てやった方がいい。俺は外がどうなっているのか見てくる」

 差し出した手を引っ込めた華王は、そう言って、一度気掛かりそうに侯爵を見遣った後、慌しく部屋から出て行った。

 あれだけ揺れたのだ。

 外にどのような被害が出ているのか気になって仕方がなかったのだろう。

 

「お優しいことで」

 揶揄するほどではない口調で呟いてから、流星は倒れている父親の元で跪いた。

「…おい、親父。生きてるか…?」

 父の身体を仰向けにしてから抱き起こし、軽く揺さぶると、父が呻きながら目を開いた。

「…ひっ!」

 覗き込む流星の顔を捉えた父が、一瞬、引き攣るような微かな悲鳴を上げ、流星から逃れるようにもがいた。

 その怯えように流星は内心驚く。

「おい、親父。幾ら仲が良くないからといって、助けた息子に向かってその態度はないだろう?」

 そう言うと、侯爵は我に返ったようにぴたりと身動きを止め、流星の顔を見直すように瞬きを繰り返した。

「……流星か?」

「他に誰がいるっていうんだ」

「…あの……霊はどうしたのだ」

「退散したよ。一時的なものだと思うけどな」

「…そうか……」

 まだ、青褪めた顔色で、侯爵はやっと身を起こし、溜め息をついた。

 その様子を眺め、流星は今頭に浮かんでいる臆測が、事実に変わる予感を抱きながら、口を開いた。

「なあ、親父。あんたはまた、俺の質問に応えてないぜ。俺の他に似たような顔の奴がいるのか?

顔を見て思わず親父が逃げ出そうとするような…」

「………」

「だんまりは止めようぜ。今のこの状況を見て分かるだろう?

それは、一族にとっても隠しておきたい秘密かもしれないけどな、

隠し続けることによって、一族を危険に晒してたんじゃ、本末転倒だろう?」

「…しかし……!」

「…先代当主が陥れた跡継ぎは、もしかしたら…俺に似てるんじゃないのか?

そして、俺に取り憑いて、今親父を襲った霊が、その跡継ぎだと、親父は気付いてるんじゃないのか?」

 侯爵がはっとしたように息を呑む。

 その仕種が何よりもの応えだった。

「やっぱりな……」

 呟いた流星もまた、溜め息を吐いた。

 そう考えると、疑問に思っていた幾つかのことに理由がつくのだ。

 

 生前の祖父…先代当主が見せていた、流星に向かっての何処か怯えるような態度。

 怯えることはしないものの、いつも自分と視線を合わすことの少なかった父の態度。

 

 …そうでありながら、自分を跡継ぎに据えることに父が拘る理由……

 

「でもな、親父。幾ら似てたって、俺はそいつの生まれ変わりじゃない。

そいつはこうして霊になって俺たちの前に現れてる訳だからな。

俺に跡を継がせたって、そいつの無念が晴らされる訳じゃない」

「…そうとは断言できない。直接ではないにしろ、お前があのひとの血を引いているのは確かだ。

同じ血を引く、良く似た者にこの家を継がせるのだ。少しは霊も慰められよう……少なくとも我々の気持ちは伝わる筈だ」

「……」

 流星は整った眉根を寄せる。

 

 随分と都合の良い考えだ。

それで、父の罪悪感は、多少は拭われるかもしれないが、祖父の犯した罪が消えることはない。

 もちろん、憑霊となった者の無念も、晴れることはない。

 

 そう淡々と考える流星の腕を、侯爵が強く掴んだ。

「それ故、この侯爵家は何としてもお前が継がなければならぬ!それが一族を守ることにも繋がるのだ。

忘れてはならぬ、忘れてはならぬぞ……」

 必死に言葉を紡ぐ父に、流星は何の言葉も返すことが出来なかった。

 

 長く跡継ぎに恵まれず、娼婦との間に生まれたこどもを引き取ってでも、

侯爵家の「正統」の血を守り続けようとした父。

 しかし、そうして引き取った子供が、長じるに従って、祖父が陥れた伯父に似てきたのだ。

 それは、当の祖父はもちろん、父にとっても、抑え切れない恐怖であっただろう。

 同時に、不当に「正統」の地位を得た罪悪感はいや増す。

 それらに縛られた父たちを、流星は初めて哀れだと思った。

 

「この上の奥にある肖像の間を見るがいい。帳幕で覆われた肖像画だ」

 

 自分でも確かめるといい。

件の跡継ぎに、自分が如何に似ているか。

 

流星が何らかの言葉を返す前に、華王が戻ってきたのを目にして、侯爵は口を閉ざす。

流星は父の言葉に応えずに済んだことに軽く安堵する。

 

…確かめるつもりになどならなかったからだ。

 

 流星は立ち上がり、戸口近くに立っている華王に近付く。

「華王。どうだった、外の様子は?」

「ああ。驚いたぞ。何も起きていなかった」

「はあ?!」

 

 そんなことがあるものなのか。

 

「霊が荒らしたのは、この部屋だけだったようだ。

試しに使用人を捕まえて訊いてみたが、大きな地揺れなど全く感じなかったという話だ」

驚いたと言う割には、落ち着いている華王。

「あんなに揺れたのに何もなかったって……」

「ちなみに、その使用人は、数回この部屋の前を通ったらしいが、不審な物音は何一つ聞かなかったとも言っている」

 華王の言葉を、信じられない思いで聞きながら、流星は呟く。

「……それは良かった、ということかな?」

「良かっただろう、被害が少なくて済んで」

「…ああ、まあ、そうだな。そうだよな……」

 

 流星は気を取り直すように、乱れた金髪を無造作に掻き上げる。

「戻るぞ、華王」

「いいのか?」

「ああ。訊きたいことはもう聞いた」

 

 軽く華王の華奢な背を押すようにして、外に出ようと促す。

 華王は部屋の奥にちらりと目を遣り、侯爵に向かって軽く会釈してから、流星に続いて部屋を出た。

 

 

「霊について、何か分かったのか?俺が聞いても良ければ教えてくれ」

神学院へと戻る馬車の中。

華王にそう請われて、流星は言いにくいことは外して、簡潔に応えた。

「ああ。予想どおりだ。

やっぱり、俺に取り憑いている霊は、当主になりたかった先代が陥れた、先々代の跡継ぎだったらしい」

 そう言うと、華王は細い首を傾げた。

「先々代の跡継ぎ…それは男性か?」

「何言ってるんだよ。男に決まってるだろ?……どうしたんだよ、華王。何か気になることでもあるのか?」

 華王の様子に不審を憶えてそう問うと、華王は首を傾げたまま、言葉を継いだ。

「俺が今日、感じた霊の気配は女性のものだったぞ」

「……何だって?」

 


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