聖なる水の神の国にて〜懐秋〜

 

   天使の宣告 5

 

 父の正妻であったひとを、本当の母親のように思っていた。

 

しかし、真実血が繋がっている筈の父には親子としての絆を感じることが出来なかった。

正妻に子が出来なかった為、妾に子を産ませた父。

そうして、生まれた子をすぐさま家へと引き取り、跡継ぎとしての教育を受けさせた。

それなのに、己自身はその子に数えるほどしか会わない。

只管侯爵家としての仕事に邁進し、その血筋、威厳を保つことだけに、全ての力を注ぐ。

父は妻よりも子よりも、ティーンカイルの家を大事にしていた。

そんな父と親子の絆を結べる筈などないか。

顔を合わせても、まともに目線を合わせることさえしない父の態度に、傷付かなかったと言えば嘘になる。

しかし、それはもう幼い頃の話だ。

既に寂しい、哀しいといった感覚は麻痺していた。

 

そんなことよりも。

 

優しいあのひとが、妾の子である自分の存在に苦しまなかったか、そちらの方が気になった。

しかし、彼女にそれを尋ねることはとうとう最後まで出来なかった。

 

 

 

 

 

「おい」

 追い付いた華奢な背中に向かって流星(りゅうせい)は呼び掛ける。

「おい、華王(かおう)

 二度目の呼び掛けでやっと、華王が白い顔を振り向かせる。

 眼鏡越しに向けられる、澄んだ静かな眼差し。

 そうだ、そう言えば、立会いのときも華王は眼鏡を外すことさえしなかったのだ。

 それが、自分に対する侮りに感じられて、つい苦々しい声音になってしまう。

「やってくれたな」

「何の話だ」

「立会いの勝負がついたときだ。

立会いの間中、こっちを散々弄んでくれたくせに、最後になった途端に、技とらしい手控えをしてくれただろう」

「手っ取り早く終わらせたかった。あのままでは長引きそうだったからな」

 

 余興めいた立会いに付き合わされたのは、こちらの方。

 そのような文句を言われる筋合いはない筈だが。

 

 そう応えながら、見返す灰色の瞳は、相変わらず流星を初対面の相手として見るものだった。

 こうして、二人きりになっても、こうした芝居を続けられるのは面白くない。

「この期に及んで知らない振りか。学院一の優等生殿は思っていた以上の役者だな」

 苛立ちを抑えられずに、流星が投げ付けた言葉に少し驚いたように、華王は目を瞬く。

 数瞬後、その大きな瞳を丸くした。

「お前…この前色街で鉢合わせた?」

 相手の驚いた様子に、流星は面喰らう。

「…って、まさか気付いてなかったのか?」

「お互い忘れようという話だったからな。だが、俺が気付かなかったことで、お前が不快な思いをしたなら悪かった」

 苦笑しながらも、悪びれず応える華王に、流星は一瞬反応の仕方に迷う。

 

 幾ら忘れようと言ったからって、本当に忘れる奴がいようとは…こいつはもしや天然か?

 それとも、俺はこいつにとって容易に忘れられるほど印象薄い男だったのか。

 ならば、こいつは俺を馬鹿にしている訳か?

 

 呆れるべきか、怒るべきか、流星が迷う間に、話の終了と見たらしい華王は、軽く手を上げて去っていこうとする。

「おい、ちょっと待て!」

「何だ、まだ話があるのか?」

 華王を呼び止めて肩を並べたものの、言うべき言葉が見付からない。

 取り敢えず、今気付いたことを言ってみる。

「お前、その言葉遣いは何だよ。もしかして、教官に対してもそんな口調なのか?」

「まさか。これでも相手に合わせて言葉を選んでいる」

「最初に会ったときから、お前は俺を「あんた」呼ばわりだったよな。

まあ、お互い初対面だったあのときはともかくだ、何で今も言葉遣いが一向に改まらない訳だ?

しかも、今は「あんた」じゃなく「お前」だ。仮にも俺はお前の先輩なんだぜ?」

「それは失礼致しました。貴方はこちらの言葉遣いなど気にはされない方とお見受けしたものですから。

もし、私の今までの言葉遣いが気に障るようでしたら、これからこのように改めましょう」

 如何ですか?

…と急にがらりと口調を変えられ、慇懃に問い返されて、流星は思わず肩を落とす。

「いや、いい。その馬鹿丁寧な口調の方が却って馬鹿にされてる気がする」

「そうか」

 すぐに華王は言葉遣いを戻し、形良い唇を僅かに綻ばせる。

 何の含みもない微笑だ。

 

 神学院始まって以来の秀才と言われ、教官たちの評判も良い華王。

 一方で、たった一人で色街に出入りし、舞踊的で実践的な剣技をも持っている。

 

「お前は一体何者なんだ?」

すっと真剣な表情になって問うた流星に、華王は微笑んだまま応えた。

「華王・アルジェイン。お前と同じ神学院に在籍するただの学生さ」

「ただの学生があんな剣を使うかよ」

「実際にいるだろう?今ここに」

流星が悪態を吐いても、華王はそれ以上のことを言うつもりはないようだった。

 

その態度から華王に幾つもの秘密があるのは明らかだ。

しかし、それは流星に明かすものではないらしい。

いや、誰に対しても明かすものではないのかもしれないが。

そんな秘密を抱えていながらも、悪びれない華王の態度、言動には全く嘘がない。

 

 一つ息をついてから、流星もやっと笑った。

「お前、思った以上に面白い奴だなあ」

「そうか?」

「ああ。いい性格してる」

 

 何せ、この自分がその存在に引っ掛かりを憶えるほどなのだから。

 

 とまでは言わずに、にやりと笑んでやると、華王はちょっと首を傾げる。

「別に俺は特に珍しいことをしているつもりはないんだが。ああ、そうだ、面白いついでに忠告だ」

「はぁ?忠告だって?また、突然だな。何だよ、忠告って」

 思い出したように付け加える華王と同じほどの軽さで問い返すと、華王は歩みを止め、真っ直ぐに流星を見据えた。

 

「身辺に気を付けろ。特に負の感情に引き摺られることのないよう。厄介なものに憑かれているぞ」

天使の宣告の如く厳かな口調で言い放つと、華王は今度こそ背を向けた。

 

 

 その黒い制服を纏った華奢な背中が随分小さくなってから、流星は唖然と呟いた。

「……何だって?」

 


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