聖なる水の神の国にて〜懐秋〜

 

   凍る心 1

 

 その夜。

 流星(りゅうせい)は当初の予定通り、色街へと繰り出した。

 しかし、昼間の華王(かおう)の「忠告」とやらの所為で、依然として気分は晴れないままだった。

 

 厄介なものに憑かれている。

 

 そう言っておきながら、その厄介なものの正体が何か教えもしない。

 しかも、その対処法が「負の感情に引き摺られないこと」と来たものだ。

全く、不明瞭この上ない。

華王にもまだ、「厄介なもの」の正体や、その明確な対処法が分からないからこその発言だったのかもしれないが。

「一体どの程度までが、負の感情に引き摺られていないと判断できるんだ?」

 そして、果たして既に、負の感情に引き摺られ、呑み込まれている人間が、

自らのその状態を何処まで理解できているものか。

 

 自分は既に、その状態にあるのかもしれないのに。

 

「…分かる訳がないじゃねえか。ちくしょう、あのやろう…やっぱり嫌な奴だぞ」

 長い前髪を苛立たしげに掻き揚げながら、流星はぼやく。

 

 これはいつもとは違った気分転換が必要だ。

 

 馴染みの娼館へと向かう足を一旦止め、周囲を見遣る。

 そうして、道幅の広い目抜き通りからは少々外れた脇道へと入った。

 

 突き当たりに、娼館の入口があった。

 表通りに並ぶ娼館と比べると、いささか地味な外観の木製扉。

 しかし、扉の脇に設えられた女神を象った銅像が掲げる灯籠は、それなりに艶めかしい色の光を灯して、客を誘っている。

 ここはもしかすると、特にお忍びで遊ぶ上流貴族などを相手にした娼館かもしれないと流星は判断する。

 いつもなら、そこで回れ右をする流星だったが、このときは何故か、その気が起こらなかった。

扉の灯りに導かれるまま、青銅色の水仙を象った扉の金具を叩くと、すぐ上の両開きの覗き窓が開いた。

「一見さんは出入り禁止かい?」

「いいえ。どうぞ」

 流星の身なりと容貌を一通り眺めた後、館の者はにこやかに扉を開けた。

 中に足を踏み入れると、そこは玄関用広間となっていて、広さは少々足りないが、

ちょっとした貴族の館を思わせる造りとなっていた。

 高級感のある長椅子と卓が、ゆったりと置かれた広間の脇、その壁の窪みに隠れるようにして部屋があるようだった。

 その大きな扉を目の端に捉えつつ、案内の者に導かれるまま、正面の螺旋階段を上る。

 二階の階段すぐ脇にある小部屋へと案内される。

 こちらも品の良い家具が揃えられている。

 右側の壁に沿うような形で、革張りの長椅子と硝子の卓が置かれ、

その壁には丁度椅子に腰掛けたときの目線に合うよう、横長の覗き窓が設えられていた。

「どうぞ、今夜のお相手をじっくりと吟味なされませ」

 流星の予想通り、ここは高級娼婦が集められた館であったらしい。

 酒の入った硝子の杯を差し出しながら促す館の者の言葉に従って、

流星は長椅子に腰を下ろし、覗き窓から繋がった部屋の様子を窺う。

 どうやら、そこは玄関広間の脇にあった部屋らしい。

 二階部分まで吹き抜けの、天井の高い大きな部屋だ。

 そこでは美しく着飾った娼婦たちが、ゆったりと長椅子や毛足の長い絨毯の上に腰を下ろし、

お茶を飲んだり、盤遊戯に興じたりと思い思いに過ごしていた。

 しかし、彼女たちの動きはさり気ないながらも、明らかに誰かに見られていることを意識しているものだ。

 事実、彼女たちは壁の一角に設えられた覗き窓を通じて、この館を訪れる客たちに見られている。

この部屋は言わば、娼婦たちの待合室だ。

娼館を訪れる客たちは、まず、娼婦たちが揃えられたこの部屋と隣り合った二階の小部屋へと通され、

そこの覗き窓から今夜の相手を選ぶ決まりとなっているのだろう。

 

果たして趣味が良いのか悪いのか。

 

軽い苦笑を零しながら、手にした杯を弄びつつ、娼婦たちの様子を眺めていると、

一人だけ皆から離れた長椅子に腰掛けている娼婦に気が付いた。

客の視線を意識して、一つ一つの動作に気を遣っている娼婦たちの中で、

彼女だけは誰のどんな視線にも構わない様子で、気怠げに椅子の背凭れに寄り掛かっている。

周りの若い娼婦たちに比べて、少し歳も取っているようだった。

 


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