聖なる水の神の国にて〜懐秋〜 天使の宣告 3 自分が正妻の子ではないと分かったとき。 あのひとに申し訳ないような気がした。 現ティーンカイル侯爵の正妻でありながら、身体が弱く、子を成すことの出来なかったひと。 侯爵家の跡継ぎを得る為だけに、夫が他所で子を儲けて、さぞかし情けない思いをしていただろうに、 そのひとは、そんな素振りは全く見せなかった。 それどころか、実の父親である侯爵よりも頻繁に別宅を訪れて、 まるで自らの本当の子であるかのように、妾腹の子である自分に優しく接してくれた。 自分が侯爵家唯一の跡取りであったからかもしれない。 それでも。 そのひとを本当の母親のように感じていた。 今日は朝から気分が悪かった。 夢見が悪かった所為だ。 あのような夢を見たのは、昨夜出掛けなかった所為か。 久し振りにおとなしく寮内で過ごすとろくなことがない。 机の上に置かれたまま、封も切られていない手紙が目に入る。 夢見が悪かったのは、或いは昨日の昼のうちに届いたこの手紙の所為であるかもしれなかった。 封を切らずとも、その内容は分かっている。 堅苦しさを感じさせる、見慣れた宛名の文字に流星は溜息をつく。 今夜は出掛けよう。 そう心に決めて、流星は気の進まない退屈な講義へと出て行った。 午前の講義を半分ほどサボった後の昼休み。 息抜きの出来る場所が欲しくて、学院の裏側にある森へと足を向ける。 学院裏から神殿へと続く森の中には、道を少々外れたところに、ちょっとした広場のような空間がある。 一人になりたいときには丁度良い場所だ。 森の手前にある運動場を通り過ぎようとすると、剣術の講義の後なのか、 動き易い服装をした学院生たちが、競技用の剣を手にしたまま、噂話に興じていた。 数人が流星に気付き、頬を僅かに染めながら会釈をする。 どうやら下級生のようだ。 何処がいいのか、流星自身には分からないが、こうして彼を憧れの眼差しで見る下級生が幾人かいるのである。 しかし、正直男にもてても、あまり嬉しくはない。 噂話に戻った彼らは、早速流星のことを話題にし始めたようだ。 その内容に別段興味はなかったので、そのまま通り過ぎようとする。 それでも、彼らの会話は本人を前に声を潜めてはいるものの、風に乗って途切れ途切れに聞こえてきた。 「…流星先輩の方が…」 「いや…華王様が……」 ふと耳に入った名前に思わず立ち止まってしまう。 視線に気付いた学生たちが、慌てて口を噤む。 「俺のことを言ってたみたいだけど」 「い、いえ……はい」 「ははあ、悪い噂か?」 「い、いいえ!!そんなものじゃないんです!!」 「気になるなあ。俺と誰だって?華王?」 自分の名と共に華王の名が聞こえたからこそ、気になったというのに、流星は知らない振りを装う。 話し役を押し付け合うように、互いを小突き合っていた者の内から一人、 この中では一番気が強そうに見える少年が口を開いた。 「華王様…いえ、華王さんは僕たちと同学年の学院生で…学問の成績がとても良い方なのですが、 剣術の腕前も素晴らしいんです。 だから、同じく素晴らしい腕をお持ちの先輩と華王様とでは、どちらが強いのだろうかと… 身勝手な噂をしていたんです。すみませんでした」 「へえ…剣術がねえ」 流星は学院の別棟から本棟へと向かう渡り廊下を見遣りながら呟くように言う。 「なあ、華王ってもしかしてあいつ?」 渡り廊下をちょうど教材を片手に噂の麗人が、歩んでいる。 その彼にも聞こえるような声で、知っていながら敢えて確認する言葉を発する。 「え?あっ、はい、そうです!」 当の華王は、そんな彼らの様子に気付いていないのか、或いは気付いた上で無視しているのか、 振り向きもせず去っていこうとしている。 「お前たちの噂になるほどの腕か。一度、手合わせしてみたいな。呼んできてくれ」 「えっ?!」 下級生が戸惑っている間に、華王はますます離れていく。 「なあ!おい、そこの!華王!!」 慌てる下級生たちを余所に呼び掛けた流星の大声にやっと気付いたように、華王は振り向いた。 話をした下級生を一瞥すると、すぐにその意図を察した彼が、華王のところへ駆けて行き、事情を説明する。 話に耳を傾けながら、ちらりとこちらを見遣った華王と目が合う。 それに、にやりと笑んでみせた。 そんな流星を静かに見返す瞳は、初対面の相手に向けるものだった。 流星とは一度会っているというのに。 こいつはなかなかの役者でもある訳か。 流星は皮肉混じりの感嘆を抱く。 しかし、初対面で通した方が流星にとっても都合がよいことは確かなので、相手に合わせることにする。 |
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