聖なる水の神の国にて〜懐秋〜

 

   天使の宣告 1

 

 自分が妾腹の生まれであることを知ったのは何時だったか。

 まだ、学校にも上がらない頃だったと思う。

 しかし、別段大きな衝撃は受けなかった。

 何しろ、生まれたときから、別宅で日を過ごし、本宅に足を踏み入れたのは、数えるほどだったのだ。

 だから、自分の出生を知ったときは、ああ、やはりそうかと納得したほどだった。

 

 ただ……

 

 あのひとに対して後ろめたいような、申し訳ないような気持ちを抱いた。

 本当の母親はどのような人だったのだろう…と僅かな疑問が頭を過ぎった。

 

 

 

 

 

「あら…もうお帰りになるの?」

「もうもなにも、既に夜は明けているぜ」

 気だるげに寝台の上で身を起こした女に、流星(りゅうせい)は服を身に付けながら、苦笑を向ける。

「もう少しゆっくりしていけばいいのに」

 もっと一緒にいたいわ、と甘い声音で強請る女の言葉、

乱れた髪を掻き上げる仕種にも、手慣れた媚態が窺える。

「これでも学生なんでね。長居をして寮を抜け出してるのがばれたら大目玉だ」

「まあ、それは残念だわ」

 女がくすくすと笑う。

 白く豊かな胸元の婀娜っぽさが、少々押し付けがましい。

「また、おいでになってね」

「ああ、気が向いたら。そのときに、まだあんたがここで、一番の美人だったら声を掛けるよ」

「ま!」

 おっしゃるわね、と責める女の言葉には、さほど尖った響きがない。

 商売用の軽い常套句のようなものだ。

 寝台を降りて首にしがみ付く女の頬に、挨拶代わりに軽く口付けて、

空しい戯れ合いを切り上げ、流星は娼館を後にした。

 

 夜が明けて間もない色街の大通りは、そこかしこが気だるい空気に覆われている。

 硬い靴音を響かせる石畳の道に、酒と脂粉と媚香の匂いが、白く掛かる薄い靄と共に漂う。

道端の隅で寝入っていた酔っ払いが、くしゃみをして目を醒ます。

気だるい退廃に満ちたこの空間。

好きという訳ではなかったが、自分には似合いの場所だと思っていた。

刹那的な快楽を求める者たちが集まるここは、煩わしい現実からの逃避場所には丁度いい。

 

「…ん?」

 煙草を口に咥えたところで、見慣れた、しかし、

この場所で見ることは滅多にない服装をした者が目に入る。

 彼自身も辛うじて在籍している神学院の制服。

 道端を控えめに歩いているのだが、あまりにもこの場に不釣合いな服装で、

却って目立ってしまっている。

黒い詰襟の長衣は、一年だろう。

細くて如何にも頼りなげな少年だ。

学院に入った早々、悪戯心を起こした上でのお忍びなのか。

それとも、学院に許可を得た上での外出で、この界隈に迷い込んでしまったのか…

どちらにしても、

「…とんだ馬鹿がいるもんだ」

 私服に着替えもせず、貴族の子弟が多く通う学院の制服を着たままで街を、

しかもこのような色街を出歩いては、まるで襲って下さいと言っているようなものだ。

 早朝のためか、この界隈はまだ人通りが少ないが、悪目立ちをしている貴族のお坊ちゃんに、

ちょっかいを掛けようとする者がいない訳ではない。

 案の定、

「ちょっと、待ちな。お坊ちゃん」

数人のごろつきと見える男たちが、件の一年生を取り囲み、言い掛かりを付ける。

「今、あんたの肩がぶつかったんだが、謝りもなしかい?いい度胸じゃねえか」

「へえ…良く見れば、随分な別嬪じゃねえか。侘び代わりにちょっと付き合って貰うか」

「いいとこのお坊ちゃんが、こんなところをうろうろしてるもんじゃないぜ」

 下卑た笑いを漏らしつつ、恐ろしくて口も利けないのか、黙ったままの少年の細い腕を掴み、

建物と建物との間の細い脇道へと引き擦り込む。

 艶やかな長い黒髪が、娼館から通りに漏れる僅かな灯りに、儚げに揺れた。

 

「ん?」

 それとなく、その様子を眺めていた流星は、再び整った眉を僅かに寄せる。

 あの少年、知っているような…

 一年に知り合いなどいなかった筈だが……

 

 それでも、流星は動こうとしなかった。

 こんなところを、制服でうろついていた少年が悪い。

少し痛い目を見れば、懲りるだろう。

自業自得だ。

 助けてやる義理はない。

 

 自分には…関係ない。

 

 冷めた気持ちでそう考え、流星は、煙草に火を付けながら、脇道の入り口を通り過ぎる。

 

 ……と。

 

 少年のものにしては、やけに野太い、しかも複数の悲鳴が聞こえて、

驚いた流星は、思わず足を止めてしまう。

 振り向くと、脇道から出てきた少年と目が合った。

 


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