聖なる水の神の国にて〜懐秋〜

 

彷徨う影 4

 

「な…」

 華王(かおう)の言葉に流星(りゅうせい)が反応する前に、地響きのような音と共に、部屋が大きく揺れた。

 反射的に立ち上がろうとしたが、あまりにも大きな揺れに、背凭れに掴まって身体を支えることしか出来ない。

 壁に飾られていた絵画や織物、棚や机に置かれていた時計や本など、この部屋に置かれたありとあらゆる物が、

意志を持った生き物のように部屋中を飛び交う。

「…っ伏せろ!」

 華王の発した警告の声に従って身を伏せると、金の額縁に飾られた肖像画が肩を掠め、床にぶつかって真っ二つに割れた。

 部屋の揺れは収まることなく、徐々に激しくなり、重い書斎机や流星たちがしがみ付く長椅子さえもが、動き始める。

「こ…これはっ…!!」

 何とか椅子にしがみ付きながら、侯爵は青褪めた顔で、恐怖と驚愕に身体を震わせている。

 そんな彼を激しく動き出した椅子が、床に振り落とした。

 次いで勢いをつけて、父の身体の上へと落ちていく椅子。

流星は舌打ちして、床を這うように移動しながら父のほうへ精一杯腕を伸ばした。

 寸でのところで、襲い掛かる椅子から父を救い出し、息を吐く間もなく、今度は突如背筋を駆け上がる寒気に足元を見る。

 

 止まない揺れの中、淡い陽射しに薄く浮かび上がった己の影。

 

 それが、一瞬にして闇のように濃く凝り、立ち上がった。

 影は、以前の触手のような不定形の形ではなく、ひとの形をしているように見えた。

 しかし、その形はすぐに醜く崩れ、再び黒幾つもの黒い触手が伸び始める。

 触手は真っ直ぐに侯爵へと襲い掛かり、その首へと巻き付いた。

「ぐ…っぅ…!」

「親父!」

 慌てて触手を引き剥がそうとしても、本物の影のように掴むことが出来ない。

 しかし、触手は実際的な力を以って、父の首を締め上げているのだ。

 苦しむ父の呻き声に、ただ気持ちだけが焦る。

「くっそ!どうすれば!!」

 流星は悔し紛れに、揺れる床を叩いた。

そのとき。

 

己の拳から火花のようなものが散った。

 

 あのときと同じ。

 

 このときになって、流星は自分の持つ能力(ちから)を思い出した。

華王はこの能力を霊に直接影響を与えることの出来るものだと言っていた。

 

 …ならば。

 

 流星は焦る気持ちを必死で抑え、出来るだけ気を落ち着かせようと深呼吸する。

 凶器と化した調度類を避けながら、精神を集中させ、先ほど火花が散った手に、

白く輝く気が凝縮されていく様を、繰り返し頭の中で思い描いた。

 

 すると。

徐々に掌が熱くなり、その上で再び火花が弾け始めた。

 

「流星!」

 驚いたような華王の声。

 

 目には見えないが、自分の手の上で霊気の塊が形成されたことを流星は、はっきりと感じた。

 その塊を目の前で蠢く黒い影に向かって叩き付ける。

 

 しかし。

 

「何…っ?!」

確かに気を投げつけた筈の影はびくともしなかった。

 先日、気によって発した火花にさえ慄いたというのに。

「おい、華王!!俺の能力は霊に直接衝撃を与えることが出来るものじゃないのか?!何で攻撃が利かない?!!」

 流星は目を剥いて、八つ当たり気味に怒鳴る。

その間も容赦なく自分や父にぶつかってくる物を叩き落とす。

 

ふいに、それらが壁や床にぶつかる音、大きな揺れに部屋が軋む音の狭間に、

ほんの小さな、辛うじて人間のものだと判別できる声が聞こえた。

 それは耳からではなく、頭に直接届く言葉。

 

 ユ…ル…サ……ナイ………

 

 呻きにも似たその声に一瞬気を取られかける。

 

 しかし、澄んだ明瞭な声が、流星を引き戻した。

「流星!!」

 と同時に、目前まで迫っていた陶器の白鳥の置物が、叩き落された。

 目前で舞うように揺れる漆黒の髪。

「あ?華王…?」

「流星!この馬鹿!!こんなときに一瞬でも気を緩めるんじゃない!!」

「す、すまん!!」

 叱咤されて、ようやく立ち直る。

 

 二人で父を襲う影を囲んで、影と向き合いながら、同時に襲ってくる物たちから守るような形となる。

「流星」

 傍らで右、次いで左と飛来物を叩き落しながら、華王が呼び掛ける。

「何だ」

「さっきの。もう一度やってみろ。ただし、今度はあの黒い影に向かってじゃない。

今足元にあるお前自身の影に向かってだ」

「何だって?」

 鋭く囁く声に流星は目を丸くするが、事態は切迫している。

「お前が集中している間は俺が、お前とお前の父親を守ってやる」

「分かった。頼む」

 流星は目を閉じ、再び精神を集中させる。

 コツが掴めてきたのか、先程よりは苦労せずに、気を作り出すことが叶う。

 掌の上で爆ぜるように音を発する火花。

 

 これは一体華王の目にはどう映っているのだろう。

 

 そんなことを頭の片隅で思いながら、流星はそれを今度は自分の足元に向かって叩き付けた。

 

「うっ…!」

 華王が自分の両目を庇うように両腕を上げ、呻く様子が目の端に映る。

「う…わぁっ!!」

 その直後足元から沸き起こった爆風に、流星は均衡を崩して、床に倒れてしまう。

 風は部屋中を荒れ狂うように駆け巡り、開かれた窓に吸い込まれるようにして去っていった。

 


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