聖なる水の神の国にて〜懐秋〜

 

   彷徨う影 3

 

 仕事部屋を兼ねた自室に入ると、侯爵は正面の革張りの肘掛け椅子に腰を下ろした。

 右手の窓際には重厚な樫造りの書斎机と椅子が置いてある。

「お前が本家に顔を出すなど珍しいことがあるものだ。今度の親族会議に出るつもりにでもなったのか?」

「何のことだよ」

一応は客人である華王(かおう)にさえ、椅子を勧めることもなく訊ねる父に、流星(りゅうせい)は撥ね付けるように言葉を返した。

侯爵の座る椅子とテーブルを挟んで向き合うように置かれた長椅子に、勝手に座る。

流星に目で促され、華王も流星に倣ってその隣に腰掛けた。

「先日手紙を出した筈だが」

「そんなものを見る訳がないだろう」

「そうか。だが、お前はティーンカイル家の跡継ぎだ。跡継ぎが親族会議に出るのは当然。

いつまでもそのような我儘を許す訳には行かぬぞ」

 尤もらしい説教を並べ立てる割には、この父は目の前の息子と眼を合わそうともしない。

 

 いつもこうだ。

 しかし、もう既に慣れきってしまっている筈のそのことが、今日はいつも以上に腹立たしかった。

 流星はきつく父を睨みつけながら、口を開いた。

「あんたに訊きたいことがある。俺の用件はそれだけだ」

「ああ、そう言えば、先ほどそう言っていたな。訊きたいこととは何だ」

「先代当主の亡くなった兄についてだ」

 唐突な流星の言葉に、彼の背後、華やかな花鳥が踊る壁掛織物の模様を辿っていた侯爵の視線がぴたりと止まる。

 いつもより一層硬い声音で訊き返す。

「…何故、そのことを訊きたいのだ」

「ちょっと厄介な事態が起こったんでな」

「どのようなことだ」

「今、俺には霊が取り憑いてる。そこの良く霊が視える奴から言わせると、

その霊はこのティーンカイルに恨みを持つ一族の縁者である可能性が高い…ということだ」

「馬鹿な…そのようなことが……」

 口では否定しながらも、侯爵の強張った表情には明らかな怯えが滲んで見えた。

 そんな父の様子を眺めながら、流星は意地悪く言葉を継いだ。

「幾らこの家に興味のない俺でも知ってる。

先々代の跡継ぎが亡くなった事故に、先代当主、つまりあんたの父親が関わっていたという噂をね。

取り憑く霊の心当たりとしては時期的にも最も妥当だろう?

そのとき追い落とされた奴らの恨みは、今もまだ、風化することなく、生きていることだろうさ」

「…まるで他人事のような口調だな。私の父はお前の祖父のことでもあるのだぞ」

 侯爵の声に恨みがましげな響きが混ざる。

 それに、流星は鼻で笑って応えた。

「確かに。本当に他人なら良かったとつくづく思うけどな。厄介なことに巻き込まれて、こっちは迷惑している」

「お前は…!」

 傍若無人な流星の言いように、怯えた表情から一転して、怒りを滲ませた侯爵は、隣に座る華王を見て、はっと口を噤む。

 その様子に、今まで黙って流星と侯爵のやり取りを聞いていた華王は軽く溜め息をついてから、口を開いた。

「もしかして、俺は席を外していた方がいいか?」

「いや、ここにいろよ。お前だって霊の被害に合っただろ?だったら、お前にだって霊の正体を知る権利がある」

 平静さを装いながら、流星は華王を引き止めた。

 それは、このままこの父と二人にされたら、収拾のつかない言い争いに発展するだろうことが、容易に想像できたからだ。

 しかし、父はそんな息子の心情にまでは思い至らない。

彼はティーンカイル家を侮るような息子の態度に腹を立て、ついに怒声を発した。

「何を勝手なことを…由緒ある侯爵家の名誉に関わる話に赤の他人を同席させると言うのか!」

 あくまでも対面を気にする父に、流星は思わず苛立たしげに舌打ちする。

 せっかく、華王を同席させることで、なるべく穏便に話を済ませようとしたのに、結局無駄になってしまいそうだ。

「そんなことより、こっちは急いでるんだ。さっさと俺の質問に応えてくれ」

「そんなことだと!仮にもこのティーンカイル家の跡継ぎが何ということを!!」

 身勝手に責める言葉に、ついに流星の堪忍袋の緒も切れた。

「そんなに俺の態度が気に入らないなら、勘当でもなんでもすればいいだろう!!

何故、俺を跡継ぎに据えることに拘る?!」

「…!」

 叩きつけた言葉に、侯爵が一瞬息を呑む。

 流星がこの件に触れるごとに、決まって見せる反応。

 不自然な間。

 

「流星」

 嗜めるように、華王の細い手が腕に掛かり、流星は我に返る。

 

 そのとき、ふと気付いた。

「…そうか、もしかしたら……」

 父の見せるこの反応こそが、霊の正体を解く鍵になるのではないか。

 

 熱くなっていた頭が冷えていく。

 流星は立ち上がり掛けていた腰を落ち着かせ、既に拳を握って立ち上がっている侯爵を見上げた。

「…なあ、親父。教えてくれよ。何故、俺にこの家を継がせることに拘るのか」

「…何を唐突に……一族の正統を守る為に決まっているだろう。他に理由などない」

 静かに問うてきた流星に驚いたように、侯爵は暫し立ち尽くしていたが、

やがて再び椅子に腰を下ろし、歯切れの悪い言葉を返した。

「それだけの理由で?解せないぜ。自分で言うのもなんだけどな、こんな問題児を跡継ぎにするより、

例え俗筋の人間でも、跡継ぎに相応しい奴が幾らでもいるんじゃないか?

そいつらの方がきっと俺よりもこの家を盛り立てていくことが出来る」

「そんなことはない。この家に相応しい跡継ぎはお前しかいない。お前でなければならんのだ……」

「だから、何で…」

「………」

 問い掛ける流星に侯爵は口を噤む。

 更に、問い詰めようと流星が再び口を開き掛けたとき。

 

「来る」

 華王が今ある空間の向こう側を見通そうとするかのように、眼鏡の奥、灰色の瞳を細めた。

 


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