聖なる水の神の国にて〜懐秋〜 彷徨う影 2 「妙な気分だ」 「何が?」 ティーンカイル侯爵家の本家へと向かう馬車の中。 せっかくの仕立ての良い服を着崩して、腕を組んだ流星は、視線を窓外に向けたまま言葉を継ぐ。 「お前とは出会ったばかりでさほど親しくもない。なのに、こうして一緒に俺の実家に向かっているなんてさ」 「遊びに行く訳じゃないだろう」 「そりゃそうなんだが」 傍らで笑みを零す華王は、これから大貴族の邸宅を訪れるとは思えない、質素な装いである。 しかし、無味乾燥な服装であっても、華王の美しさは健在だ。 綿のシャツの肩を覆う漆黒の絹糸を思わせる髪が、無地の布の上に細かな紋様を創っている。 白い頬に影を落とす長い睫といい、柔らかそうな色合いの花弁の唇といい、 思わず眼が惹き付けられてしまいそうな佇まいである。 窓辺に肩肘を預けて組まれた華奢な手指の形。 吹き込む風に時折露わになる白く細い首筋。 目前の人物のどれをとっても、「男らしさ」を感じさせるものはなかった。 「…何処ぞの貴族の姫を攫ってきたと本家に誤解されたりしてな。ま、流石にそんなことはないか」 「何を訳の分からないことをぶつくさ言っている」 柳眉を僅かに寄せる華王に、誤魔化すように流星は愛想笑いを返す。 華王の言動自体はそれなりに「男らしい」のだが、 美しい外見の方に気を取られて、そのことを見落としてしまいがちなのが実状だ。 「まあ、誤解されたら誤解されたで、却って面白いかもな」 首を傾げる華王と不謹慎なことを呟く流星とを乗せて、馬車はようやく侯爵家本邸へと辿り着いた。 「流星様、お帰りなさいませ!」 馬車が邸の正面玄関に止まると、顔見知りの使用人が馬車の扉を開け、出迎えてくれた。 「おう、雨条か。久し振りだな」 「本当ですよ。私が本家に移ってからは、殆ど音沙汰無しで…」 荷物を受け取りつつ、気さくに主人に話し掛けていた使用人は、 流星に次いで馬車から降り立った華王の姿に、あ、と息を呑む。 「こ、こちらの方は…」 と、言ったきり、絶句する。 そうだ、本家にはこいつがいたんだ… 流星はこれから起こることを予期して、思わず片手で額を抑える。 案の定、華王が自己紹介をしようと口を開く前に、雨条はくるりと流星に向き直った。 何を思ったか、その顔は僅かに赤らんでいる。 それから彼は、背後の華王を憚る小声ながらも、流星に向かって難じるような口調でまくし立て始めた。 「流星様!一体何処の姫君をかどわかされたのですかっ?!」 「…おい、雨条」 「しかし、こちらの姫君は、今まで流星様が遊び相手とされていたご婦人たちとは、 明らかに違うおとなしげで可憐な御様子……と、いうことは、もしやこの方は流星様の本気の御相手っ? ああっ、流星様!それならば尚のこと、そのような大事なお方を男装で連れ回すなど、御無礼ではありませんかっ!!」 「んな訳あるか、阿呆!まずは落ち着け!!」 次第に声が大きくなり、己の思考を空回りさせていく使用人を、流星は大声で黙らせる。 背後の華王は少々呆気に取られた様子で、目を瞬いていた。 「面白い男だな」 「ちょっと思い込みが激しいんだ。悪いな、許してやってくれ」 「いや、気にしてない」 苦々しげに言う流星に、笑って手を振ると、華王は雨条へと向き直る。 「華王・アルジェインという。流星と同じ神学院生だ」 「…そ、そうで御座いましたか。流星様のご学友……はて。神学院は男子の学び舎であった筈。 何時の間に、貴族のご息女も受け入れられるようになったのでしょう?」 「…えーと……」 「雨条、お前はもう喋るな」 頑なに華王を女性と思い込んでいる雨条に、流石の華王も一瞬言葉をなくし、 流星は額を抑えつつ、再び雨条を黙らせる。 「いいか、こいつは貴族の姫でも何でもない。隣国からの留学生で男だ」 「は……っ?」 はっきりと指摘されたものの、流星の言葉を理解するのにやや時間を要したらしい。 暫しの沈黙の後、やっと勘違いに気付いた雨条は、次いで殆ど身体を直角にして勢い良く頭を下げた。 「な、なんとっ!失礼致しましたっ!!とんだ御無礼を…っ!!」 ひたすら恐縮する彼に、気を取り直した華王が声を掛ける。 「いや、そこまで謝られると俺も困る」 顔を上げてくれと宥められて、まだ恐縮しつつも、雨条はやっと顔を上げる。 が、目が合った華王に、にっこり微笑まれて、今耳にした事実が信じられないように、首を振っている。 「流星様のご学友にこのような方がいらしたとは……いやはや…」 しみじみと呟く雨条だったが、今度ばかりは口を滑らすことはなかった。 彼の案内で、やっと邸玄関へと導かれながら、華王は傍らの流星に悪戯っぽい口調で話し掛けた。 「お前が随分嫌そうな顔をしていたから、本家はどんなに固いところかと思っていたが、そうでもないじゃないか」 「固いところさ。あいつがいなかったら、一歩も足を踏み入れたくないくらいにな」 流星は苦笑混じりに肩を竦める。 「ああ、そうです、流星様」 玄関を入ってすぐの重厚な雰囲気の広間を真っ直ぐ進んだ正面の階段の手前で、雨条が振り向く。 「実は旦那様が……」 「何をしに来た、流星」 言い掛けた言葉を、冷めた響きの声が遮る。 振り向くと、出掛けていて留守の筈のティーンカイル侯爵が立っていた。 「急に旦那様の御予定が変わられたのです。私もつい先程知ったので、お知らせする暇がありませんでした。 申し訳ありません、流星様」 背後からすまなそうに囁く雨条に首を振り、流星は父親に向き直る。 「あんたに訊きたいことがあって来た」 予定変更だ。 こうなったら直接、訊き出してやる。 そう思いながら睨む流星から侯爵は眼を逸らすように背を向けた。 「いいだろう、私の部屋へ来なさい」 背中越しに響く冷たい言葉。 流星は唇を強く引き結んだ険しさが滲む表情で、侯爵の後に続く。 そんな流星と共に後を付いていく華王を侯爵は一瞥したが、何も言わなかった。 |
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