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聖なる水の神の国にて〜懐秋〜 彷徨う影 1 休日がやって来た。 本家の顔見知りの使用人に前もって連絡を取ってみると、今日明日とも父は本家にいないとのことだった。 様子を尋ねた使用人は、父の出掛けた先を知り得るほどの立場にはなかったのだが、それだけ分かれば充分だ。 面倒なことは早く済ませてしまうに限る。 流星は早速、ティーンカイル侯爵本家へ出掛けることにした。 当初は一人で出掛けるつもりだったが、 「手伝えることがあれば言えって言ったのは、あいつ自身だからな」 気の進まない霊調査の道連れにと思い付いて、華王の寮部屋へと向かう。 扉を叩いて少し待つと、扉が内側から開かれる。 戸口に立つ相手の顔を見て、流星はちょっと目を丸くする。 「お、珍しいな。眼鏡無しか」 「さっき起きたばかりなんだ」 寝惚けたところのない明朗な声で応えて、華王は身を引き、流星に部屋の中ヘ入るように促す。 「へえ、寝坊か。いくら休みとはいえ、優等生君にしては珍しいんじゃないの?」 「昨夜は遅くまで書庫から借りた本を読んでいた」 「ふうん。お、もしかしてこれか?」 茶化すように話し掛けながら部屋の中に入った流星は、机の上に開いたままにしておいてある書物を覗く。 「…………前言撤回」 こいつは、正真正銘の優等生だ。 そこにあったのは、暗号のような異国の字の羅列で、何が書いてあるのか流星には全く読めなかった。 気を取り直して顔を上げ、部屋の様子を眺める。 「一人部屋なんだな。俺と同じだ。学年首席の特典か?」 「まあ、そんなところだ。お前は?」 「俺は全く逆さ。万が一にも同室になる奴が、俺の悪い影響を受けないよう、俺だけ隔離されてるって訳だ」 眼鏡を掛けず、直に灰色の瞳を晒した華王は、いつもより美貌が際立って見えた。 あまりにも綺麗過ぎて、少々近寄り難く感じるほどだ。 その華王は、流星の話し相手をしながら広くもない部屋の中を歩き、身支度を整えていく。 その流れるような動きに、流星はふと気付いた。 「お前、眼鏡無しでも見えてるんじゃないか?」 「ああ、視力はかなり良い方だ」 「だったら何で眼鏡なんて…」 「見え過ぎるのも結構疲れるんでな。少し視界を悪くしといた方が、日常生活が過ごし易い」 そう言われて、流星は華王が「霊視」の能力を持っていることを思い出す。 能力の制御ができないのか。 気になって問うてみる。 「お前、一体何処まで視えるんだ?」 「眼鏡無しなら、人間、動植物の霊に加えて、自然の精霊ぐらいまでなら視える」 「ってことは…世界に存在する霊体全てか?!」 「だから困るんだ」 自分の能力を自慢するでもなく、ただ華王は苦笑いだ。 その表情には、彼が自分の能力を持て余していることが窺えた。 「俺も自分の能力を持て余すときが来るのかな」 ふと、そんな言葉が零れ出た。 まだ、自分が能力を持っているということ自体にも実感がないのだが。 それに対して、華王は柔らかい笑みを浮かべた。 花のような笑み。 「…いや、お前なら修養次第ですぐ、自分の能力を制御することができるようになるだろう」 「……おやぁ、少しは俺のことを認めてくれてるって訳?」 思わず気恥ずかしくなってしまった自分を誤魔化す為、流星は技と茶化すように応えてみせる。 そうして、身支度を整え、眼鏡を掛けようとする華王へ向かって手を伸ばす。 素で照れるようなことを言う華王に意地悪してみたい気持ちもあって、その眼鏡をひょいと取り上げる。 「流星」 返せと軽く睨む華王に、余裕ぶって微笑んでみせた。 「へえ、怒った顔も絵になるじゃないか。眼鏡で隠すなんて勿体無いぜ。 多少人より多くのものが見えたって良いじゃないか。大体お前、人目だってさほど気にしてないだろう。 ああ、その前に視線自体に気付いていないのか」 取り上げた眼鏡を頭上に翳すなどして弄びつつ、流星が意地悪く言うと、 「お前、全く分かっていないな。まあ、お前は俺じゃないんだから当たり前だが」 華王は苦い溜息を吐いた。 「今、この部屋にいるのは俺とお前だけじゃない」 「へっ?」 一瞬ぎくりとして動きを止め、辺りを見回す流星に、華王は噛んで含めるように言い聞かした。 「いるのは、風と水の精霊。他に家具や日常道具に宿る物霊だ。彼らは常にどの空間にも存在している。 例え、俺がお前の言うように鈍いとしてもだ、彼らの存在を無視することは出来ない。 そんな衆人環視のような状況で、平然と着替えたり、湯浴みをしたり出来るほど俺は図太くない」 「…ご尤もです」 お前にはそれが出来るのか、と眼で問われて、流星は内心恐縮しつつ、肩を竦める。 確かに、本来ひとりであるべき場所に否応なく他の存在があると感じながら、 着替えたり湯浴みをしたりなど出来るはずがない。 「おふざけが過ぎた。悪かったよ」 「分かったのならいい」 流星から返された眼鏡を掛けながら、華王は頷く。 それに愛想笑いを送り掛けた流星は、しかし、気付いて軽く眉を寄せた。 「……待てよ。見えようが見えまいが、常に周囲に様々な霊がいることは事実な訳だろう? 結局、衆人環視の中で着替えることには変わりないじゃないか」 そして、そのことを知っていながら、堂々と着替えたり、湯浴みをしたりする。 それはそれで図太いんじゃないか? 突っ込む流星に、華王は悪びれることなく腰に手を当てて言い放つ。 「だからと言って、着替えも湯浴みもせずに生活することは出来ないだろう。用は気分の問題だ。 見えなければ、ある程度気にしないでいられる」 「……」 華王が能力を持て余していることに、多少の苦悩を抱えているように見えたのは、幻だったのか。 華王の開き直りめいた言に、流星は呆れ半分安堵半分の複雑な心境を抱く。 しかし、良く考えてみれば、本来見えないはずの霊の存在まで気にして生活していては、神経がおかしくなってしまう。 ならば、なるべく彼らのことを気にしないよう生活を送るしかない。 結局、華王の言っていることは、それなりに筋が通っているのだ。 「やっぱり、図太いとも思うけどな…」 「何か言ったか?」 「いやいや、こっちのこと」 送り掛けた愛想笑いを改めて送り付けると、華王は僅かに華奢な首を傾けるようにして、流星を見遣る。 「ところで、お前の用件は何だ?」 儚げで線の細い見掛けに全く反して、図太い優等生殿は、思い出したように問う。 「ああ、そうだった」 流星もまた思い出したように、彼の部屋を訪ねた用件を切り出したのだった。 |
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