聖なる水の神の国にて〜懐秋〜

 

   凍る心 3

 

「私ね、これでも十五年ぐらい前までは、ここで一番の稼ぎ頭だったのよ」

 女はその時代を懐かしむように、その頃よりは艶の衰えた瞳を細める。

「その頃は毎晩のように、私に会いたいと訪れる貴族がいて…そんなお客から毎日のように贈り物が届けられたものよ。

花、宝石、洋服…どんな贅沢も思いのままだったわ」

「羨ましいことで」

「ふふ、そうね。そのときは有頂天だったわ。でも、暫くして…恋をしたの」

「恋?」

「ええ。相手は私のお客様だった貴族の一人息子。

お父さまはきっと、こういう女遊びも勉強だと思って、彼をこの館に連れてきたのね。

彼は優しくて一途で…今まで出会ったどんな男性とも違っていた…」

「それで、好きになった訳だ」

「ええ。

でも、彼は跡継ぎだったから、どんなにもてはやされていても、結局は娼婦に過ぎない私ではとても彼の相手にはなれない。

彼もいずれは相応しい相手と結婚するだろうことは端から承知していたの」

 その予想通り、彼は暫くすると彼女に会いに来なくなり、彼女は彼の父から彼が結婚したことを聞かされた。

 

「でも、少しでも彼と一緒に過ごすことが出来て幸せだった…本当にそう思っていたの……

そんなときよ、彼の子を身篭っていることが分かったのは」

 娼婦と客の間に子が出来ることなど珍しいことではない。

 女子であれば、この館で高級娼婦としての教育を受けさせ、男子であれば…生まれてすぐ、里子に出す慣わしだ。

 そして…生まれたのは男の子だった。

 生まれたばかりの子を手放すのは、辛かったけれど仕方がなかった。

 さほど時間も掛からずに里親も見付かった。

そうして、次の日には子を託すという晩。

突然の来客があった。

 

「…彼だったの。相応しい家柄のお嬢様と結婚して、家の跡を継いで…会うことの無かった短い間に、

見違えるほど、立派な紳士になっていた。そんな彼が私に言ったの。生まれた子を引き取りたいのだ…と」

 彼女の言葉に流星(りゅうせい)は知らず、驚きに目を瞠る。

 だが、思い出話に浸る彼女は、そんな彼の様子には気付かないようだった。

 何処か淡々とした口調で言葉を紡ぐ。

 

「彼の奥様は元々身体の弱い方で、彼と結婚して間もなく、

罹った病の所為で子を宿すことができなくなってしまったそうなの」

跡継ぎが生まれないからと言う理由で、一度結婚した妻を見限ることは出来ない。

しかし、跡継ぎは欲しい…

困り果てている時に、彼は偶然、彼女が自分の子を産んだことを知ったらしい。

 

「彼はそうした事情を包み隠さず話して、身勝手なことを頼んでいるのは分かっているがどうか頼むと、

単なる一娼婦である私に頭を下げたわ。そんな風に以前と変わらず、私にも誠実に接してくれるのが、嬉しかった…

それに、彼は子供の実の父親ですもの。彼に引き取ってもらって、しかも跡継ぎとして育てて貰えるのなら、

私だけではなく、子供にとっても願ってもないことだと思ったの」

 だから、彼の望むまま子供を渡した。

 そのとき、何かを言い掛けて躊躇うような彼の思いを読み取り、彼女は自分から、

子供には今後二度と会うつもりはないし、万が一会うことがあったとしても、母とは名乗らないと約束した。

 子供を手放すことを決めたときから、そのつもりだったのだ。

 彼は、辛いことを約束させたと謝ったが、彼女は平気だった。

 

 

 それからは、子供のことは忘れて生きてきたつもりだった。

「本当に平気だったの。でも、可笑しいわね。

もう何年も経った今頃になって、子供が今、どうしているか無性に気になるのよ」

「何故今になって?」

「さあ、どうしてかしら?」

 彼女は、はぐらかすような応えを返して、立ち上がり、部屋の窓を開けた。

 仄明るくなった空の色と共に、朝の空気が流れ込んでくる。

 長話をしているうちにすっかり明るくなってしまったわ、と呟いてから、彼女は流星に振り向く。

 

 そのとき、流星は気付いた。

 艶やかな化粧を施された彼女の顔。

 その内側に潜んでいたやつれが、淡い朝の光に滲み出ている。

 それはおそらく年齢の所為ではなく……

 

「さて、おばさんの長話はこれでおしまいよ。付き合って頂けて嬉しいわ。

もっとも、若い貴方にとってはつまらない話だったでしょうけれど」

「いや」

「有難う。ふふ、こんなことをお客様に話したのは貴方が初めてよ。

貴方を見て……私の子供もこんな風に大きくなっているかしらと、懐かしいような気になったからかもしれないわね」

 まあ、私の子供は、貴方よりもっとずっと幼いでしょうけれど、と彼女は朗らかに笑った。

 

 流星が部屋から去る間際、見送る彼女が急に咳き込んだ。

 立ち止まる流星に、彼女は苦しげに細い背を屈めながら、大丈夫だからと咳の合間にどうにか言葉を紡いだ。

 

 とても、大丈夫には見えなかった。

 それは彼女自身も分かっているのだろう。

 

 そして、それがきっと彼女に自分の子供のことを思い出させたのだ。

 

 何処かやり切れない思いが湧き上がった。

しかし、すぐにそれは諦めにも似た虚無感に包み隠される。

 

おそらく、ここにはもう二度と訪れない。

 

 

複雑な胸中を押し隠したまま、流星はその娼館を後にした。

 


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