聖なる水の神の国にて〜懐秋〜 天使の慈愛 1 父の正妻を本当の母のように感じていた。 しかし、一方で自分を産んだ本当の母はどのようなひとだったのだろうと考えた。 どのような気持ちで自分を手放したのか。 今も生きているのか。 自分を…少しは愛しいと思ってくれていたのか。 義母が注いでくれる愛情に感謝しながらも、いつもその疑問が心の片隅にあった。 そうして。 思いもよらない生母の正体を知らされたのは、五年前、十三の歳だった。 皮肉にも、父の分まで愛してくれた義母が、病で亡くなった、その葬儀後のこと。 父はいつものように、跡継ぎらしく振舞おうとしない自分を咎めた。 全ては侯爵家の為。 ひいては王国の為。 己の正妻であるひとを失った日でさえ、変わることない父の態度に我慢がならなくなった。 自分の態度が気に入らないなら、別に相応しい跡継ぎを選べばよいと言放ち、言い争いとなった。 そのときに、恐らく既に冷えていた父との関係は、完全に壊れてしまったのだ。 そして、興奮のあまり、口を滑らした父から、自分の出生を知らされた。 自分を産んだ母は、娼婦だった。 娼館を出て、足早に通りを歩いていた流星の足がぴたりと止まる。 向こうからやって来る人物も、彼に気付いたようだ。 「…何で、こう会いたくないときに限って出てくるんだ……」 思わず、頭を抱えたくなりながら、呟いた流星の言葉は相手には届かなかった。 「お前にはよく会うな」 何処かのんびりと言いつつ、朝の光を纏わらせながら、宣告の天使が近付いてくる。 今日は黒い制服ではなく、簡素な意匠の動き易そうな衣服を、その華奢な細身に纏っている。 先日の流星の助言を素直に実行したものらしい。 それはいいのだが… 「お前、本当に見掛けによらずいい度胸してるよな…」 「何がだ?今日は休日だから、急いで寮に戻る必要はないぞ」 「だから!お前みたいな優等生がそうそう頻繁に色街をうろついてていいのかよ?!」 「その台詞はお前にも返したい」 「…俺はいいんだよ。学院側の評判は元から悪いからな」 「へえ、そういうものか」 …こいつは正真正銘の天然かもしれないぞ。 全く、気に掛けていない応えに、流星は再び頭を抱えたくなった。 そんな流星の様子をも気に掛けることなく、華王は胸の前に垂れ下がってきた艶やかな黒髪を、白い手で軽く背に払った。 「例え、何かあっても、自分で何とかする。お前が俺のことを気に掛ける必要はない。それに、色街はただの通り道だ」 「通り道?」 訊き返した流星に頷いて、華王は通りの向こうを示す。 「そう、俺の用事があるのは、この通りの突き当たりにある塀の向こう側だ。今日もこれから行くつもりでいる」 細い指先が示す通りの隙間から僅かに覗く、古びた石塀。 その向こう側といえば…… 「貧民街か…」 流星はやや呆然として呟く。 華やかな色街と接するようにして存在する貧民街。 しかし、その境目に設けられた塀は、高く厚く、こちらとあちらの世界を隔絶していた。 塀の向こう側は、流星のように色街で遊ぶ貴族たちにとっても、未知の世界だ。 いや、その存在を認めていながらも、敢えて見ようとしない世界…と言うべきか。 そんな場所に華王はいつも出入りしているのだという。 「じゃあな」 言葉を途切れさせた流星の様子を話の終わりと見た華王は、軽く手を上げて歩み出す。 そんな彼の後を付いていくように、流星の足は自然に動いていた。 「何だ、お前も行くのか?」 「…ああ。別にお前の後を付けていく訳じゃない」 すぐにそうと分かる偽りに、華王は軽く肩を竦めただけで、背を向けた。 流星は前を進む細い背中と煌きながら揺れる黒髪を見据える。 一体何が目的で華王が貧民街に通うのか、訝しむ以上に、華王の存在自体が、流星には何よりも衝撃的だった。 ある意味禁忌とも言える場所に、躊躇わず足を踏み入れようとするその姿が。 しかし、一方では冷静に考える。 華王は貴族の子弟が集まる神学院の主席学生ではあるが、結局はロゼリア国人ではなく、他国人だ。 そんな彼にとっては、この国の事情も慣習も関係なく、全く気に掛けるものではないのだろう。 それでも、何故、よりにもよって他国人である彼が、この国の暗部に目を向けたのかは分からなかった。 |
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