聖なる水の神の国にて〜懐秋〜 引き摺る影 3 身体が重い。 丘の向こうに半分ほどその身を隠した太陽が、この日最後の輝きを放っている。 「こどもに会いたい…か」 「…ああ」 娼婦の願いを聞かされた華王の呟くような言葉に、流星は相槌を打つ。 帰り際、女は「さっき、言ったことは忘れて」と流星に言った。 無理なことは分かっているから…と。 学院への道を辿りながら、華王は考え深げに腕を組む。 茜色の光が、その白い頬を染め、艶やかな髪を煌かせている。 神学院への一本道となっている通りは静かで、流星たちの他に歩む者の姿はなかった。 黙したまま歩んでいた華王が、ふいに口を開く。 「まずは、彼女の子供を捜すところからか。しかし、今の段階では手掛かりが少な過ぎる。 もう少し彼女から話を聞かないといけないな。こどもを引き取った貴族の名前が分かれば、もっと探しやすくなる筈だ」 「…捜すつもりなのか?」 目を見開いて問うた流星に、華王も大きな目を丸くして言葉を返す。 「彼女の最期の願いだぞ。叶えない理由が何処にある? 彼女の病を治すことは出来ないが、せめて唯一の願いを叶える手伝いくらいはしたっていいだろう」 「………」 身体が重い。 頭の奥さえ、鈍く痛み始めた。 「…無理だろう。余計なことはしない方がいい」 「どういうことだ」 投げやりな言葉を落とし、立ち止まった流星に、華王も立ち止まり、怪訝そうに振り向く。 「無駄だって言ってるんだよ。例え、子供が見付かったって、そいつはきっと自分の母親が娼婦だなんてことは知らない。 そのことをどう本人に説明する?どうやって彼女のいる貧民街に連れていくんだ? それに、そいつはずっと貴族として生活しているんだぞ。 今更、実の母親が娼婦だったと聞かされても、子供にとっては迷惑なだけだ。彼女もそのことを充分承知してる。 だから、忘れてくれと言った。今更……無駄なんだよ」 「無駄かどうかはやってみなければ分からない」 俯いて、突き放すように言葉を紡ぐ流星に、華王がゆっくりと近付いてくる。 …身体が重い。 …頭が……痛い。 己の黒い影が通りに長く伸びている。 そこに、近付いてくる華王の影。 それが互いに重なるかと見えた瞬間。 己の影がぐにゃりと歪んだ。 「…なっ!?」 驚く間もなく、いびつな影は、触手のような腕を伸ばし始めた。 地上を這い、瞬く間に地面を離れ、二人に襲い掛かる。 「…っ!ついにお出ましか」 襲ってくる影を舞うような動きで躱しながら、華王が柳眉を僅かに顰めた。 厳しい眼差しで暴れる影を見据える。 一方、突然の出来事に動揺しながらも、流星は何とか持ち前の運動神経の良さで、影の攻撃を躱していた。 が… 「うわっ…!」 足首に黒い影が巻き付き、動きが妨げられる。 「流星!!」 そのまま地面に引き倒されそうになるのを、どうにか堪える。 そんな流星を嘲笑うように、足元の影が、滲み出すように次々に地から伸び、足や腕に絡み付いていく。 「くそっ…!」 嫌悪と苛立ちに、流星は思わず悪態を吐いた。 すると、火花が弾けるような音がして、彼は驚く。 影が怯えたように締め付ける力を緩めた。 しかし、それは一瞬で、すぐに影はより強い力で、流星を拘束し始めた。 「くっ…!」 襲う影から逃れながら、通り脇の水路へ走る華王の姿が、流星の目の端に映る。 水路へ辿り着いた華王の細い足首を影が捕らえた。 「…っつ!」 「…華王……っ!」 華王は細い眉を顰めるが、その場から動かない。 「…っ華王!何して…っ!!」 流星は怒鳴るが、その視界が遮られるように影に覆われた。 動きも封じられて、指一本動かせなくなる。 声も出せない。 あともう少しで、全身が黒い影に覆われようとしたとき。 聖呪を唱える涼やかな声と共に、突如として、視界が開けた。 地面を濡らす水。 流星はすぐに華王が何をしたのか悟る。 彼は聖呪を唱えることで聖水へと変えた水路の水を、影へ向かって浴びせたのだ。 慄くように震える影に向かって、華王は持っていた水筒に汲んだ残りの水を、容赦なく、振り撒いた。 影から解放され、流星はやっと自由を取り戻す。 陽光に煌く水を纏わらせながら、彼らを襲った影は収縮し、やがて、地を這う影と同化し、動かなくなった。 |
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