聖なる水の神の国にて〜懐秋〜

 

   引き摺る影 2

 

「あら…また、会ったわね」

「そうだな…」

 目覚めた彼女は、流星(りゅうせい)を見て少し驚いたようにそう言った。

「貴方にこんな情けない姿を見られるとは思わなかったわ…」

 横たわったまま、女はこの前よりも更にやつれた頬を歪めて苦笑した。

 華王(かおう)が流星に振り向く。

「知り合いか?」

 すると、流星が応えるより先に、女が口を開いた。

「…ええ、ついこの前お客さまとして私がお相手した方よ。あら、でもこれは言ってはいけなかったかしら…」

「何故だ?」

 華王がきょとんとして女を見る。

「まあ…分からないの?変わった方ね…まあ、こんなところへお越しになる方だもの…

それだけでも随分と変わっているけれど……

それにしても、こんなに綺麗で可愛らしい方がいらっしゃるのに、娼館へ通うなんて贅沢な方ね」

 そう言って、流星を見遣る、どうやら誤解をしているらしき女に、流星は苦い溜息を吐きながら、口を開く。

「そいつは男だよ」

「…あら」

 女は目を丸くして、華王をしげしげと眺める。

「ごめんなさい、失礼なことを言って。…でも貴方、憎らしいくらい綺麗だわ…」

「褒められてるのか、貶されてるのか分かりかねるな」

「褒めてるのよ、もちろん」

 華奢な肩を竦めて、僅かに苦笑した華王に女は微笑み掛ける。

 そんな女に屈託なく、華王は微笑み返した。

「さて。少し診させてもらっても良いか?と言っても、薬師の真似事だが」

「……無駄なことをなさるのね」

 そこで初めて女は暗い表情を見せた。

「無駄とは限らない」

「この病は治らないわ…それは私自身が良く知ってる。ただ、ここで死ぬのを待つだけ…

もう、どんなことをしたって無駄なのよ…だから…余計なことはしないで頂戴」

 弱弱しい声でありながらも、きっぱりと拒絶する女を、華王は真っ直ぐに見返す。

「確かに俺にはあんたの病を治すことは出来ないだろう。だが、少しでも病の痛みを和らげることは出来る。

そうすれば、残りの時間を痛みに耐えながら過ごすことからは逃れられる。それもあんたにとっては無駄なことか?」

 女は再び目を丸くして華王を見詰める。

「…驚いた。貴方って見掛けに寄らず、随分な自信家なのね」

「学生さまの調合した薬は、本当に良く効くんだ」

 黙っていられないというように、案内をした街の男が口を挟んだ。

 女は暫く黙り込む。

 そうして、淡い笑みを唇に浮かべた。

「…随分信用されてらっしゃるのね」

 頑なな気配が消えた。

「…そうね、どうせなら痛みが少ない方がいいに決まってるものね。

今更こんなことで意地を張っても仕方がないし……お願いするわ…」

「有難う」

「…まあ、貴方が礼を言うなんて可笑しいわよ」

 ほっと滑らかな頬を緩めた華王が零した言葉に、女はくすくすと笑った。

 

「薬草が足りない。これから近くの森で取ってくるから、彼女の傍に付いててやってくれ」

 案内の男が帰り、一通り女の容態を診た華王が、流星に向かってそう言った。

「へいへい、薬師様」

 この手のことに疎い流星は、彼の言うままだ。

 頭の後ろを掻きながら、ゆっくりと女の方へ近付く流星と擦れ違いざまに、華王は右の拳でとんと、軽く流星の胸を叩く。

「…彼女の願いを訊いてやってくれ」

 同時に耳に届いた囁きに、はっとするが、背後を振り向くともう、華王は外へと出てしまっていた。

 どういうことだとは思わなかった。

 彼女の願いを多分自分は知っている。

 それを彼女自身から引き出す役目を流星に任せたのは、華王がそのことまで見抜いていたからなのだろうか。

 だとしたら、

「敵わねえなあ……」

苦笑しつつの呟きは、女の耳にも届いたらしい。

「…貴方、いつもあの子に振り回されてるでしょう?」

「さあてね」

 微笑む女に肩を竦めて応え、流星は長椅子の傍らに置いてあった椅子を移動させつつ、腰を下ろす。

「話し過ぎて疲れたんじゃないか?少し寝めよ。見張りくらいの役には立つぜ」

「そうね…有難う……」

 女はふっと瞳を閉じた。

 

 暫しの間、沈黙のときが流れる。

「……あの子はどうしているかしら?」

 眠っていたと思っていた女が、唐突に口を開いた。

「…自分の子供に会いたいか?」

 静かに問い掛けると、女はうっすらと目を開き、唇を小刻みに震わせた。

「………会いたいわ」

 殆ど聞き取れないほど小さな声で呟かれた言葉と共に、彼女の虚ろな瞳から涙が溢れる。

「一度でいい、今のあの子の姿を見たいわ……」

「……そうか」

 彼女の呟きに、流星は相槌を打つことしか出来なかった。

 

 生まれてすぐに手放した子供に会いたい。

 

 やはり、それが彼女の願いだった。

 しかし、その願いが叶うことは恐らくない。

 だから、請合う言葉の代わりに、彼女の手を握ってやる。

 叶わない願いを口にしながら涙を流す母親の姿。

 そこに知らない筈の実母の姿が重なる。

 

 流星を産んだ娼婦は、とうに亡くなったと聞かされた。

 そんな母も、この娼婦のように、引き離された子を思って泣いたことがあったのだろうか?

 …少しでも自分を恋うてくれたのだろうか?

 

 永遠に応えの得られない問い。

 

それが、ふいに胸を塞いだ。

 そのやり切れない苦しさを、流星は唇を噛み締めて堪えるしかなかった。

 


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