聖なる水の神の国にて〜懐秋〜 引き摺る影 1 流星は華王と共に、度々貧民街を訪れるようになった。 定期的に貧民街を訪れる華王は、煙草屋に託された麵麭の他に、 自らの薬学の知識を生かして調合した薬を、病に苦しむ者たちに渡していた。 躊躇いなく彼らに触れ、微笑むその姿は、胸痛むほどに美しかった。 「学生さんはお優しいでしょう?」 貧民街への行き来で、顔馴染となった煙草屋の主人が、煙草を買いにきた流星に、ふとそう漏らした。 「相手を選んでるみたいだけどな。俺には結構容赦ないぞ」 「それは貴方が、学生さんにとって気安い御友人だからでしょう。それもまた、羨ましいことです」 「…別に…それほど親しい訳でもない」 人の良い笑顔で、指摘されて、どこか落ち着かない気持ちになるのを、流星は髪を掻き上げることで誤魔化す。 「…私がこんなことをするようになったのは、学生さんと出会ってからなんですよ。 学生さんにあの街への行き方を問われるまで、私はずっとあの近い街を見て見ぬ振りをしてきました」 主人は苦笑いをして、言葉を続ける。 「見てのとおり、私共の暮らしは、それ程豊かではありません。自分たちのことで精一杯でした。 そのことを理由として、どうせ、自分では何も出来ないからと、あの街から目を逸らし続けてきたのです… でも、学生さんと出会って、気付きました。 ほんの少しでもいい、それでも何かを誰かのためにしようとする気持ちが大切なのだと」 主人は流星に微笑み掛ける。 「そう思って行動すると、不思議と心に余裕も出てきましてね、以前よりも視野が広くなったような気がするのです。 これは、学生さんが言葉ではなく、その行動を以って教えて下さったことです……本当に…感謝しています。 そう言うと、学生さんは否定なさるんですけどね」 だから、貴方にも言っておくんです、と笑う主人に、 「本人に伝えるかどうかは分からんぞ」 と、流星は素っ気無く応える。 それへ、構いませんよと、応えた主人は、独り言のように呟いた。 「学生さんは本当に…天使さまのようなひとですね」 最初は、知らない人だということで、遠巻きにしていた貧民街の子供たちも、 少しすると流星に気安く話し掛けてくるようになった。 ただ、華王に対するように、甘えてくる様子はない。 その代わり、少し大きな子供と取っ組み合いのようなことはする。 がむしゃらに纏わり付いてくる子供たちを剥がして放り投げるという、少々荒っぽい交流である。 しかし、それを子供たちも楽しんでいるようなので、問題はないだろう。 正直、流星自身も、華王のように子供を甘やかすのは得意ではないから、この子供たちの接し方は、却って有難かった。
「学生さま、ちょっと宜しいですか?」 華王に付き添っての貧民街通いが、七日目を迎えた頃。 やって来たばかりの華王を、街の男が呼び止めた。 「どうした」 「つい最近、病に罹った女がこの街にやって来まして… 恐らく、助からないとは思うんですが、念の為、学生さまに診て頂きたくて…」 「分かった。案内してくれ」 「手伝う」 すかさず言った流星に頷きだけを返して、華王は男と連れ立って歩き出す。 流星はその後に続いた。 「その女、元は娼婦なのです。どうも長い間患っていたのが、無理をして客を取り続けていたようです。 でも、とうとう身体が動かなくなって、色街からここへ…」 「…そうか」 男の説明に、華王は頷くのみだ。 傍らで流星は何処か冷めた気分で考える。 恐らく、華王が診たところで、その女は助かるまい。 色街からこの貧民街へと移ってくる娼婦は実は多いという。 しかも、やってくる者は、病を得て、助かる見込みの無い者が殆どだ。 病を得た娼婦を、抱えている娼館が最期まで面倒を見ることは極めて少ない。 娼館としては、稼ぎの無い娼婦をいつまでも、抱えている訳にはいかないのだ。 そうして、大方の娼館は病身の女たちを放り出す。 行き場の無くなった彼女たちの行き先は、貧民街しかない。 それを酷いと思うか、行き先がある分だけましだと思うかは、当の本人にしか分からない。 しかし、こうして日々助け合いながら生きている街の者たちを見ていると、 この街で最期を迎えるのは、そう酷いことではないようにも思えた。 「あちらです」 街の隅に佇むあばら屋を示され、華王は躊躇わずその壊れ掛けた扉から中へと入る。 後に続こうとした流星は、しかし、戸口で一瞬立ち止まった。
まさか…… 不意に湧き上がる予感に、僅かに緊張しながら、家の中へと踏み込む。 「…眠っているようですね」 「そうだな。ああ、無理に起こさなくてもいい。目覚めるまで待っている」 そう言い交わす華王と男の間から垣間見える、古びた長椅子に横たわった女の顔…… 「…!」 思わず、息を呑んだ。 それは、流星が昔話を聞いた、あの娼婦だった。 |
前へ 目次へ 次へ