聖なる水の神の国にて〜懐秋〜 天使の慈愛 5 どうにも身体が重い。 沈む陽の、血のように赤い色。 それを流星は憂鬱に眺めていた。 憂鬱の原因は、あるともないとも言えた。 いつも通りの父からの手紙。 実母と同じ境遇の娼婦との出会い。 華王との出会い。 初めて足を踏み入れた貧民街の様子。 …華王の慈愛。 …義母の慈愛。 この二三日で体験したことが、時折、過去の感情の記憶と交じり合い、頭の中を錯綜する。 それが、収拾がつかないほど胸を掻き乱し、焦りにも似た気持ちを起こさせる。 自分はこのままで良いのか。 しかし、そう感じたところで、自分に何ができるのか。 思考ともいえない思考が堂堂巡りし、それが現在の憂鬱状態を引き起こしているのは、確かだった。 「…あ。ちくしょう、問い詰めるのを忘れたぞ」 ふいに、華王の厄介な忠告について、本人に問い直すことを失念していたことに気付き、 流星は苛立たしげに、片手で長い金髪を掻き回す。 「負の感情に引き摺られるな…か」 講義もとうに終了して、学生の殆どは、寮に戻っている時間だ。 閑散とした学院内回廊の壁に寄り掛かり、流星は夕陽を織り込んで、今は紅い水を吹き上げる噴水を眺める。 すると、噴水の向こう側から、回廊をこちらにやって来る華奢な黒い制服姿が見えた。 ちょうど良い。 声を掛けずに、相手が近付いてくるのを待つ。 「流星か」 近付いてくる相手は、今度ばかりは、こちらに気付いてくれたらしい。 歩調を乱すことなく、回廊を進み、流星の傍らに立ち止まった。 「よお。こんな時間に何してるんだ?」 「ああ、書庫室で資料探しだ。そう言うお前は?」 「ああ、なんか人の群れが、いつも以上に、かったるくなってな〜、誰かさんの妙な忠告の所為かもな」 「忠告?誰の?」 「…お前だ、お前!全く、皮肉も通じんのか!」 「ああ、あれか」 抗議するように指を指されて、華王は書庫室から借りてきた資料を手にしたまま、 怪訝そうに目を瞬いたものの、すぐに納得したように頷く。 「俺としては、最大限に気を遣ったつもりの忠告だったんだが」 「それにしては、不明瞭過ぎるんだよ」 「それは仕方ない。俺にも詳しくは分からないからな」 「じゃあ、何で負の感情に引き摺られるなとか言えるんだ」 「どんな厄介なものに憑かれていたとしても、当人がしっかりしていれば、何とかなるものだ」 「一般論かよ…」 肩を落として、疲れたような溜息を一つ吐いた後、流星はふっと真面目な表情になり、華王を見詰めた。 そして、内心で気付く。 真面目になることなど、滅多にない自分が、こうして華王の前でだけは、軽薄さを貫くことが出来ないでいることが多い。 こんなに真面目に人と向き合うのは、久し振りだ。 華王の前では何故か、自分の感情を誤魔化すことが出来なくなるようだった。 「お前、霊とかそういったものが「視える」のか?」 「多少」 真面目に問う流星と裏腹に軽く応えて、華王は逆に問い掛けてくる。 「俺の所為で気分が悪い他に、何か異常はあるか?」 「…あ?いや…ないけど」 「そうか。それは良かった」 優しげに灰色の瞳を細める表情が、貧民街の子供たちに向けていた表情と重なる。 「何か、異変が起きたら言ってくれ。出来る限り手伝おう」 瞳だけで挨拶し、華王は背を向ける。 華奢な背を滑るように揺れる漆黒の髪。 「なあ!おい!!」 呼び止めると、白い美貌が振り向いた。 「今度、あの街には何時行くんだ?」 「何故、そんなことを訊く?」 「暇潰しだ。荷物持ちとして付き合ってやるよ」 「素直に一緒に行きたいと言えばいいだろう」 華王は呆れたようにちょっと眉を上げる。 「うるせー。俺はひねくれてるんだよ」 舌を出してみせると、華王は笑った。 夕陽に照らされるその笑顔が、憎らしいほど綺麗だと、流星は思った。 |
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