聖なる水の神の国にて〜懐秋〜

 

   天使の慈愛 4

 

「がくせいさま」

 壊れかけた小さな家屋の中。

部屋の片隅に置かれた、古びた長椅子の傍らで、小さな子供が顔を上げる。

「タキ。お母さんの具合を見せて貰いたいんだ。いいか?」

 華王(かおう)の問いに、幼い少年、タキは、こくんと頷いた。

そっと傍らに跪いた華王の服の裾を、小さな手でぎゅっと握る。

「…学生さま……すみません……」

 恐らく寝台代わりの長椅子の上で、熱に浮かされながらも言葉を紡ぐタキの母に、華王は微笑んだ。

「謝らなくていい。これは俺が勝手にやっていることなんだから」

「まったく…タキは…移る病気かもしれないから離れていなさいと言ったのに……」

「だって……」

 母の言葉に、タキは小さな声で呟く。

 そんなタキの小さな頭を華王は白い手でそっと撫でた。

「タキはあんたが心配でたまらなかったんだろう」

「…ええ……」

 華王の言葉に母親は微笑んで応える。

そんな彼女の額に触れたり、口の中を覗き込んだりなどして、一通り様子を確認すると、華王は再び微笑んだ。

「恐らく風邪だろう。それに、もう治り掛けてる。タキ、今、頭は痛くないか?」

「ううん」

「そうか。今の時点でタキに何の異常もなければ、あんたの風邪がタキに移ることもない」

「…そうですか…良かった…」

「明日、薬草を煎じてこよう。食事はどうした?」

「……いえ…私がこんなだから……」

 やつれた頬を歪める母親の様子を眺め、華王は懐から小さな包みを取り出した。

 

 煙草屋の主人が華王の為にと渡した麵麭(パン)の包みだった。

 

 思わず腕組みを解いた流星(りゅうせい)に、ちらりと目配せだけを寄越して、華王は包みをタキに手渡した。

「ほら、タキ。これを母さんと一緒に食べるといい」

「…いいの?」

「俺は今お腹一杯だからな」

「ありがと」

 包みを大事そうに抱くタキの頭をもう一度撫でて、

「母さんには、スープか何かに浸して食べさせてやった方がいいだろう。作り方は分かるか?」

「…わかんない」

「じゃあ、一緒に作ろう」

「うん」

「…学生さま……本当に何から何まで有難う御座います…」

 少年の手を引いて立ち上がった華王に、母親は涙ぐみながら呟く。

「俺は大したことはしていない」

 素っ気無い華王の返事は、しかし、言いようのない優しさに満ちていた。

 

 申し訳程度にある小さな台所で、華王がタキと共にスープを作り始めるまで、

流星は彼の華奢な背中を、目で追うことしか出来なかった。

 ふいに、その華王と肩越しに目線が合った。

「何だ、流星。お前も手伝うか?」

「…んなことは言ってないだろ」

「お前は、何のために俺に付いてきたんだ?ただのウドの大木になりたくなければ手伝え」

「…何だよ、「ウドの大木」って?」

「俺の国では、でかいだけの役立たずのことを、そう言うんだ」

華王はそう言い放つと、目線だけで流星に傍に来るように促す。

渋々近付いてきた流星に、小さな玉葱とナイフを持たせる。

「切ってくれ。染みるからな、気を付けろよ。ああ、タキはそのまま鍋を掻き混ぜてくれ」

「……」

 手渡された玉葱を一瞬眺め、次いでタキと一緒に鍋を覗き込む綺麗な横顔を眺める。

そうして、溜息をつき、流星は結局、玉葱を指示どおり切り始めた。

 下を向いたまま、名を呼ぶ。

「……華王」

「何だ」

 律儀な返事が返ってくる。

 そこで、流星はもう一度問い掛けた。

「お前は一体何者なんだ?」

 昨日と同じ質問。

「華王・アルジェイン。お前と同じ神学院に在籍する…ただの無力な学生さ」

 少しの間を置いて返ってきた応えは、昨日とは少し違っていた。

 


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