聖なる水の神の国にて〜懐秋〜

 

天使の慈愛 3

 

煙草屋の主人が店の奥から何かの包みを持って出てきた。

「いつも通り少ないですが、これを」

「ああ、すまない」

 そんな会話を交わしつつ、主人がその包みを華王(かおう)に渡す。

 ふわりと漂ってきた匂いでその中身は焼き立ての麵麭(パン)だと知れた。

「それとこれは学生さんの分です」

 そう言って、主人はもう一つ小さな麵麭(パン)の包みを華王に押し付ける。

「こうして分けないと、学生さんは全てあげてしまうんですから。

包みにある分は減らしてませんから、安心なさってください。学生さんもちゃんと食べないと。

そんな細っこい身体じゃいけません」

「細いのは元々なんだが…」

 華王は苦笑しつつ、礼を言ってその小さな包みも受け取る。

 最初に渡した包みの中の麵麭(パン)は貧民街に住む者たちへ分けられるものなのだと、確認せずとも流星(りゅうせい)には分かった。

 ぎりぎりの生活ながらも、こうして家で焼いた麵麭(パン)をより貧しい者たちへ分ける煙草屋の主人。

 その主人の様子を流星は何処か信じられない気分で眺めていた。

 

 再び歩き出した華王と肩を並べる。

しかし、何を言ったら良いのか分からない。

そんな自分が腹立たしくて、傍らの華王の手からパンの包みを引っ手繰る。

「…っおい!」

「持つ」

 流石に驚いた華王に、仏頂面のままそう言って、顎で先へ行くように促した。

 突然の流星の行動に、目を丸くしていたものの、華王はすぐに表情を和らげた。

「有難う」

 澄んだ声を優しく響かせて、通りの先を歩んでいった。

 

 

通りの突き当たりの色街と貧民街とを仕切る塀。

華王がその狭い入口をひょいと潜った。

流星も遅れず、その後に続く。

一瞬訪れる暗闇に、禁忌を犯そうとしている罪悪感とも恐怖ともつかない思いに捕らわれかける。

が、入口を通り抜けた直後、流星は全身を朝陽に晒された。

その眩しい程白い光の中で、胸に蟠っていた暗い感覚は溶かされてしまう。

 

初めて見る貧民街の雑然とした通り。

その道に敷かれた石も、脇に佇む家々の石壁も、欠けたり割れたりしているところが多く、確かにみすぼらしかった。

しかし、それらもまた、白く輝く陽光に照らされていた。

 

ここにも太陽はある。

 

そんな当たり前のことに安堵している自分に気付き、流星は思わず苦笑を漏らす。

 

地上の塀で隔てられているだけのこの世界。

その一体何処が、自分の住む世界と違っていたというのだろう。

下らない先入観に自嘲するしかなかった。

 

ふと、通りの角からこちらを窺っている小さな子供と目が合う。

汚れた頬と手足。

髪もくしゃくしゃで随分と痩せた少年だ。

流星と目が合うと、怯えたようにぱっと頭を引っ込める。

しかし、またおそるおそる首を出すと、やっと華王の姿に気付いたように、大きな瞳を輝かす。

「アイか?」

 同時に華王もその少年に気付いて名を呼ぶ。

「がくせいさま!」

 アイと呼ばれた少年が、通りに転がるように飛び出した。

 そんな少年に続いて、驚くほど多くの子供たちが、わらわらと出てくる。

 彼らは一直線に華王の元に駆けて行き、差し伸べられた白い手や足元に縋り付いた。

 華王にじゃれつく少年少女たちは皆、薄汚れて痩せていた。

年の頃はアイという少年と同じくらいか、或いはもっと幼く見える子供たちもいた。

「アイも、キョウもサイも皆元気か?何処か苦しいところはないか?」

 華王は子供たちの汚れた様に構うことなく、縋り付いてくる子供たちを一人一人抱き締めてやっている。

「うん!元気だよ!がくせいさま!!」

 子供たちは華王の細い腕の中で、嬉しそうに声を上げて笑う。

 そんな子供たちに微笑み返す華王にちらりと視線を寄越されて、流星は持っていた麵麭(パン)の包みを華王に渡した。

「今日も煙草屋の主人から預かってきたんだ」

「有難う、がくせいさま!!」

 華王は包みから取り出した麵麭(パン)を一つずつ子供たちに手渡す。

 それを笑顔で受け取って、駆け戻っていく子供たちを見送る先に、いつの間にか、大人たちが出てきていた。

 子供たちの親だろうか。

 彼らに向かって、華王は、

「…すまない」

と、言った。

 これだけの麵麭(パン)では貧民街に住まう全ての人々の飢えを凌ぐものにはならない。

 麵麭(パン)の数よりも、ここに住まう人々の数の方が明らかに多いのだ。

 華王の、そして煙草屋の主人の行動は、彼らの生活を真実救うものにはなり得ない。

 彼らの行動は結局のところ、自己満足に過ぎないのだ。

 華王の言葉は、そんな偽善的な自分の行動に対する謝罪なのだと流星は遅ればせながら気が付いた。

 

 しかし、謝られた大人たちは、穏やかに首を振った。

 華王はそんな彼らに微笑みを返しながら近付く。

 それから、その中で一番年長者と見える男に話し掛けた。

「タキの姿が見えなかったが」

「…はい、昨日タキの母親が熱で倒れてしまいまして…タキはその看病で今も母親に付き添っているのです」

「そうか。タキのところに案内してもらっても良いか?」

「はい。こちらです」

 頷いて先に行く男の後に付いて、華王は歩き出した。

 


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