聖なる水の神の国にて〜懐秋〜 天使の慈愛 2 暫く通りを真っ直ぐ歩いてから、華王は脇道へと入る。 通りの突き当たりに塀は見えているが、貧民街へと入る狭い入口はもっと西側の片隅にあった筈だ。 華王はそこへの近道を知っているのだろう。 彼が今歩む脇道は、色街の裏通りのようだった。 娼館や酒場の建ち並ぶ華やかな表通り、或いは表の賑わいから離れた、 高級娼館が奥に佇む脇道とは違う生活の匂いがそこにはあった。 恐らく、色街で下働きとして働くものたちが暮らす界隈なのだろう。 「おや?もしかして、学生さんですか?」 通りに幾つか並ぶ小さな店先から、ふいにそんな声が掛かった。 「ああ、おはよう。もう店開きか?早いな」 「いやいや、今日は朝から学生さんが来るんじゃないかと思って待ってたんですよ。 でも、いつもと格好が違うので、ちょっと迷ってしまいました」 にこやかに華王の言葉に応えつつ、立ち止まった彼に近付く男の肩越しに、流星は店の様子を見遣る。 どうやら煙草屋のようだ。 「こいつの助言を参考にしたんだ。この界隈ではあの制服は目立つんだと」 「学生さんは何を着てたって目立ちますよ。そちらは学生さんのお友達ですか?」 華王に指で示されて、煙草屋の主人が流星を見る。 「うちは御覧の通り、煙草屋なんですよ。良かったら一箱如何ですか?学生さんの友達ならお安くしときますよ」 感じの良い笑顔を保ちつつ、早速如才なく商売を始めようとする主人に、 「いや、こいつは単なる顔見知りだから、お代はしっかりと取ってやってくれ」 無情な言葉を吐きつつ、華王が店の主人から受け取った煙草の入った箱をとんと流星の胸元に軽く押し当てた。 「どうだ?」 「貰おう」 「有難う御座います!!」 少し苦笑しつつ、煙草を受け取りながら、代わりに店の主人に金を渡すと、 主人は深々とお辞儀をし、華王にちょっと待ってくれるよう言い残してから、いそいそと店の奥へ戻っていく。 ちょうど煙草を切らしていたところだったのだ。 こういう店の煙草を試してみるのも悪くない。 しかし…… 「いいのか?」 「何が?」 「煙草屋と知り合いだってことは、お前も吸う訳か?」 ちらりと華王を見下ろしてみると、彼は整った眉をちょっと顰めた。 「煙草は身体に良くない」 実に優等生らしい応えである。 「じゃあ、何で俺にここの煙草を勧めるんだよ。矛盾してないか?」 少々皮肉っぽく問い掛けると、華王は揺らぎもしない真っ直ぐな視線を流星に当てた。 「お前と俺は親しい友人ではないからな。俺にはお前に煙草を止めるよう言う権利はない。 第一、止めるよう言ったところでお前自身に止める気はないんだろう?」 「そりゃそうだけどさ」 流星は肩を竦める。 華王はちょっと笑ってから、店のほうに視線を戻した。 「この店の主人は裏の畑で、原料から煙草を作って売っている。今は、それだけが主人と彼の家族の生活を支えているんだ」 そう語る華王の瞳は、言いようもなく優しく、同時に僅かな悲哀も滲ませていた。 その瞳だけで、煙草屋の生活は決して豊かなものではなく、むしろ貧しいのだということが流星にも伝わってきた。 「どうしても不健康な煙草を続けるのなら、少しでも人の役に立つ不健康を貫いた方がいいだろう? それが、俺がここの煙草を勧めた理由だ」 「……ふうん」 流星は何とか相槌を打つことしかできなかった。 すると、華王は急に生真面目な表情を作り、立てた細い人差し指を流星に向かって、翳して見せた。 「だが、これだけは言わせて貰うぞ。俺の前では煙草を吸うな。 煙草の煙は吸っている当人よりも、周りにより大きな害を及ぼすんだからな」 華王の発言で、厳しい現実に言葉を失っていた流星の気が一気に緩む。 「へいへい、分かったよ」 技と面倒臭そうに応えながら、流星は今買った煙草を懐の中へと仕舞った。 |
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