哀恋
哀恋 9
桜花は僅かに柳眉を顰める。 「人の…生き血?伝説に聞く魔物のようにか?」 「…はい、まさに」 「ご子息がそのようになったのは、いつからだ」 「一ヶ月ほど前からで御座います」 桜花は昨日出会った青年の様子を思い出しながら、問いを続ける。 「今のご子息は人の生き血以外は受け付けないのか?」 「いえ…少量ではありますが、通常の食事にも手を付けます。 …おとなしくしていたかと思えば、何かに憑かれたように、侍女などに襲い掛かることもしばしばで…… その形相は恐ろしく、とても我が息子とは思えぬほど…」 話しながら、当主は太った身体を震わせる。 桜花は思案を巡らせるように、一瞬沈黙する。 そうして、紅い唇を開いた。 「話は分かった。早速だが、ご子息に会わせてもらえるだろうか」 「は、はい」 当主が目配せすると、背後に控えていた使用人が進み出、 「こちらです」 先に立って案内役を務める。 そういえば、当主は先ほど「侍女」と言ったが、この中庭までやってくる途中、 男の使用人の姿はあったが、侍女らの姿は一度も見掛けなかった。 桜花の考えていることに気付いた当主がその理由を応える。 「息子は特に女ばかりを襲うので、今、屋敷に仕える侍女どもは、里下がりさせておるのです。 息子はいつ暴れだすか分からない上に、頻繁に部屋を抜け出すので、今は部屋に閉じ込めにしてあります」 桜花の後に付いていきながら、当主は落ち付かなげに、組んだ両手をもみ絞るように握り締める。 「しかし…どうなのでしょう、桜花様? もしや息子は、いずこかで魔物に襲われ、その仲間にされてしまったのでしょうか…? 伝説の魔物は…本当にいるということなのでしょうか……?」 当主の怯えを余所に、桜花はあくまでも冷静に応える。 「人の血を糧とする魔物…吸血鬼の存在の有無についてなら、否定はできない。 この世界は広いし、人間の為だけにあるものではないからな。 だが、接触があったとしても、人間が吸血鬼の仲間にされるということはない」 「な、何故でしょうか?」 「全く別の生き物だからさ」 「…はあ」 桜花の言った意味が分からないのだろう、当主は戸惑った顔をしたが、それ以上問いを重ねはしなかった。 当主にとっては息子が元に戻りさえすれば、真実などどうでもいいのだ。
「こちらで御座います」 広い中庭を囲む回廊に面して作られた、東側の一室が当主の息子に宛がわれた部屋だった。 扉の脇にある小さな窓は閉め切られている。 案内に立った使用人が、固い顔つきで当主が懐から取り出した鍵を受け取り、部屋の扉を開ける。 扉が僅かな軋み音と共に、内側に開かれた。 背後で当主が怯えて後ずさる気配がする。 部屋の中は暗い。 「息子が光を嫌がるので、明かりを灯していないのです。これ!桜花様を息子のところへご案内せよ!」 「は、はい。あ…っ、桜花様!」 当主に命じられ、頷きながらも、扉の前で尻込みする使用人の姿に、 埒が明かないと悟った桜花は、先頭に立って暗い室内へと足を踏み入れた。 部屋の隅に蠢く人影が見える。 慌てながらも恐る恐る後に続いて入ってきた使用人の掲げる小さな手燭の灯りが、 昨日の青年の姿を頼りなく照らし出した。 虚ろな表情で床に座り込んだ青年は、灯りに僅かに眉を顰めたようだが、すぐにぼんやりとした無表情に戻った。 今、目の前に人がいることにも気付いていないようだ。 桜花はゆっくりと注意深く、青年に近付く。 そのときふっと、青年の瞳が動いた。
暗闇の中に、白い肌が浮かび上がっている。
これは、あのひとの肌だろうか…いや、違う。 ここで、あのひとに逢える訳がない。 それに、あのひとの髪は闇に溶けるような漆黒だった。 このように時折ちかちかと光る目障りな銀色ではない。 …ひょっとしたら、これは…月の光だろうか…… ああ、そうだ…早くここから抜け出して、あのひとに逢いに行かなければ。 月夜にしか逢えないあのひと。 まずは、この重い身体を動けるようにしなければ。 ……目の前に、長い飢えを満たすものがある。 滑らかで柔らかそうな肌だ。 その内側にある紅い血も綺麗で美味であるに違いない……
青年の瞳が、桜花の白い首筋を移ろう。 虚ろだった瞳に、突如として狂おしい光が閃いた。 「…ッ!」 物言わぬ青年にいきなり飛び掛られ、桜花はとっさに身を躱す。 しかし、思った以上に青年の動きは機敏だった。 「…つぅ…ッ」 尋常でない力で手首を掴まれた。 青年は桜花の細い手首を折らんばかりの力で引きずり寄せて、かっと口を開いた。 桜花の目に尖った犬歯が映る。 「ひゃあ!」 桜花の背後にいた使用人が、情けない悲鳴を上げて部屋から逃げ出していく。 投げ出された手燭が床に落ち、灯りがふっと消える。 再び訪れた暗闇に、そのまま桜花の首筋に噛み付こうとしていた青年の動きが僅かに鈍った。 その隙を逃さず、桜花は相手に足払いを喰わす。 青年はあっけなく体勢を崩し、掴んでいた桜花の手首を離した。 次いで身を翻した桜花は、閉め切られた窓に駆け寄り、それを躊躇なく開け放った。 ぱっと部屋に差し込むきつい陽光。 「ああ…ッ!」 起き上がろうとしていた青年が悲鳴を上げ、顔を覆いながら再び床に伏す。 陽の光から逃れようとするように身を縮め、暫し悲鳴を上げ続けていたが、ふと力尽きたように気を失った。 動かなくなった青年の傍に桜花は跪く。 細い手を伸ばし、青年の首筋に触れる。 彼の命に別状はない。 このときになってやっと、逃げ出した使用人と部屋の外で怯えていた屋敷主人とが、 恐る恐るといった様子で部屋を覗きに来た。 「…ごっ、ご無事ですか?」 「ああ」 顔を上げずに応えた桜花は、ふと眉を顰めた。 澄んだ水色の瞳に、厳しい光が宿る。 青年の首筋には、何物かに…そう、まるで吸血鬼に噛まれたような紅い跡が残っていた。
青年を明るい部屋に寝かしつけた桜花は、当主に精神を落ち着かせる効能のある薬を渡した。 また、目を覚ました青年が明るさを嫌がっても、血を求めても、けして応じてはいけないと言い含める。 青年は自己暗示に掛かっているだけであり、実際に吸血鬼になった訳ではないときっぱりと言い切った桜花に、 当主は安堵したようだ。 必ず言われたとおりにすると約した上で、その場で謝礼を支払った。 袋に入れて渡された金貨の重みは、一回の診察の謝礼にしては多かった。 しかし、桜花は素直にそれを受け取る。 「ご子息は幻覚作用のある薬を服用させられた上で、暗示に掛けられていた疑いがある」 「な…なんと…!」 桜花が考え深げに発した言葉に、当主は再び忙しなく顔色を変えた。 「出来れば明日にでも、またこちらに伺って、目を覚ましたご子息と話をしたい。いいだろうか?」 「は、はい。宜しければ明日、また同じ時刻に、宿に迎えの者をやります」 「いや、迎えは不要だ」 「えっ?いや、し、しかし…」 戸惑う当主に、桜花はにこり、と微笑んでみせた。 「例え、目隠しされていたとしても、馬車の揺れや速度、ここまで掛かった時間を考え合わせれば、道順は分かる」 「は………」 「よって、本日の見送りも不要だ。では明日、同じ時刻にまた、伺わせてもらう」 絶句しながら冷や汗を掻いている屋敷主人に、形ばかりの会釈をして桜花は背を向ける。 主人と似たような表情で絶句している使用人にもお疲れ様、と声を掛けて、屋敷を後にした。
陽が大分高くなっていた。 燦々と降り注ぐ陽射しの中、通りの露店は、昼時を迎えて賑わっている。 それとなくきつい陽射しを避けながら、桜花は迷いのない足取りで雑踏をすり抜ける。 人目を惹く容貌に振り返る者が幾人もあったが、それらの視線に、桜花は常以上に無頓着だった。 白い美貌に浮かぶ表情は、心なしか硬い。
あの青年が何者かの暗示を受けていたことは間違いない。 彼の犬歯も、皮膚に傷を付けやすいよう、人工的に削られた跡があった。 そして、青年の首筋に残る噛み跡のような傷… それらを施したのは何者か、何の目的でそうしたかは、明日青年の話を聞いてから考えるつもりだが… このこととは別に桜花が気に掛けていることがもうひとつある。 そして、それこそが今、桜花に硬い表情をさせている原因だった。 青年に触れたとき、微かに感じた気配の名残。 今までに幾度も触れたことのある……
ふと頭上の陽が翳ったような気がして、桜花は立ち止まる。 いつの間にか、人通りのない小さな路地に入ったようだ。 いや…違う。 何者かによって故意に、多くの人々で賑わう通りとは別の空間へと切り離されたのだ。 …油断した。 桜花は小さく舌打ちする。 そうして、誰もいない通りの途中の、何もない空の一点を睨み据える。 「これを一日千秋の想いというのだろうな…」 何処からともなく、低く響きの良い男の声がした。 と同時に、桜花の見据える一点から滲み出すように、その声の主が現れた。 「思えば、これはお前と離れて初めて知った感覚だ。久しいな、セイ」 笑みを含んだ声が、端麗な口元から零れる。 美しい青年だった。 陽の光そのもののような輝きを放つ黄金の髪が、丈高い青年の均整の取れた肩や背を流れる。 紅蓮の炎を宿す瞳は、時折危うく揺らめきながら、桜花ただひとりを見据えている。 華麗でありながら、見る者を圧倒し、ひれ伏させずにはおられない気迫も秘めた青年の美貌。 しかし、桜花は澄んだ清冽な水を思わせる瞳で、真っ直ぐに青年を見返した。 「やはり、あんたなのか?コウ」 「何を指しているのか、分かりかねるな」 厳しい声音での問いに、コウと呼ばれた青年は優雅に肩を竦める。 「どうせ、あんたのことだ。俺があの屋敷を訪れたときには既に、覗き見をしていたんだろう? あの嗜血症の暗示を掛けられた青年のことだ。彼の周囲に僅かながら、あんたの気配が残っていた」 「だから、あの青年に暗示を掛けたのが私ではないかと?安直な推理だな」 「違うとしても、あんたはその件について何らかを知っている筈だ。 俺が気付いたように、あんたが自分自身の気配に気付かない訳がない。違うか?」 「なるほど。だが、お前にそれを教えなければならない理由はない」 冷たく突き放す言葉を吐きながら、コウは腕を伸ばす。 不意を突かれて、躱す間もなく桜花は腕を掴まれてしまう。 「離せ」 鋭い声で拒絶の言葉を発するが、相手は微笑みながら、桜花の華奢な手首を引き寄せる。 その白い肌には、あの青年に強く掴まれた指の跡が痣となって、はっきりと残っていた。 「あのようなつまらぬ男の前で隙を見せるな…」 僅かに甘さを含んだ声で囁き掛けつつ、美貌の青年は紅い跡にゆっくりと唇を寄せた。 「…ッ!何を…!」 手首に口付けられ、驚きに息を呑んだ桜花は、反射的にその手を振り払う。 我に返って、コウの腕から取り戻した手首を見遣ると、指の形をした痣は、跡形もなく消え去っていた。 「……」 桜花の戸惑った様子に、コウは愉快そうに、くっくっと喉を鳴らして笑う。 気を取り直すように、桜花は一度長い睫毛を伏せ、次いで凛とした眼差しで笑い続ける相手を見上げた。 「俺の問いに応える気がないのなら、こうして顔を突き合わせていても、時間の無駄だ。俺は失礼させてもらう」 言って、この閉じられた空間を破る為に、右手に能力(ちから)を溜める。 いつもより気が集まりにくいことに、内心舌打ちしながら、 それを表には出さずに、桜花は背の高い青年の脇を通り過ぎようとする。 そのときにはやっと、コウは笑い止んでいた。 美しい口元に笑みの気配を残したまま、視界から離れる桜花の姿を追いもしない。 それでも、この男の動きには気を配っていたつもりだった。 「…ッ!!」 しかし、再び僅かな隙を突かれ、強引な腕に今度は身体ごと捕らわれる。 気付けば桜花の細い身体はその腕の中に抱き込まれていた。 桜花の抵抗を封じるように、抱き締める腕に力を込めながら、その耳元でコウは囁き掛ける。 「お前はこうして私に問うばかりで、私の問いには一向に応えることがないな」 「…応えは一度で充分だろう。何度問われても、俺の応えは変わらない」 「何年経ってもつれないことだ…」 「戯言に付き合っている暇はないんだ。いい加減に離してくれ」 取り付く島もない桜花の言葉に、流石にコウが苦笑する。 しかし、華奢な身体を離すことはしない。 桜花の白い首筋に頬を寄せ、言葉を紡ぐ。 「…なあ、セイ。吸血鬼という生き物にとって獲物である人間の血は、このように肌を通しても芳しく匂い立つものかな…」 「何だと?」 その言葉を聞きとがめた桜花が身を起こそうとするのを更に封じながら、コウは笑う。 「花のような甘い香りに誘われて、柔らかい肌に歯を立てるのだろう、こうして…」 言いながら、桜花の首筋に軽く歯を立てる。 「…ッ!離せ!!」 そのまま噛まれるとは思っていなかったが、桜花は渾身の力を込めて、相手の身体を突き放した。 コウは今度はあっさりと、桜花の身体を手放した。 「悪ふざけはここまでだ。それよりも先ほどの言葉はどういう意味だ。 やはり、今度の件にあんたは一枚噛んでいるんじゃないのか?」 「私はいつでも本気だというのに…まあ、いい。問いにも応えよう。他ならぬお前の求めだからな」 つい先ほどは応えを拒絶したというのに、そう臆面もなく言い放った後、コウは空になった腕をゆったりと組んだ。 「お前が気にしているあの青年の件に私が関わっているかという問いに対する応えは否だ。 しかし、何も知らない訳ではない。一連の事件を仕掛けたのは、私の眷属とも言える者だ。 太古に私から能力の一端を受け継ぎ、僅かながらも私と同じ気配を持つ一族の末裔…」 その言葉に、桜花は、はっと顔を上げる。 「では、この件には本物が絡んでいるのか?」 桜花の問いに、コウは鷹揚に頷いて、彼方を眺めるようにその紅い目を眇めた。 「それの目的は、流石に私も知らない。しかし…ああ、それがまた、動き出しているようだな」 そうして、愉快そうに笑う。 「…お前の連れのところだ」 「…っ、砂月か!」 桜花は、驚きに目を見開き、弾かれるように身を翻した。 今度こそ、この空間から出ようと、能力を溜めなおそうとした瞬間、その空間が消えた。 コウが自ら消したのだ。 突如、差し込む陽光と通り向こうのざわめきを感じながら、桜花は背後を振り返る。 コウはまだ、そこにいた。 徐々にその姿を薄れさせながら、 「間に合うと良いな…」 何処か嘲るような口調でそう言った。 「あんたは…」 桜花は険しい表情で何ごとかを言い掛けるが、結局、唇を引き結んだ。 美しい青年の姿が、完全に消え失せるのを待たずに、そこから目を逸らして、路地を走り出す。 「間に合ってくれ!」 |
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