哀恋 哀恋 8
「あれ?お姫さまひとりかい?砂月はどうした?」 朝一緒に宿に戻ってきた筈だが、と首を傾げながら、ハルディンが朝食を摂る桜花の正面に腰掛ける。 「砂月は部屋だ」 淡々と応える桜花を、ハルディンは面白そうに眺める。 「何だあ?喧嘩でもしたか?あいつ結構見掛けの割には不器用そうだからな」 揶揄するような口調に、桜花は食事の手を休めて目を上げた。 「…それで?」 「は?それでって?」 「あんたは、昨日からやたらとこちらの事情に首を突っ込んでくるが、 そうして俺たちのことを訊き出して一体何を得るつもりでいる? 俺としては、会って幾日も経たない人間に、個人的な事情を語って聞かせる理由は何もないと思うんだがな」 真っ直ぐにハルディンを見据えてきっぱりと言い放つ桜花に、 ハルディンは驚いたように目を丸くして両手を広げてみせる。 「お…おいおい、俺はただ、あんたたちに純粋な興味を持ってるだけなんだ。 別にあんたたちのことを探り出して悪さをしようって訳じゃない。変な勘繰りはよしてくれよ」 「変な勘繰り…か。本当にそうだったら俺も気が楽なんだが」 「強情なお姫さまだなあ…気に触るんなら、もうあんたたちのことを根掘り葉掘り訊いたりはしねえよ。 だから、な、機嫌直してくれよ。綺麗なお姫さまに嫌われたら、流石に俺も参っちまう」 拝むように手を合わせて頼み込むハルディンの相変わらずおどけた仕種に、桜花はひとつ溜め息を吐く。 「まあ、別にこちらは痛くもない腹を探られたところでどうということもない。詮索したいのなら好きにすればいい」 そう静かに言った桜花の視線がすいと周囲に流れる。 「またまたぁ。そんなことしないって!」 言い返す軽い口調とは裏腹に、僅かに、ハルディンの表情が硬くなった気がした。 しかし、桜花は敢えてそのことには触れず、席を立った。 そのとき、 「もし、お客様…」 控えめな宿の主人が桜花に呼び掛けた。 「?どうした?」 怪訝そうに僅かに柳眉を顰める桜花に、宿の主人は恐縮しながら、視線で宿の入り口を指し示す。 「お客様にお目に掛かりたいと言う方がいらしています」 宿の主人に習って桜花が目線を動かした先に、身なりの整ったふたり連れの男たちがいた。
「このように突然押し掛けた無礼をお許しください」 桜花の美貌に目を瞠った後、そう言って畏まる身ごなしから、すぐに彼らが良家に仕える使用人だと知れた。 「用件を伺おう」 食堂の隅のテーブルに、彼らと共に掛け直した桜花が、先を促した。 ひとつ向こうのテーブルから様子を窺うハルディンの視線を感じたが、最早頓着しない。 「その前に失礼ながら、ご確認させていただきたい。あなた様は確かに医術師の咲一族でいらっしゃいますか?」 「私どもは、そこなる楽師より咲一族の方がこちらにいらっしゃると通りすがりに聞かされたので御座います」 桜花が背後のハルディンを一瞥すると、彼は悪戯の見付かった子供のように、首を竦めた。 「当方は咲一族のお能力にお縋りするべく参ったのです。ですから、まずあなた様の身元をご確認させていただきたい」 用心深い彼らの口調に、桜花は苦笑する。 「如何にも、俺は咲一族の者だ。しかし、こう言う以外に俺には身の証を立てる術がない。 俺の言葉を信じる信じないはあなた方の自由だ」 きっぱりと言う桜花に、ふたりの男は戸惑いがちに視線を交し合う。 ふたりが世界に名を馳せる医術師としては、桜花の姿があまりにも若過ぎると不審を抱いていることは明らかだった。 良くあることだ。 だから、桜花も敢えて言葉を尽くして身の証を立てようとはしない。 だが、自分の言葉を信じるか信じないかは別として、 彼らが自分の助けを真に乞うのならば、惜しまずに協力するつもりだった。 「…結構で御座います。それでは、あなた様を咲一族の方と信じて、お頼みすることにいたしましょう」 やがて、頷き合った彼らは、桜花に視線を戻して言った。 「…実は、我々がお仕えする主家の若君が…原因不明の病に冒されておりまして…… 我々も手を尽くして様々な医者、ひいては祈祷師にも診ていただいたのですが、一向に若君の病は癒えることなく……」 「困り果てていたところに、あなた様のことを聞かされたので御座います」 「つまり、俺にその若君を診て欲しいという訳だな」 「左様で御座います」 「原因不明の病と言われたが、その症状を教えて貰っても良いだろうか」 「もちろんで御座います。しかし、ここでは…」 使用人たちは、人目を憚るように周囲を見遣る。 「何分にも外聞を憚る話でありますので、詳しいお話は我々の主から直接申し上げたく存じます。 誠に恐縮ではありますが、あなた様には是非屋敷までご足労いただきたいのです」 「今すぐにか?」 「はい。できましたら…」 「…分かった」 宜しくお願いいたします、と頭を下げる彼らに、思案顔になった桜花は、しかし、一拍置いてすぐに応じた。 「有難う御座います。それでは、早速屋敷までご案内いたします」 安堵した表情で立ち上がった彼らの後に従って、桜花は何も持たずに宿を出る。
「お荷物などは宜しいので?」 「実際にその若君の様子を見ないことには、準備も出来かねる。ひとまず今回は、様子見だけをさせてくれ」 「承知いたしました。それがあなた様のやり方なら…」 前後を使用人の男たちに挟まれるようにして、桜花は通りを歩む。 朝とは謂えど、目を射る眩しさの陽光を仰いで、せめて被く薄布を持って出るべきだったかと僅かに悔やむ。 しかし、それを取りに、砂月のいる部屋に戻るのは、流石に気後れがする。 今は、彼の邪魔をしたくなかった。 …実のところ、自分の秘密を知ってしまったことで、 変わってしまうかもしれない砂月に会うことを恐れているだけなのかもしれない。 ふと、前方を行く男が立ち止まって振り返る。 「あちらに馬車を用意して御座います。あれでお屋敷までお連れ致しますので…」 どうぞお乗りくださいませ、と促された馬車は、中から外を見ることができないよう窓を塞がれていた。 旅医者である桜花にさえ屋敷の場所を具体的に知られたくないらしい。 彼らの主はよほど、自分の息子の病を公にしたくないようだ。 「まるで、人攫いのようだな」 「申し訳ありません、主の命ですので…」 困り顔でひたすら恐縮する使用人の姿に、桜花は華奢な肩を竦める。 「暫し、窮屈な思いをされるでしょうが、強い陽射しを避けることはできますので…」 慰めにもならない言葉を耳に聞きつつ、桜花は馬車に乗り込んだ。
揺れる馬車の中で桜花は腕を組み、静かに瞳を伏せていた。 だが、隣に座った男がふと微笑む気配に、目を上げる。 「あ、これは失礼を」 「いや」 邪魔をしてしまったと詫びる男に首を振って見せると、相手は安堵の息を吐いて微笑んだ。 「実は、昨日のことを思い出していたのです。咲一族の方は、武芸にも優れていらっしゃるのでしょうか… 昨日、私はあなた様がごろつきどもを相手に、華麗な立ち回りを披露していらっしゃるのを拝見いたしました」 「あの野次馬のなかにいたのか」 「はい。ちょうど屋敷を抜け出した若君を探している最中でしたので…」 そこで、ふと桜花は気付く。 「もしかして、あなた方の若君というのは、あのとき、ごろつきに囲まれていた…?」 「はい。やっと若君を見付けたと思えば、あのようなことになり… しかし、私どもだけではお助けすることままならないと、衛士を呼びに行かねばと思っていた矢先でした。 そこに、あなた様が現れて、見事若君を救ってくださいました。 すぐにお礼申し上げようと思ったのですが、人ごみに紛れて再び若君の姿を見失ってしまいまして… 幸い別の者が若君を見付けて、屋敷へとお戻ししたので大事には至らなかったのですが」 言って、使用人は深々と頭を下げた。 「お礼を申し上げるのが遅くなってしまいましたが、かの折は有難う御座いました」 「俺は礼を言われるようなことはしていない。 ひとりに寄って集って、乱暴を働く奴らが気に入らなかったから割って入っただけだ」 「あなた様は…少々変わった方ですね」 「桜花」 「は?」 「桜花だよ、俺の名前は。咲桜花」 「…私どものような使用人風情に名をお教えくださるとは……」 心底驚いたように、男は軽く首を振る。 「あなた様は…いえ、桜花様は相当に変わっていらっしゃるのですね…」 「そうか?普通だと思うが…」 華奢な首を傾げる桜花を、傍らの男は信じられないものを見るように眺めた。
間もなくして、馬車の揺れは止まった。 「到着いたしました」 先に下りた使用人が、扉を開いたまま、丁寧に桜花を外へと促した。 なかなか大きな屋敷だ。 正門を入って正面に造られている中庭の噴水の前で、屋敷の主人らしき男が待っていた。 「おお…」 桜花の姿を目にして、主人は一瞬固まる。 その後我に返り、派手な刺繍の施された衣裳の裾を蹴立てるようにして、駆け寄ってきた。 「こちらが例の医術師でいらっしゃるのか?!」 噛み付くような勢いで、桜花と共に戻ってきた使用人たちに訊ねる。 「はい、確かに」 「こちらが咲桜花様と仰せられる方にて…噂に名高き咲一族の医術師でいらっしゃいます」 「…おお、この美しさが神秘の一族の証であるのか…しかし、少々若過ぎるような… いやいや、今はそんな瑣末なことに拘ってはいられぬ」 主人は身を乗り出し、今にも手を握らんばかりの勢いで食い入るように桜花を見詰める。 それだけ切羽詰っているのだろうが…初対面の人間にここまで傍近くにじり寄られては堪らない。 「早速だがご主人、お話を伺いたい」 片手を上げて相手を宥める仕種をしながら、半歩ばかり後ずさり、桜花は冷静さを装って口を開く。 その涼やかな風情に再び我に返った主人は、慌てて背筋を正す。 「これは…失礼。つい気が急いてしまいましてな。こうして、無理やりお招きしておきながら、挨拶もなく… しかし、私にとりては、最早頼れるのはあなたばかり。この差し迫った思いを汲み取って下され」 殊勝な言葉を吐きながら、ちらりと屋敷主人は桜花を見遣る。 「しかし、お話をさせていただく前にお願いしたいことが御座いましてな… 桜花様には是非とも息子を診てやっていただきたいのですが、 当家はこの国においてそれなりに名の知られた家でして……」 「この家、ひいてはご主人の名やご子息の名を伏せた上で、俺に診てもらいたいということだな」 冗長になりそうな相手の前置きの言葉を断ち切るように、桜花は言葉を引き継ぐ。 「いやはや、その通り。あなたには申し訳ないことですが…」 「いや、こちらは一向に構わない。相手がどんな名を持つものであろうと、求めがあれば応じる。 それに加えて、こちらの診療に対し、相応しいお代を支払っていただければ結構だ」 「はい、それはもちろん…」 「では、商談成立だ」 少々皮肉気に桜花は言ったが、相手はそれに気付かなかった。 身体の前で手を組み、何を言うべきか迷っているようだ。 そうして、やっと本題に入った。 「…そこなる当家使用人から聞きましたが、あなたは昨日家を抜け出した息子に出会ったそうで……」 「ああ。ご子息にはどうやら夢遊病の気があるようだが」 「はい…しかし、真に問題となる症状はそれではないのです」 一度言葉を切った当主は、桜花を見た。 何かに怯え、縋りつくような目だ。 話の先を促すように、桜花が真っ直ぐに見返すと、当主は思い切ったように震える声音で言葉を継いだ。
「あるときから、息子は…人の生き血を求めるようになってしまったのです」 |
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