哀恋

 

   哀恋 10

 

 桜花(おうか)が出て行き、ひとり残された宿の部屋で、ようやく気を落ち着かせた()(づき)が顔を上げる。

 窓外から高く昇った太陽が見えていた。

 随分と長い時間を使ってしまったようだ。

 

正直、今までどおり桜花と接することができるかどうかは分からない。

 しかし、自分はまだ桜花と離れたくないのだ。

 

 この今の自分の正直な気持ちをそのまま桜花に伝えるしかないという結論に、砂月は達していた。

 

 微動だにせずに座っていた寝台から腰を上げ掛けたとき、扉が叩かれた。

「開いてますよ」

 立ち上がった砂月がそう言うと、扉が開かれ、ハルディンが顔を出した。

「お〜い、兄さん、昼飯はどうする?」

「また、貴方ですか」

 何処か間延びしたような口調で訊いてくるハルディンに、砂月は僅かに眉を顰める。

「おいおい、あんたまでそんな嫌そうな顔で俺を見ないでくれよ」

「どういうことです?」

おどけたように肩を竦めてハルディンが砂月の問いに応える。

「お姫さまだよ。朝、下で当たられたぜ。とんだとばっちりだ。あんたたち、痴話喧嘩かなんかしたんだろ?」

「喧嘩はしていません」

「あ〜、じゃあ、気まずい擦れ違いってとこか?」

「……」

「まあ、いいか。お姫さまにも詮索するなって釘を刺されたところだし」

 無言の砂月に、苦笑してハルディンは話題を元に戻した。

「そうそう、これも余計なお世話かもしれないが、あんた昼飯はどうする?朝抜きなら食った方がいいと思うが」

「…分かりました。行きます」

 砂月は扉へと足を向ける。

「…あ〜、それとな……」

 珍しく歯切れの悪いハルディンの言葉に、彼に背を向け掛けた砂月は、足を止めて振り向く。

「また、これも余計なことかもしれないんだが…一応教えとくぜ。お姫さまなんだけどな。

今朝客が来て、その客と一緒に出て行った」

「え」

「俺もその後、一仕事して戻ってきたんだが、まだ、お姫さまは戻ってきてないみたいだな」

「何だって…?」

 仕事の為だとしても、今まで、桜花が自分に黙って何処かへ行くことはなかった。

 顔色を変えた砂月をちらりと見て、ハルディンは決まり悪そうに口を開いた。

「お姫さま自身、特に何も言わないで出て行ったんで、そのままにしといたんだが…まずかったか?」

「…いえ、余計な心配をしなくても、さくらなら大丈夫でしょう」

 そう応えつつも、桜花のことが気掛かりでならない砂月の様子に、ハルディンは少し考え、再び口を開いた。

「実は俺、お姫さまが連れて行かれた場所に心当たりがあるんだ」

「貴方が…?」

「ただし、理由の方は後回しにしてくれねえかな。それでも、良ければ案内してやるよ」

「お願いします」

 ハルディンへの不審はひとまず脇へ置いて、

その申し出にすかさず応じた砂月は、荷物のある場所へ陽除けの薄布を取るために踵を返す。

 

 …その瞬間。

 

 ふっと、周囲に闇が下りた。

 肌を撫でる僅かに冷たい空気に、砂月ははっとして身構える。

 そこは既に、宿の部屋ではなかった。

 先ほどまで言葉を交わしていたハルディンの姿も見えない。

 

 いつの間に、自分はこんなところへ来てしまったのか。

 

 急な展開に、愕然としたのは一瞬。

すぐに砂月はここが通常とは異なる空間であることに気が付いた。

何も見えない闇。

しかし、自分を包む闇から無数の視線が、全身に突き刺さるように感じられる。

このひととは明らかに異なる視線には覚えがある……

 

気を尖らせ、注意深く周りの様子を探っていた砂月は、やがて無数の視線が一点に集まっていくのを感じた。

ちょうど自分の正面、幾つもの視線が集束したところに、ふたつの光が生まれる。

紅い瞳。

瞬きもしない瞳が、並々ならぬ熱意を秘めて見詰めてくる。

「朝、僕を見ていたのも貴方ですね。誰です?」

 冷ややかに問うた砂月に、抑えた笑い声が返る。

 

 艶やかで低い女の声。

 

「…やはり、思ったとおり。嬉しいことだ……」

 笑みを含んだ声で言葉を紡ぐ女の姿が、徐々に闇の中から浮かび上がる。

 周囲の闇に溶け込む漆黒の髪。

 その波打つ髪に縁取られた白く美しい顔。

 両の瞳に宿る光と笑みにたわめられた唇が、凶悪なまでに紅い。

裾が長い闇色のドレスのようなものを身に纏い、その足先は闇に沈んでいたが、

露にされた滑らかな首筋と大きく開いた胸元が闇に白く浮かび上がり、

それだけでも彼女が均整の取れた魅惑的な肢体の持ち主であることが窺えた。

 しかし、そこに女性的な優しさや甘さは欠片も無く、ぞっとするような冷たさがあるばかりだ。

「誰です?」

「好きなように呼ぶと良い。元より私の名はあって無きが如きもの」

 悠々と応える目の前の女性が、砂月には、ひとと似た形をしてはいても、

ひととは全く異なる生き物であることが直感として理解できた。

 す、と滑るように、女が傍近くへと寄ってくる。

「お前は私がお前たちとは「違う」ということが、最初から分かっていたのだな。聡い上に、このように美しいとは…

人間にはもう期待することを諦めようかと思っていたところだったが、待っていた甲斐があった……」

 周囲の闇が身体中に纏わり付いてくるような不快感がある。

 ゆっくりと頬に触れてこようとする女の細い手を、砂月はすげなく振り払った。

「触れないでもらえませんか。貴方のように得体の知れないものに触れられたくはない」

 その言葉に、一瞬女は紅い目を見開いたが、すぐにその目は愉しげに細められた。

「ふふふ、面白い。このように触れることさえ、拒まれたのは何百年振りか。

お前のようなたかが人間風情相手では初めてだ」

 女の笑い声が僅かに闇を震わせる。

「…それに、こうして近くで見ても、良く似ている。あの方に……」

 振り払われた手は引いたが、触れそうなほど間近で、砂月の容貌をうっとりと見上げた女が、ふと気付いたように言った。

「…お前のその右目、私と同じだな。身に纏う気配も……そうか…お前もただの人間風情などではないと言うことか…」

「…!」

 嘲笑うように紅い唇を歪めた女の言葉に、砂月は僅かに息を呑む。

 先程から頭の中で、警鐘が鳴り響いているのに従い、女から距離を取ろうとする。

 下から覗き込むように見詰めてくる女の瞳には、揺らめくような赤い炎がある。

 

 そう、自分のこの忌まわしい右目と同じ……

 

 次の瞬間、自分の足が動かないことに、砂月は気が付いた。

 彼女の紅い瞳に縫い止められたように、視線を逸らすこともできない。

(しまった…!)

 知らぬうちに相手の術中に嵌ってしまったことに気付いた砂月は、内心歯噛みする。

「さあ、私にお前の血をおくれ。代わりにお前には私の血をやろう。

さすれば、お前は長い時を刻む我が眷属となる…私と共に生き、その伴侶となっておくれ……」

 ゆっくりと女の手が伸ばされる。

「…触れないで下さい!」

 遅い来る眩暈を強く眉根を寄せて耐えながら、砂月はどうにか声を発する。

 しかし、相変わらず身体は動かず、目を瞑ることもできない。

 女の紅い瞳が、唇が笑みに細められる。

 僅かに開かれた唇から尖った歯が覗いた。

 白い指が今にも砂月の頬に触れるかと見えたそのとき。

 

「砂月!」

 

 淀み、凝る闇に清流が流れ込んだかのように、四肢を縛り付けていた圧迫感が薄れる。

 身体が動く。

「…ッ誰だ!?」

 現れた闖入者に邪魔をされた女が振り向き、激しい声で誰何する。

 自由になった砂月もまた、澄んだ声が聞こえた方へと視線を巡らせる。

 まず、目に入ったのは、闇に煌く青銀の髪。

 輝く髪に負けないほどの光を宿す水色の瞳。

「…桜花!」

 闇の中で、彼の姿はこの世の者とも思えぬほど、美しく見えた。

 

 桜花は真っ直ぐに、砂月の元へと走り、彼の腕を掴んだ。

 闇の女から砂月の身を離し、彼を守るようにして、女に向き直る。

 不機嫌そうな女を真っ直ぐに見据えた桜花が、女よりも柔らかな色合いの唇を開く。

「吸血鬼か」

「お前は誰だ」

 細い眉を寄せ、胸の前で腕を組んだ女が問いを繰り返す。

「ひとを勝手に拉致するような者に名乗る名前は無い」

 厳しい声に、女は鼻を鳴らす。

「お前から忌々しい気配がするな。私のものとは真逆の能力(ちから)…お前、水の能力を持つものか。

今、お前が後ろに庇っている者は、火の能力を持つ者。元より、お前とは相容れる者ではない。鬱陶しい。消えろ」

「能力の種類など関係あるか。こいつは俺の従弟で大切な友人だ。連れて行かせる訳にはいかない」

「桜花…」

 砂月は目の前の細い背中を見詰める。

 肝心なときに言葉が足りない自分。

その所為で、今も擦れ違ったままの自分を、桜花は助けに来た。

…大切だとはっきり言ってくれた。

自分を「友人」だと言う彼と自分との気持ちの間にはまだ隔たりがあるが、

彼がいつも自分に真摯に接していてくれているのは確かだ。

 そのことを改めて心に噛み締める。

「有難う、さくら」

 言うと、肩越しにちらりと視線を寄越した桜花が微笑んだ。

「気にするな」

 そうは言ってくれるが、守りたいひとに庇われているという今の情けない状況からは、脱しなければならないだろう。

 後ろから桜花の細い両肩を掌で包むように抑え、砂月はきっぱりと言った。

「大丈夫だよ。もう、惑わされない」

 迷いの無い砂月の言葉に、桜花は力強く頷きを返す。

「よし。それじゃあ、ここから出るぞ」

「ああ」

 桜花が左手を上げる。

 掌を後ろに向けて差し出された白く華奢な手。

 その細い指に指を絡めるようにして、砂月は桜花の手を握り締めた。

 何を言われなくとも、砂月には今、自分がどうするべきかが分かっていた。

 目の前に佇む女が怪訝そうに眉根を寄せる。

「何をするつもりだ」

「あんたに消えろと言われたんでな。お言葉通り消えることにしただけだ。ただし、砂月は連れて行く」

「勝手なことを…」

 女と会話を交わしながらも、桜花が気を集中させていることが分かる。

 合わせた掌から流れ込んでくる水のような気。

 それに応えるべく、砂月も目を伏せた。

 頭の中に、能力の制御の仕方を教えてくれた桜花の言葉を思い起こす。

 

 心を静かにして、呼吸を整える。

 握り合った手にのみ、意識を集中させ……

 

 砂月の伏せた右目の奥で、炎が揺らめく。

 自分の気が掌を通して、桜花へと伝わっていく…

 桜花の水の気と砂月の火の気とが混じり合い、より大きな力となる。

 それは握り合わされた手の上で渦を巻き、瞬時に拡散した。

 

 白く眩い光が周囲の闇をことごとく祓い清めていく。

「何…?!」

 女の驚愕の叫びが砂月の耳に遠く届いた。

 

 想像以上の大きな力に、砂月自身も身体ごと光の洪水に投げ込まれたようになり、

一度は開いた目を閉じざるを得なかった。

 あらゆる感覚が曖昧になってしまいそうだ。

 

 その只中で唯一、繋ぎ合った桜花の細い手の感触だけが、確かなものだった。

 



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