哀恋

 

   哀恋 7

 

 やはり、今度も駄目だ。

 あの男では、この己の伴侶とは為り得ぬ。

 また、いつものように切り捨てるしかない。

 これ以上、捜し求めるのは無駄なのだろうか。

 永久にひとり彷徨うのが己の運命なのか……?

 …いや………まだ、諦めるには早い。

 あの青年は…どうなのだろう?

 畏れ多くも麗しきかの御方に瓜二つのあの青年…身に纏う気も尋常な人間とは少し違っていた。

 あれならば、資格を試してみる価値は充分ある。

 例え、また失敗したとしても…己にはやり直す時間が有り余るほどあるのだから………

 

 

 石で造られた湯殿は、小さくて暗かった。

 しかし、身体を清める為の場所だ、明るくする必要はない。

浴槽に張られた湯が綺麗なら充分である。

 桜花(おうか)は念の為、先客が居ないか確かめたが、白い湯気が篭る中に、ひとの気配はない。

 ひとつ息を吐いた桜花は、狭い脱衣所で手早く身に着けたものを脱ぎ落とす。

 薄暗い湯殿の中で、白い肌が鮮やかに浮かび上がった。

 

 

 早朝の不可解な出来事が思いの他、頭を占めていたのだろうか、全く油断していたとしか言えない状況だった。

 脱衣所に置いてあった服を見ても、ただ、先客がいるのかと思っただけで、

それが誰のものかとまで考え付きもしなかった。

 しかし、湯殿に入った()(づき)は、すぐに先客の正体に気付かされた。

 何しろ、相手の肌は白過ぎるほどで、また、その肌を覆う青銀の髪も光を発しているように煌いて、

この仄暗さの中でも華奢な全身が輝くように浮かび上がっていたのだから。

「…砂月」

 ちょうど正面切って砂月と向かい合う形になってしまった桜花は、

驚いた様子で反射的に手にした布で己の身体をそれとなく隠した。

 しかし……

「あ…ごめん」

 砂月は呆然としたが、ようやくそれだけ言って、脱衣所へ引き返した。

 元の通りに服を着直して、部屋に戻る。

 それでもまだ、砂月の頭は呆然としたままだった。

 今見た光景が信じられなくて。

 

 砂月と桜花はこうして旅をしている間、一度も湯殿を共にしたことはなかった。

 桜花に想いを寄せている身としては、流石に彼の裸身を目の前にして平静でいられる自信がなかったからなのだが。

 それでも…男だと思っていたのだ。

 しかし、桜花のそれまでの言動をよくよく思い返してみると、

彼は自分のことを「女ではない」と言ったことはあったが、「男である」と言ったことはなかった。

 初めて出会ったとき、水浴びをしていた桜花の裸身を見たことはあるが、

正面切ってその全身を目にしたのはこれが初めてだ。

 桜花の白い裸身は美しかった。

 しかし、自分も含めて、今まで目にしたことのある他の誰とも決定的に違っていた。

 …そのような存在を、話では聞いたことがある。

 だがまさか…本当にそんな人間がいるのか……?

 

 堂々巡りする思考を遮るように、扉が開く音がした。

それにびくりと肩を震わせて、砂月は過剰な反応を示してしまった。

 部屋の戸口には、きちんと服を着て、細い身体を覆うように、水気の残る青銀の髪を纏い付かせた桜花の姿があった。

 後ろ手に扉を閉めて、こちらに近付いてくる白い美貌には淡い苦笑が浮かんでいる。

「…見たか?」

 何について訊かれたかをすぐに悟った砂月は、一瞬誤魔化そうかと躊躇う。

 だが、溜め息を吐いて観念するように口を開いた。

「あの状況で見なかった、と言うには無理があると思うよ」

「それもそうか」

 軽く肩を竦めた桜花は、いつもより離れた場所で立ち止まった。

「…悪かったな。別に隠しているつもりじゃなかったんだ。

だが、知られると厄介なことが増えると思って黙っていたのは事実だ」

「さくらが謝ることじゃないよ。…無理もないことだ」

 互いにそう交わす言葉が何処かぎこちない。

 それに今度は、桜花が軽く溜め息を吐いて、砂月の座る寝台の向かいに置いてある椅子に座った。

「今まで黙ってたことに対する侘びとして、出血大奉仕だ。今ならお前が訊きたいことに全て応えるぞ。言ってみろ」

「…言ってみろって、言われても……」

 こちらはまだ驚きから覚めやらずにいるのだ。

 急に訊きたいことなど思い付ける筈がない。

 覚悟を決めたように腕を組んで待っている桜花の前で、砂月は黙り込む。

 暫くしてふと思い付いた。

「訊いて良いのか迷うんだけど…その…君のその身体は先天性?それとも後天性?」

「先天性だ。別に訊いて悪いことじゃない。全部応えると言っただろう。

ちなみに、これは外見的なものじゃない。中身も含めてのことだ」

「それじゃあ…」

「ああ。俺には生まれつき生殖機能がない。その器官自体がそもそもないんだ」

「…………」

 さらりとした口調で、とんでもない事実を告げられた砂月は絶句する。

「俺は医術師の(さき)一族に生まれたから、この身体については、物心付く頃には知らされていた。

こういうのを中性体、もしくは無性体と言うそうだ。だが、生物学的に見れば人間には違いない。

だから、自分の性を中途半端なものとして恥じるつもりはない。しかし…」

 一端言葉を切った桜花は、色付いた花びらのような唇に淡い苦笑を刻んだ。

「やはり、俺のような人間は珍しいようだからな。下手に騒がれて、興味本位の目で見られるのは…流石に俺も堪らない。

だから、なるべくこの事実は伏せて男として通してきたんだ」

 桜花の言うことは尤もだ。

 人々から好奇の目で見られるのを承知の上で、稀な身体の秘密を暴露する馬鹿はいない。

「…気味が悪いか?」

 黙りこんでいると、桜花にしては珍しい躊躇いがちの問いが投げ掛けられた。

 砂月は、はっと顔を上げる。

「そんなことはないよ」

 本当にそんなことはない。

 砂月はこの事実を聞かされて、不思議なほど納得していたのだ。

 清らかな美しさを持つ桜花には、相応しいとさえ感じた。

 実際目にした桜花の男でも女でもない身体は、気味が悪いどころか、綺麗で神々しくさえあったのだから。

 それに、桜花は中性体であることを伏せてはいたが、砂月に嘘はつかなかった。

 

 それだけで良かった。

 しかし…

 

 正面に座る桜花の濡れた前髪から、透明な水滴が落ちようとしているのが、顔を上げた砂月の目に映った。

 それを拭おうと何気なく手を上げる。

が、桜花の白い頬に触れる寸前で、砂月は火傷したかのようにその手を引く。

 

稀な美貌と身体を持つ、まるで天使のような桜花。

そんな彼に果たして、自分のような人間が触れてもいいのか。

 

不意に訪れた躊躇いに手を引いた砂月の前で、桜花の前髪から零れた雫が、彼の白い頬を伝った。

涙のように。

瞬間、砂月は自分の犯した失態に気付いた。

砂月の仕種を拒否と受け取ったのだろう、桜花の薄い水色の瞳に、悲しみの翳りがある。

その瞳から本物の涙が零れることはなかったが、自分の不注意な行動で桜花を傷付けてしまったのは確かだ。

「…ごめん!ごめん…桜花」

 砂月は慌てて弁解しようとするが、うまい言葉が出てこない。

「君が嫌だとか、気味が悪いとか、そんなことは絶対にない!

…ただ…いきなりだったから、ちょっと…まだ、頭が混乱してて……」

 ようやくそれだけ言って、砂月は引いてしまった手を悔やむように拳にして握り締めた。

 そんな砂月の前で、桜花はゆっくりと瞬きをする。

 滑らかな象牙色の瞼が、水色の瞳を一瞬隠し、再び露にする。

 けぶるように濃く長い睫の影を受けながらも、澄んだ瞳からは、もう憂いの色は拭われていた。

「…そうか。確かにいきなりだったな」

 言って、桜花は座っていた椅子から、すっと立ち上がった。

「俺は暫く席を外す。その間に考えを纏めておいてくれ」

「…ああ、分かった」

 桜花の言葉に砂月は頷いて、目を伏せた。

 そう応えるしかない自分が、我ながら、何とも情けない。

「今後の俺たちのこと…今、一緒にしている旅のことだが、それについてもお前の考えを尊重する」

「え?」

 桜花の去り際の一言に、砂月は驚いて顔を上げたが、もう既に桜花は部屋を出た後だった。

 

 砂月は桜花を誤解させていることに今更ながら気付く。

 桜花のことだ、砂月に隠し事をしていたということ自体に、罪悪感を憶えているのかもしれない。

しかし、それが今後、ふたりでの旅を継続するか否かの問題にまで発展するのは、おかしくはないか。

すぐさま、桜花を追い掛けようと立ち上がった砂月だったが、再び気付いて、その動きを止める。

 

…いや、桜花は誤解しているのではない。

また、隠し事に対する多少の罪悪感はあっても、それが旅の継続に問題ありと彼が判断した理由ではないのだ。

恐らく…この新しい事実により、今までの旅におけるふたりの関係が崩れることを桜花は疎んじている。

これからもふたりで旅を続けた際に、今までにない気を遣われたりなどして、

少しでも砂月の態度が変わってしまうことが嫌なのだろう。

 それは同時に、桜花が今までの砂月との旅を楽しいものだと感じてくれていたことを示している。

 有難いと思った。

 だからこそ、これでふたりでの旅が終わってしまうなど御免だった。

 桜花の傍にいられなくなるのは嫌だった。

 しかし、今桜花を追い掛けていって、この気持ちをそのまま告げるだけでは不充分だ。

 まず、砂月自身が今までと「変わらない」ところを桜花に見せなければ。

 そしてそれは、頭が混乱したまま不用意な行動を取ってしまう今の自分では駄目だ。

 砂月は桜花を追い掛けることを諦めて、再び寝台に腰を掛ける。

 深い溜め息を付いて前屈みになり、膝に肘を付いた。

 

 …とにかく落ち着かなければ。

 桜花と話をするのはそれからだ。

 

 逸る気持ちを抑えながら、砂月は片手で額から目を覆った。

 目の前でちらちらと光る己の銀の髪でさえ目障りでならなかった。

 



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