哀恋

 

  哀恋 6

 

夜明け近くに、()(づき)はふと目覚めた。

窓の方を見遣ると、外は既に明るくなり始めているようである。

薄闇の中、砂月は寝台の上でゆっくりと身を起こした。

寝汗を掻くほどではないが、流石に少し暑い。

砂月が起き上がると、隣の寝台に寝ている桜花(おうか)が少し身じろいだ。

思わず息を潜めて様子を窺ったが、桜花が目を覚ますことはなかった。

無意識に砂月の起きた気配に反応しただけらしい。

それだけでも、大した勘だが。

目の上に振り掛かる銀髪を掻き上げつつ、砂月は小さく笑う。

 

最近になって、桜花はやっとこうして深く眠る姿を砂月に見せるようになった。

それまでの桜花は、眠りが極めて浅く、少し離れて寝む砂月の身じろぐ気配にさえ、目を覚ましていた。

危険な一人旅をしていた間は、全く眠らない夜もあったに違いない。

だから、彼がこのような姿を見せてくれると、安心する。

傍に自分がいることで、桜花が少しずつ緊張を和らげているように思えて。

砂月は暫し健やかに寝息を立てている桜花の寝姿に見入る。

滑らかな瞼を閉ざした白い顔と、無造作に上掛けの上に投げ出された細い手が薄闇にくっきりと映えている。

白い枕の上に散り拡がる青銀の髪も仄かな光を発するように煌めいている。

そんな華奢で儚げな姿が、砂月を些細なことでいつも不安にさせる。

無理はさせたくない、守りたいと思ってしまう。

それが無理なら、せめて彼の助けになりたい。

彼は優しいから、いつも砂月に「助かる」と言ってくれるが、砂月はその言葉に甘えていたくなかった。

自分が勝手に彼に付いてきたのだから、ただの足手まといにはなりたくないのだ。

 

砂月は眠る桜花からゆっくりと視線を外し、寝台から下りて、少し風を入れようと傍の窓を開けた。

少しひんやりとしたそよ風が砂月の肩に留まる髪を散らしていった。

窓枠に少し身を乗り出して右手を見遣ると、明るい太陽が建物の間から覗いている。

この太陽が中天に昇る頃には一層眩い光りを放つことだろう。

そうして、視線を宿に面した小さな通りへ向けると、まばらではあるが、既に通りを行き交うひとの姿がある。

露店の準備をしているらしき商人の姿もあった。

その通りを、場に似つかわしくない、しかし、見覚えのある服装の若者が覚束なげな足取りで歩いているのが目に入った。

昨日、桜花が助けた青年だ。

夢うつつの状態のまま、また家人の目を盗んで、彷徨い出したのか。

あの様子だと、昨日のように性質の悪いごろつきに再度絡まれる危険性がある。

砂月は、一瞬そのまま見て見ぬ振りをしようかと考えたが、ちらりと背後を振り返り、すぐさま考えを改める。

静かに窓を閉め、寝台の背に掛けてあった上着を手に取って身を翻す。

眠る桜花の邪魔にならないよう、なるべく物音を立てずに廊下に出て、静かに部屋の扉を閉めた。

 

「おはよう御座います。お早いですね、どこかにお出掛けですか?」

 階段を下りたところで、裏手の井戸から水を汲んできたらしき宿の主人と鉢合わせる。

「ええ、少し辺りを散歩してきます」

 にこやかに訊ねる主人に、会釈しながら笑顔で応えを返し、砂月は通りに出た。

 砂月が下に降りてくる間に、細い脇道にでも入ってしまったのか、青年の姿は通りに見当たらない。

 急ぎ足にならない程度の速度で通りを歩きながら、通り過ぎざまそれとなく脇道の向こうを見ていく。

 三つ目の脇道に差し掛かったとき。

 道を抜けた向こう側で、ひらりと件の青年の服の裾が翻るのが見えた。

 その脇道に入り、今度は駆け足となって砂月は、向こう側の通りに抜けた。

 だが。

 さっき歩いていたのと似たような細い通りに出たが、そこにも青年の姿はなかった。

 辺りを見回すと、ふたつ向こうの脇道の入り口から、再び青年の服の裾が見えた。

 青年のふらふらした歩みは遅い。

 あの脇道で、青年に追い付けるだろう。

 しかし、その脇道に駆け込むと、青年の姿はまた消えている。

 そうして目を上げると、幾つか先の分かれ道で、先程と同じように青年の服の裾がはためくのだ。

 砂月はす、と整った眉を僅かに顰める。

 似たような細い石畳の道が入り組んだ界隈。

 その奥へ奥へと誘い込むかのように、昨日の青年の気配が見え隠れする。

 良くない予感がした。

 まるで、何者かの術中に嵌められそうな…いや、あの青年を追い掛けたときから既に、嵌められているのか。

 青年を追い掛ける脚を止めた砂月は、改めて周囲を見渡して、溜め息を付いた。

 宿のある通りから幾つか脇道に入っただけだが、ちゃんと宿に戻れるかどうか自信がない。

 似たような通りと建物の様子に惑わされて、迷ってしまいそうだ。

 道を訊こうにも、辺りにひとはいない。

 一度、人通りのある大通りに出た方がいいかもしれない。

 その大通りに出るのもまた、一苦労だろうが。

 砂月はもう一度溜め息をついて、髪を掻き上げた。

 

 そのとき。

 

 身が総毛立つような悪寒に襲われる。

 視線。

先程、あの青年の服の裾が垣間見えた分かれ道の向こうからだ。

だが、人間的な気配を感じさせない、それでいて、

得体の知れない熱の篭ったこの視線の持ち主は、あの青年とは思えなかった。

「誰だ?!」

 弾かれるように振り向き、砂月は分かれ道へ向かって駆け出した。

 しかし、さして距離もないその分かれ道を視線を感じる方向へ曲がろうとした瞬間、気配が消えた。

「…っ?!」

「うわっと!!」

 不審に思った砂月が、速度を上げて道を曲がるのと、曲がった先の正面で驚きの声が上がるのとが同時だった。

 持ち前の反射神経で、何とか通行人との衝突を免れた砂月は、相手の姿を確認して怪訝そうに眉を顰める。

「…ハルディン?」

「まぁ〜ったく、危ねえなあ!驚くじゃねえか…っと、砂月か?どうしたんだ、一体」

 被いた厚い布の端を持ち上げて、砂月を認めたハルディンが、目を丸くする。

今、この道にはハルディンと砂月のふたりしかいない。

「…貴方以外に、この道を通ったひとを見掛けませんでしたか?」

 砂月は辺りを見回しながら、念のため問うが、

「いや?俺は大通りからこの道に入ったけど、誰も見なかったぜ」

と、予想通りの応えが返った。

 彼の言葉を信じるならば、ここには異様な視線の持ち主のみならず、あの青年さえいなかったということになる。

 しかし、この言葉をすんなり信じ切れるほど、砂月はハルディンのことを知らなかった。

「こんな朝っぱらからどうしたんだよ。随分必死な顔で走ってたぜ、あんた。お姫さまに逃げられでもしたのかい?」

「まさか」

 からかい調子の言葉を即座に否定して、砂月は気を取り直すように息をついた。

「貴方こそ、こんな朝早くから何をしてるんです?」

「何をって、決まってるじゃねえか、仕事だよ。こんな早くでも、大通りに出れば結構稼ぎはあるもんだ」

 言いながら小脇に抱えた布に包んだ楽器を楽師の青年は、ぽんと軽く叩く。

「一度宿に帰って朝飯にしようと思ってね。この道は大通りから宿への近道なのさ」

 で、そっちは?と訊ねるハルディンに砂月は苦笑してみせる。

「早く目が覚めてしまったので、この辺りを散歩しようと思い付いただけです。

気儘に歩いていたら迷ってしまって、誰かに道を訊こうと…それで、少し慌てていたんです」

 言葉を紡ぎながら、砂月は道向こうを見据える。

 自然眼差しが厳しくなり、紅い右目が鈍い光を放つ。

 そして、砂月はすぐさまそんな表情を隠すように、目を伏せた。

「ふうん?」

 ハルディンは何処か不審そうな相槌を打ったが、それ以上の問いを拒絶する気配に肩を竦める。

「それじゃあ、俺とたまたま行き会って幸いだったな。

ひとに訊くにしても、この時間帯は一度大通りに出ないと難しいところだったぜ」

「ええ、それは感謝します」

「何か含みのある言い方だなぁ。ま、いいけどよ」

 付いて来いと先に歩き出したハルディンに従って、歩き出しながら砂月はもう一度その道を振り返る。

 

 自分が見たもの、感じたものが幻だとは思えない。

あの視線は何を意味しているのか。

あのひとならぬ気配を纏う視線の持ち主なら、その場から忽然と姿を消すこともできるかもしれない。

 あの青年と異様な視線の持ち主との間に何らかの関わりがあるなら、青年の姿が消え失せたことにも一応納得がいく。

 或いは…

 彼らが消えた道から現れたハルディン。

 彼が偽りを言っているのだとしたら。

この楽師の青年もまた、彼らと関わりを持っている可能性も否定できないのだ。

 

どちらにしろ、もう少し慎重にならなければいけない、と砂月は自戒した。

 

 

砂月が宿の部屋から出て行って暫くして、桜花は目を覚ました。

「…砂月はまだ戻ってないか」

 呟きながら起き上がり、少々気だるい仕種で顔の前に垂れ下がる長い髪を掻き上げる。

 砂月が部屋を出て行った気配には気付いていた。

 その後にすぐ起きるつもりだったのだが、再び寝入ってしまったらしい。

 無造作に指で己の髪を梳きながら、桜花は柳眉を僅かに顰める。

 この街に入ってから、どうにも調子が悪い。

 だからといって、日常生活に障りがある訳ではない。

いつもどおり身体は動くし、勘も働く。

傍目には全く変化がないように見えるだろう。

だが、どうにもすっきりしない感覚に桜花は捕らわれていた。

少しばかり疲れ易くなっているかもしれない。

その理由もある程度察しは付いているのだが。

細い指で梳かれているうちに、桜花の青銀の髪は真っ直ぐな艶を取り戻し、部屋に漂う微風に揺らめいた。

風を入れるために砂月が僅かに開けていったのだろう、部屋の窓が少し開いている。

寝台から降りた桜花は、その窓を大きく開く。

先程よりも多くの風と陽光が、桜花の髪をそよがせ煌めかせて、部屋の中に入り込んだ。

それから、手早く着替えた桜花は、部屋の空気を入れ替えるために開けた窓を閉めて、部屋を出た。

砂月がすぐ戻ってこないことに関して、桜花はそれほど気に掛けてはいなかった。

子供ではないのだ、砂月もひとりで行動したいこともあるだろう。

ああ見えても腕っ節は確かだし、多少の災難に遭っても恐らく自力で切り抜けられる。

軽い足取りで階下へ降りていくと、朝食の支度に取り掛かる宿の主人と顔を合わせた。

「おはようございます」

「ああ、おはよう」

 主人は奥の畑から採ってきたばかりと見える土の付いた野菜をいっぱい入れた笊を抱えながら明るく挨拶する。

 それに笑顔で応えながら、桜花は主人の持っている笊をひょいと持ち上げた。

「あ!あの…?」

 慌てる主人ににっこりと微笑み掛け、

「これ、そこの台所に持っていけばいいんだろ?」

「は、はい」

確認して歩き出す。

「有難う御座います。細くていらっしゃるのに、随分お力があるんですねえ」

 台所の流しに危なげなく重い笊を置いた桜花に、宿の主人が感心したような声を上げる。

「これくらいどうってことないよ」

「いや、本当に有難う御座います。助かりました」

「良かったら、野菜洗いもやろうか?」

「いえいえ!お客様にそこまでして頂く訳には参りません!野菜をここまで運んで頂けただけで充分ですので!」

「そうか?」

 慌てたように応える主人に、却って気を遣わせたかと、桜花は肩を竦めて流しから離れる。

 何故か顔を紅くして、胸を撫で下ろした主人が、朝食の支度を始めながら、思い出したように桜花に話し掛ける。

「そう言えば、先程お連れ様ともお会いしましたよ。少し散歩をなさると言って、出て行かれましたが」

「そうか」

 話しながら、主人は火打石で起こした火を、台所の隅の壁に設えてある祭壇らしきところにある蝋燭に移した。

 くり貫かれた壁の正面には、炎を図案化したような模様の小さな壁掛けが飾られている。

「「聖火(せいか)(しん)」か」

「流石は旅のお方だ、よくご存知ですね。然様です。この街の民の殆どはこの神を信仰しておりますよ」

 「聖火神」は苛烈で容赦のない神。

 しかし、その神が生み出す火は、ひとを豊かにもしてくれる。

 中央を境にして、北方の国々では、水を齎す「(せい)水神(すいしん)」の信仰が多く広まっているが、

南方では、この「聖火神」を崇める国が多い。

 桜花は炎に揺らめく壁掛けの模様を見詰める。

 ふと、あの慣れた視線を感じた気がして、思わず身を竦めた。

 桜花の僅かな変化には気付かない様子で振り向いた宿の主人が、桜花ににこやかに話し掛ける。

「お客様、湯殿の支度が整っております。宜しければご朝食の前にお使い下さいませ。

…他にお泊りのお客様はまだお眠りでいらっしゃいますので」

 付け加えられた言葉に、桜花は性別不詳の己の姿に、気を遣われたことを察して微笑む。

「有難う。そうだな、朝食まで特にすることはないし、今のうちに使わせてもらおう」

「どうぞごゆっくり。湯殿は一階の廊下の突き当たりにありますので」

 主人の言葉を背後に、桜花は台所を出て行った。

 

 

 砂月がハルディンと共に宿に戻ると、奥の台所からいい匂いが漂い始めていた。

「お、丁度いい頃合いに戻ってこれたな」

 言いながらハルディンは、被いた布を取る。

「おい、今のうちに湯殿に行ったらどうだ?ここに泊まる連中は大抵、飯の後に湯を使う奴が多いんだ。

この時間なら空いてると思うぜ」

 混み合うのが嫌なら、この時間がお勧めだと言うハルディンに砂月は頷く。

 無駄な追い駆けっこをしたせいで、少し汗を掻いている。

 早く汗を流してすっきりしたい。

「貴方は?」

「俺は飯の後にする」

 湯殿はあっちだと親指で指し示すハルディンに促されて、砂月は廊下の奥へと向かった。

 



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