哀恋 哀恋 5
楽師が案内したのは、表通りから外れた細い小道沿いにある小さな宿だった。 一見寂れた風情だが、中は清潔で居心地が良さそうである。 玄関を入ってすぐの食堂奥のテーブルで、客らしき三人の男が、酒杯を片手に談笑している。 「おう、親爺!客を連れてきたんだ。まだ、空いてる部屋はあるかい?」 「二階奥の、ハルディン殿のお部屋の隣がちょうど空いておりますよ。よくいらっしゃいました。 寂れた宿で大したおもてなしも出来ませんが…」 「いいえ、居心地の良さそうな宿だと思います。お世話になります」 少し引っ掛かる発音で公用語での出迎えの言葉を口にする主人に、砂月はにこやかに挨拶する。 しかし、いつもならすぐに続く筈の桜花からの挨拶がない。 「…さくら?」 傍らを覗き込むと、何処かへと視線を彷徨わせていた桜花が、ぱっと振り返った。 「どうしたの?」 「いや。ちょっと宿の様子を眺めさせてもらってただけだ」 砂月の問いにさらりと応えて、桜花はやっと宿の主人に挨拶した。 「清潔でいい宿だな、ご主人」 「有難うございます。お言葉に恥じぬよう精一杯のおもてなしをさせていただきます。 では、早速お部屋のほうへご案内を…」 そうして、階段を上がろうとした主人を、食堂の三人組が呼び付けた。 「部屋は俺の部屋の隣だろ?案内は俺がするからさ。親爺はあっちへ行けよ」 困ったような顔をする主人に、ハルディンと呼ばれた楽師が、気さくに申し出る。 「それでは…申し訳ありませんがハルディン殿。宜しくお願いいたします」 宿は主人ひとりが切り盛りしているらしく、主人はハルディンの申し出をあっさりと受け入れて、 すまなそうに砂月たちに会釈しながら、呼ばれた食堂の奥へと向かった。 「こっちだよ」 ハルディンが先に階段に足を掛けて、砂月たちを導く。 「随分手慣れてるんだな」 「ああ、こっちに戻ってきたときは、いつもここで世話になってるからな」 「「戻って」…?ということは、あんたの故郷はここか」 「ああ、そうだよ」 階段を上りながら、桜花の問いに何処か愉快そうな口調で応え、ハルディンは被っていた布に手を掛ける。 分厚い布の下から現れたのは、汚れてはいても、予想以上に整った品のある顔立ちだった。 「…本当にただの楽師なんですか?」 思わず不審の問いを発した砂月に、ハルディンは脱いだ布を肩に担ぎながら、にやりとする。 「そうさ。親なし、兄弟なし、家なしの気楽な独り身さ。あんたにゃ負けるが、多少色男に生まれついたというだけの話だ。 おかげで少しは得もさせてもらってる。顔も知らねえ親だが、この顔に生んでくれたって点だけは感謝してるぜ」 己の浅黒い顔を親指で示して見せながら、ハルディンはからからと笑った。
「医者だって?!あんたが!」 宿で湯を使わせてもらったのだろう、顔の汚れを落として、 一層男前となったハルディンが、食堂の片隅で素っ頓狂な声を上げた。 せっかくの男前が台無しである。 案内された部屋に多くない荷物を置かせてもらった後、砂月と桜花は何となく、 この楽師の青年と同じ食事のテーブルを囲むことになった。 彼が請け合ったとおり、テーブルに並べられた料理は、見掛けは素朴だが、美味しいものばかりだった。 それらの料理に舌鼓を打ちつつ、彼らはお互いが巡った様々な国の話をしていたが、ふいに桜花の仕事の話になった。 桜花が素直に医者だということを明かすと、驚きの声を発したハルディンは食事の手を休めて、 目を丸くしたまま、桜花の姿を眺める。 「…とても医者には見えねえなあ。何せ、この見てくれにあの技だ。俺はてっきり、同業者だと思ってたぜ」 「見掛けで仕事が決まるわけでもないだろう」 この反応には、嫌というほど慣れているので、桜花は淡々と応える。 「ま、それはそうだわな」 尤もな応えに頷きを返し、ハルディンはやや身を乗り出した。 「しかし、本業でないってんなら、ますます謎だぜ。いったい、あれほどの技をどこで憶えてきたんだ?」 良かったら教えてくれよ、と興味津々覗き込むハルディンを余所に、 桜花は落ち着いた様子で口の中の食べ物をしっかり咀嚼して飲み込み、グラスに注がれた水を一口飲んだ。 「…技と言ってもな。あれは親から教えられた護身術を応用しただけなんだ」 「ええ?それだけにしては、俺のウードの音律に楽々と合わせてたじゃねえか」 「俺の家では、家業の他に、音楽も多少、教養として嗜んでたからな。多分その所為だろう」 「信じられねえな。玄人顔負けだったぜ、あの舞は」 「まあ…な」 疑わしそうに覗き込むハルディンに、桜花は少し微笑んでみせる。 「その辺りは環境が鍛えたということなんだろう。俺の場合は、必ずしも本業だけで食べていけるわけじゃないからな」 「良く分からねえな。代々医者をやってるっぽい家なら、ヤブってわけじゃないんだろ?」 その問いには応えずに、桜花は食堂の真ん中に置いてある古びたピアノを目で示した。 「あれ、弾いてもいいのか?」 「あ、ああ。親爺の亡くなった奥さんが弾いてた形見で、今はお飾りになってる奴みたいだが」 先ほどまで慌ただしくテーブルの間を行き来していた主人は、どうやら落ち着いたようである。 それを見計らって、桜花は席を立ち、主人に近付いていく。 桜花が一言二言、話し掛けるのに、主人は笑顔で頷く。 身を翻した桜花が戻った先は、食堂の中央のピアノの前だった。 その蓋を開け、椅子にふわりと腰を下ろす。 砂月やハルディンはもちろん、食堂にいた他の客も、ピアノの前に座った桜花に注目した。 それらの視線に気負うことなく、桜花は古びた鍵盤のひとつを、細い指で叩いた。 澄んだ音が零れる。 その音色を確かめるように、桜花は僅かに華奢な首を傾げて、余韻が消えるまで音に聴き入る。 一呼吸置いてから、鍵盤の上に手を滑らせ、今度は連続した音の連なりを紡ぎ出す。 そうして、また、同じようにして音を確かめてから、ふわりと手首を軽く上げた。 白くたおやかな手が鍵盤の上を踊り出す。 その手指の下から次々に、流れるような旋律が生み出されていった。 その場にいる者全員が食事の手を休めて、ピアノの音色に聴き入り、それを奏でる桜花の姿に見惚れた。 「…こりゃ大したもんだね」 桜花の整った横顔を眺めながら、ハルディンがどこか呆れたような口調で呟く。 それに、今まで黙ってふたりのやり取りを聞いていただけだった砂月が口を開いた。 「さくらは、路銀が足りなくなったときは、ときどきこういうことをやって、宿代の代わりにしていたそうですよ」 その宿に楽器があれば、その楽器を奏で、なければ、自らの声で歌い、舞う。 医術が本業である咲一族の者が、芸事も嗜むのは、 こうしたときの為なのだろうと桜花が笑って言っていたのを思い出しながら言う。 「へえ?」 「さくらは咲一族ですよ」 別に隠すことでもないだろうと、砂月は桜花の素性を明かす。 それに、ハルディンがテーブルに頬杖を突きながら、目を丸くする。 「咲?咲ってあの医術師のか?」 「流石にご存知ですね」 「そりゃあな、俺たちみたいな流浪民の中じゃ、咲一族は一番の変り種だからな。 しかし、あのお姫さまが咲一族か……意外だねえ」 改めて、桜花の姿を眺めながら、ハルディンはしみじみと呟く。 「なら、尚更食うに困るなんてことはないんじゃねえか? しがない楽師の俺とは違って、渡りの医者とはいえ、名医と名高い咲一族だ。たいがいの場所では引く手数多だろうによ」 「さくらは、生活の苦しい人々からは決して、治療費を貰うことはありません。 依頼のあるなしに関わらず、もっとも医者の手を必要としているだろうところへ真っ先に出向いて、 無償の治療を施すんです」 「……そりゃまた、大したもんだ。なるほど、だから本職だけでは食っていけないって言う訳だ。 つまり、今やってるようなあれはお姫さまの副業なんだな。しかしさ…」 ハルディンが桜花に向けていた視線を傍らの砂月に移す。 「あいつは一体何者なんだ?咲一族だってのは分かったけど、今の話を聞いてると、 心がけがあまりにもご立派でお綺麗過ぎて、人間だとは到底思えねえ。もしかして、人間の振りした天使か何かかい?」 「さあ、それは…僕も彼との付き合いはあまり長くないので」 砂月が曖昧に笑って応えると、相手は再び目を丸くする。 「あれ?あんた、お姫さまの兄弟か何かじゃないのかい?」 「は?」 「だって、面差しとか雰囲気とかが似てるぜ。まあ、そっくりって言うほどでもないが」 「止して下さい。彼と僕は従兄弟同士で確かに血の繋がりはありますが、似ているなんてことはない」 それまで物柔らかに話していた砂月が、急に憮然として言い返してきたので、 楽師の青年は少し面食らったように、目を瞬かせた。 しかし、すぐにその理由を悟るらしい。 「ははあ、なるほどねえ…」 「何です?」 にやけるハルディンを、砂月は軽く睨み付ける。 「いやいや、悪かったな、無神経なことを言って。しかしなあ…」 ハルディンが悪戯っぽい眼差しで、桜花を見遣る。 花弁を思わせるくちびるを僅かに綻ばせ、澄んだ瞳を宝石のように煌かせながら、 鍵盤を叩く桜花は、ただの副業というのではなく、心からピアノを奏でるのを楽しんでいるようだった。 「通じてないだろ、あのお姫さまには」 「…………」 砂月は憮然とした表情のまま、無言の応えを返すしかなかない。 「ま、苦労するだろうが、せいぜい頑張れよ」 どうせ他人事、とからかうように言う楽師に、砂月は内心舌打ちしたいのを堪える。 「…全く、迂闊でしたよ。貴方のような通りすがりの人間に、悟られるなんて」 「これでも勘は良い方なんでね」 言われて、砂月は溜め息が零れるのだけは、堪えることが出来なかった。
桜花の演奏が終わった。 観客から惜しみない拍手が送られる。 それらに演奏と同様、全く気負うことのない朗らかな笑顔で応えながら、桜花がテーブルに戻ってくる。 途端、砂月の眉間に刻まれていた皺が跡形もなく消えた。 先ほどの憮然とした表情は何処へやら、形良い薄い唇に優しい笑みを浮かべて、砂月は桜花を迎える。 「おかえり、さくら。流石だね、素晴らしい演奏だったよ」 「ん、有難う。少しでも楽しんでもらえたなら何よりだ」 「…ぷ…っ」 「?何が可笑しいんだ、ハルディン」 ごく普通の会話をしている筈なのに、ハルディンは僅かに肩を震わせて笑いを堪えているようだ。 桜花が首を傾げて問うのに、笑っている彼の代わりに、砂月が少々素っ気無く言い放つ。 「彼のことは放っておいていいよ」 「しかし…」 こと桜花に関して著しく発揮される己の変わり身の早さは、砂月自身も自覚している。 我ながら呆れるほどだとも思っているが、それを他人には指摘されたくない。 その意図が伝わったのか、まだ唇の端に笑みの気配を残しながら、ハルディンは立ち上がる。 「ただの思い出し笑いだからさ、兄さんの言うとおり、お姫さまは気にしないでくれよ。 さて、腹も膨れて、その上、耳目の保養も出来たしな、そろそろ俺は部屋に退散するよ。また、明日な」 通りすがりに砂月の肩を叩いて宿の階段を上っていくハルディンを怪訝そうな表情で見送った桜花だったが、 気にしても仕方ないと割り切ったのか、華奢な肩を竦めて、砂月を振り返った。 「俺たちも部屋へ戻るか」 「そうだね」 砂月が立ち上がるのに応じて、桜花は身を翻す。 先に階段を上る桜花の華奢な背中で、宿の朧な灯りに彩られた青銀の髪が揺れる。 「随分、ハルディンと仲良くなったんだな。話も弾んでたようだが、何を話してたんだ?」 肩越しに振り向いて無邪気に訊ねてくる桜花に、砂月は苦しい応えを返す。 「…さっきと同じだよ。彼の旅先での話を聞いてたんだ」 「ふうん」 適当に応えると、桜花はそれ以上立ち入ったことは聞いてこなかった。 しかし、自分が話題の中心になっていたことなど思い付きもしないに違いない。 「少し安心した。お前、今までずっと俺にばかり構っているみたいだったからな。 これからも気の合いそうな奴と会ったら、話したり遊んだり、好きなようにしろよ。 一緒の旅だからって、俺に気を遣わなくていい」 それを証明するように、桜花はやや見当違いのことを言ってくる。 「ただし、国の法律に反するようなことだけはやるなよ」 しかし、悪戯っぽく言い添える笑顔には、桜花ならではの気遣いと優しさが滲んでいた。 「僕はいつだって好きにやっているつもりだけど…」 自分はいつだって好きで桜花を構っているのだ。 その辺りが、今だ桜花に通じていないらしいことに、砂月は笑み混じりの溜め息をつく。 「有難う。これからも、法律に触れない程度に好きにやらせていただくよ」 そう応えながら、砂月はふと、従兄弟との恋愛が法律に触れる国はあるのだろうかと埒もないことを考えた。 |
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