哀恋

 

   哀恋 2

 

 一方、注目の的となっている件の旅人たちは全くの無頓着だった。

「流石にこの地方は暑いね」

 歩きながら、薄布越しに天高く輝く白い太陽を見上げ、背の高い青年、砂月(さづき)が言う。

 しかし、そう言う声も、布の蔭の端正な顔立ちも涼しげで、全く暑さを感じていないかのようだった。

「まあな。だが、まだ初夏だし、このくらいは序の口だろう」

 僅かに被いた布を持ち上げ、陽を見上げて応えた性別不詳の美貌の主、

桜花(おうか)の声と表情も清らかな水の如く涼しげである。

 

 通りの喧噪に紛れて、楽師の奏でるゆったりとした旋律が聴こえてくる。

 ふいに、桜花が太陽に向けていた目を傍らの砂月へと向けた。

「何?」

 物言いたげな視線に問いを向けると、何処か淡々とした応えが返ってきた。

「実は、少々困ったことになった」

「そう言う割には、緊迫感が感じられない口調だけど、困ったことって?」

「路銀がもうない」

 歩を進めていた砂月の脚がぴたりと止まる。

「…念の為に訊くけど、ないっていうのは、どの程度のことかな?」

「ゼロのすっからかんという意味だ。今日の宿代どころか、食事代さえない」

 砂月に次いで立ち止まった桜花がきっぱりと潔く応えた。

 

 その場を一瞬沈黙が支配する。

 

「………どうしてもっと早く言わないんだ…」

 思わず薄布越しに額を抑えて呻く砂月に、桜花は困ったように首を傾げて苦笑する。

「いや、俺もついさっき気付いてさ…」

「気付くのが遅過ぎるよ」

 これは「少々」どころか「大変」困った状態ではないかと砂月は思うのだが、

桜花は気付くのが遅れたことに対して、少々気まずい思いをしてはいても、今の状況に危機感は感じていないようだった。

 これらの会話は彼らの母国語で交わされている。

 彼らの美しい立ち姿に、通り過ぎざまに振り返る人々も、

彼らが路銀のことについて話しているとは夢にも思わないだろう。

 旅人としては当然の話題なのだが、彼らの持つ浮世離れした雰囲気とはあまりにも掛け離れている。

 しかも、路銀が底をついたのに気付かなかったといういささか間の抜けた話題である。

 だが、当人たちにとっては死活問題だ。

 

 間もなく軽い衝撃から立ち直った砂月が溜め息をついた。

「まあ、考えれば仕方のない状況だね。さくら(・・・)が仕事で得る収入はそれほど多くないし」

 桜花は医術師だ。

ただの医者とは違い、彼ら独自の特殊能力も用いて患者を治療する者たちのことを「医術師」という。

桜花は数多くの優れた医術師を輩出し、医術師の代名詞ともいえる咲一族の生まれである。

彼もまた、僅か十代にして医術師としての腕は、超一流だ。

彼は流浪の一族でもある咲一族の習いに従って諸国を巡りながら、その腕を振るっていた。

つい一ヶ月ほど前から、彼に同行することになった砂月は、今現在、及ばずながら彼の助手を務めている。

殆ど何処の国にあっても引く手数多な医術師である桜花。

それなのに何故、路銀が底を付くという状態になってしまったのか。

そこには、桜花の仕事の請け負い方に原因がある。

彼は貧しい者からは代金を貰わず、無償で治療をしているのだ。

もちろん、富裕な者からはそれなりの代金を支払って貰っているのだが、やはり、危急の治療を必要とするのは、

お金がなく、ぎりぎりの状態になっても医者の元へ行くことができない貧しい者たちなのだ。

 桜花はそのような人々の治療を進んで行っていた。

 何処の国を訪れても、必ず、貧しい人々の住む界隈へ訪れた。

 余所者を嫌う彼らに、手酷い出迎えを受けることもあったが、桜花は怯まない。

 滞在中は幾度でも訪れて、医師を必要とする彼らに手を差し伸べることを止めなかった。

 そんな桜花の姿勢は尊いものに見えたし、砂月も自分の出来る限りで精一杯彼を手伝った。

 国を去る際、たったひとりにでも感謝の言葉を貰えることが自分でも意外なほど嬉しかった。

 同時に、桜花もきっと同じように感じているから、このやり方を続けてきたのだろうと思った。

 

 だから、砂月には、桜花のやり方が悪いと責める気は毛頭なかった。

 しかし、自分たちも食べて生きていかなければならないのも事実。

「こんなことなら、旅の間、遊んでいないで僕も働けば良かったよ」

 そう言って、また、溜め息をついた砂月の言葉に、桜花が澄んだ水色の瞳を丸くする。

「何を言ってる。砂月は遊んでなんかいないじゃないか。ずっと俺の仕事を手伝ってくれていた」

「でも、僕には専門知識がないし、殆ど役立たずだった筈だよ」

「そんなことはない!!」

 思いも寄らぬ大きな否定の言葉に虚を突かれて、砂月は目を瞬く。

「砂月に仕事を手伝って貰えるようになってから、今までより、もっと多くのひとを診ることができるようになった。

専門知識の有無なんて問題じゃない。砂月のおかげで、本当に助かっているんだ。嘘じゃないぞ」

 正面に立った桜花が身を乗り出すようにして、言い募る。

 真剣度が過ぎて、殆ど睨むような目で見上げてくる桜花の姿に、砂月はくすりと笑みを零した。

「有難う。そう言って貰えると嬉しいな。…まあ、何であれ、過ぎたことをとやかく言っても始まらないしね」

「その通りだ」

 桜花が生真面目に頷いてから、身を翻して正面に向き直る。

「でも、さくら。本当にこれからどうするんだい?君の様子だと何か手がありそうだけど?」

 桜花の医術師としての仕事のやり方は、砂月と出会う以前からずっと変わらない筈だ。

 ならば、旅の途中で路銀がなくなるという経験もあったかもしれない。

 ふと、気付いて問い掛けると、桜花はまたちょっと首を傾げた。

「あると言えば、ある。ないと言えばない」

「…何だよ、それは」

 それには応えずに、桜花は華奢な手を組んで、指を鳴らすような仕種をした。

「上手くいかなければ今夜は野宿だな」

「有難くない話だね」

 思わず、砂月は顔を顰めた。

 

 桜花は全くの無頓着だが、砂月は自分たちが、かなり人目を惹く容姿であることを自覚している。

 それが野宿だなどと、狙ってくれと言っているも同然ではないか。

 とはいえ、金目の物は殆ど所持していないのだから、何かを盗られる心配はないが、

もっと切迫した事態になる可能性は大いにある。

 尤も、桜花自身はひとりで旅をしてきた間、幾度もそのような危険に晒され、自力で防いできたのには違いない。

 しかし、砂月は自分はともかく、桜花が危険に晒されるのは我慢ならなかった。

 そんな光景を見るくらいならば、自分が盾になった方がいい。

 

「まあ、なるべく屋根の下で、寝られるよう頑張ってみるさ。お坊ちゃん育ちの砂月に野宿はきついだろうからな」

 砂月の反応をどう受け取ったものか、桜花は笑って見当外れなことを言った。

「…そういうことにしておこうかな」

 砂月は苦笑したが、桜花の言葉を否定はしない。

 理由はどうあれ、野宿を避けたいと思っているのは確かだからだ。

「さて、まずは…」

 颯爽と歩み出しながら、桜花は周囲の建物をそれとなく見渡す。

「ピアノか何かの楽器が置いてある宿屋はないものかな?」

「さくら。それって…」

 独り言のように呟かれた言葉に、人込みを縫うように歩みながら、問い掛けようとしたとき。

 

「ちょいとそこ行く別嬪さん」

 

 道の端からの呼び掛けを砂月の耳が捉えた。

 何故なら、その呼び掛けが国の言葉ではなく、耳慣れた公用語で発せられたものだったからだ。

 振り返ると、そこに楽師らしき人物が座っていた。

筵も何も敷かない道端に直接、胡座をかいている。

 暑さ避けに、砂月たちが被いている物よりも織の厚い薄汚れた布を頭から被っているので、

容貌どころか体型もよく分からない。

 ただ、先程の呼び掛けの声から察するに、青年ではないかと思われた。

膝の上に抱えた楽器の絃を爪弾き、ゆったりとした旋律を紡ぎ続けながら、心なしか頭をもたげている。

彼の視線の先にいるのは、桜花だ。

しかし、当の桜花はその呼び掛けが聞こえなかったのか、すたすたと青年の脇を通り過ぎた。

「お〜い、無視すんな〜」

 再び青年がのんびりした調子で呼び止める。

 それでも、桜花は気付かない。

「さくら」

 何となく、青年が気の毒になって、また、桜花がひとの呼び掛けを無視する人間だとは思われたくない気持ちもあって、

砂月は桜花に向かって声を上げた。

 周囲を見渡しながら歩いていた桜花がやっと振り返る。

 そこで、やっと後方で立ち止まっている砂月と、傍らに座り込む楽師に気が付いたようだ。

「どうした?知り合いにでも声を掛けられたか?」

 言いながら、道を戻って砂月の傍らに立った桜花は、さり気なく楽師に視線を遣ってから砂月を見上げた。

「いや、声を掛けられたのはさくらのほうなんだけど」

「俺?」

 苦笑した砂月の言葉に、桜花が目を丸くする。

 すると、相変わらず楽器を爪弾いている青年が明るい声を上げた。

「やあ、やっぱり当たりだ。これは滅多にお目に掛かれない別嬪さんだぜ」

 下から見上げているお蔭で、桜花の美貌を確かめることができたらしい、嬉しそうな声を上げる楽師を、

桜花は怪訝そうに見遣ったが、気を取り直したように身を屈めた。

 楽師の青年のように、道端に腰を下ろしはしないが、彼と目線が合うようにしゃがみ込む。

 話す相手とはなるべく目線を合わせるのが、桜花の信条だ。

「しがない道端の楽師にわざわざご丁寧なことで」

 このときばかりは奏でる手を止めて、感心しているような、

何処か呆れてもいるような口調で零された言葉には構わず、桜花は口を開く。

「俺に何か用があるのか?」

 澄んだ声音での問いに、青年は笑み声を零した。

 布の蔭から辛うじて彼の顔の下半分が覗く。

 この国の人々と同じ浅黒い肌。

薄汚れてはいたが、通った鼻筋と笑みに綻んだ口元には、意外なほどの品がある。

 ただの流浪の楽師には似つかわしくない風貌だ。

 相手を注意深く観察しながら、砂月が成り行きを見守っていると、

青年は桜花の問いに応えるように、楽器の絃を一つ弾いた。

 澄んだ音色が零れる。

「いや、用と言うほど大したものでもないんだよ。

俺は道っぱたに座りこんで、唯一の芸を披露して得たなけなしの銭で食い繋いでる一介の楽師だがね、

あるひとつのことだけは決めているんだ。

それは、道でこれはと思う別嬪さんに出会ったら、必ず一曲は捧げるという奴さ」

「……」

 一旦言葉を切った青年は、反応に困って黙ってしまった桜花を見て、にやりと笑った。

「だから、俺が弾くのを一曲聴いてくれませんかね?お姫さま」

「俺は姫じゃない」

「まあまあ」

 口調や仕種は一見、軽そうだが、彼は申し出を引っ込める気は毛頭ないらしい。

 桜花は、今度は別の意味で困って、僅かに柳眉を寄せた。

「だが、今の俺には、金の持ち合わせがない」

 せっかくの腕前を披露してもらっても、それに報いる術がない。

 そう言うと、青年はからからと笑った。

「捧げるって言っただろう?金はいらねえ。お代は、そうだな…お姫さまの可憐な笑顔ってことでどうだよ」

 臆面もなくそう言い放って、青年は手にした楽器を持ち直した。

「お姫さまの綺麗な声には叶わないかもしれねえが、心を込めて弾かせて貰う。

おっと、そこの兄さんもついでだ、聴いてってもいいぜ」

「ついで…ですか。それはどうも」

 すいと指差されて、砂月は苦笑する。

 何処か得体の知れない青年だが、一曲くらい付き合ってもいいだろう。

 桜花もそう判断したのか、青年の正面に腰を下ろす。

 

 青年が旋律を紡ぐ為に、絃に触れようとした刹那。

 

 後方で騒ぎが起きた。

 



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