哀恋 彼が帰ってこない。 「お嬢さま、聴こえていらっしゃいますか?」 部屋の扉を叩いて呼びかける声が耳障りでならない。 「私はこれで失礼致しますが、お食事はいつものようにご用意してありますので、温めてお召し上がりになって下さい。 少しでもお食べにならないと、お身体に毒ですよ。砂月様もお戻りになられたら、きっとご心配…」 「帰るなら、早く帰ればいいわ!」 この家に長年仕えている使用人の言葉を無理やり遮って、横たわったまま、寝台の上で耳を塞ぐ。 カーテンが閉じられたままの部屋は暗い。 この暗さは同時に、彼女の今の気持ちをも表していた。 彼が帰ってこないのだ。 彼が傍にいないだけで、自分の世界はこんなにも暗い。 まるで、二度と朝が来ない闇夜のよう。 「星砂様……」 いつものように、扉の外で溜め息が零される気配がした。 「星砂様と砂月様の仲睦まじさは、私も充分存じております。 けれど、どんなに互いを想い合っても、おふたりは血の繋がったご姉弟。 いつまでも一緒に…という訳には参りませんのに……」 愚痴るような呟き。 「星砂様宛てのお手紙をお預かりしております。戸口に置いておきますので。それでは、私はこれで」 相変わらず、返事がないのに、また、溜め息をついたのだろうか、僅かな間の後に、足音が部屋の前から離れていく。 完全に足音が聴こえなくなっても、星砂は寝台の上から動かなかった。 何もする気が起きなかった。 このまま眠ってしまおうか。 しかし、最近は夢の中でさえ、彼に会えなくなってしまっているのだ。 「砂月……」 焦がれるように、唇から零れ出る名前。 夢で会えなくなってしまったのは、貴方の心が私から離れてしまったから? 「手紙…」 ふと、使用人の言葉を思い出し、気だるげに身を起こす。 薄暗い室内に浮かび上がる華奢な人影。 波打つ金の髪が僅かな光を零しながら、身を起こした彼女の細い背を覆い、敷布の上に拡がった。 次いで、彼女は寝台から白い素足を下ろし、ゆっくりと戸口へ向かう。 彼女の細い手に掴まれたままの上掛けが、寝台から滑り落ちた。 そっと扉を開き、使用人が置いていった手紙を拾い上げる。 すぐに扉を閉じ、薄暗い部屋の僅かな灯りに白い封筒を翳した星砂の瞳が、次の瞬間大きく見開かれる。 差出人の名前はない。 だが、表に記された住所と宛名の筆跡は… 星砂は手紙を握り締め、身体に絡み付いた上掛けを引き剥がしながら、窓辺へ急ぎ足で向かう。 慌しい音を立てて、カーテンを引き開け、突如部屋を満たした紅い陽光に怯むことなく、バルコニーへと飛び出した。 その日最後の眩い陽光に、手にした封筒を翳す。 間違いない。 「砂月…!」 歓喜に震える声で、名を呟く。 そこに丁寧で綺麗な筆致で記された自分の名を見るだけで泣きそうになる。 それから、太陽が地に隠れる前にと、慌しく封書を開けた。 たった、数週間会えないだけで、こんなにも慕わしい彼の字。 彼は自分に一体何を伝えに、この手紙を送ったのだろう。 しかし、逸る気持ちを抑えながら、手紙の文字を一心に追っていた彼女の表情は、次第に強張っていった。 その長くもない手紙を読み終える頃には、彼女の顔からは笑みが消え、 翠色の瞳は輝きを失い、凍り付いたかのような無表情となった。 手紙を持つ白い手は小刻みに震えている。 太陽が沈み、夕闇が訪れる。 光と入れ替わるように訪れた影が、バルコニーに佇み、俯く彼女の表情を隠した。 やがて、濃くなっていく闇の中に、雪のような欠片が舞い始めた。 細かくちぎられた紙片は、バルコニーの上からゆっくりと降り続け、 生い茂る木々の更に濃い闇へと次々と吸い込まれていく。 それが途切れたとき、全ては闇に沈んだ。 哀恋 1 「愛しいひとよ。貴方と共に在れるのならば、何でもしよう。何にでもなろう」 「ではその証を」 想いを語る熱い囁きに返る声音は、冷たい響きを持っている。
窓の外には紅く輝く月。 その妖しい輝きが重なり合うふたつの影を切り取った。 「ずっと私と共に在ってくれると?」 「もちろんだとも」 「それは…嘘だ」 「嘘ではない!……っ!」 つれない相手を熱心に掻き口説く男の声音がふと途切れる。 やがて、それは苦悶の声へと変わる。 重なっていた影が離れた。 「嘘だ。私が望むのは、永久の伴侶。お前ではそれになることはできない。お前は私を残して去る」 「そ…のようなことは……!」 淡々と言葉を紡ぎながら、月の中に佇む人影。 その影へ向かって、男の腕が伸ばされる。 しかし、その腕は取られることはなく、やがて、一際大きな男の苦鳴と共に、力なく地へと落ちた。 たった今まで愛を囁いていた男を前に、佇む影は微動だにしなかった。 ただ、ひとことだけ呟くような声が零れる。 「やはり…駄目だったか……」 淡々とした呟きに、僅かな悲哀の色が滲むのを聴くのは、夜を照らす禍々しいほどに紅い月のみ。 南方の街の陽は、眩しいほどに明るい。 季節は初夏だが、少し歩くだけで汗ばむ陽気だ。 通りは市が開かれているのか、賑やかな喧騒に包まれている。 赤や緑、橙など、鮮やかな色合いの模様の衣服を纏った浅黒い肌の街の人々。 土産物の置物や宝飾品などを扱う出店の前には、肌の色や服装の違う観光客らしき姿もちらほら見える。 物売りの声と、それに応える客の声、道端に座り込む流浪の楽師が奏でる音で賑わう大通り。 そこを、一際異彩を放つ二人連れが過ぎろうとしていた。 陽避けの薄布から覗いている陽光を弾くほど白い肌は、彼らが明らかに異国の旅人であることを示していた。 ふたりとも薄布で顔を半分隠しているが、ひとりはすらりと背の高い青年のようだ。 通りを急ぐでもなく歩むその姿が、優雅で実に見栄えがする。 「あれはきっといい男に違いないよ」 「少しの間でもいいから、あの薄布を取ってくれないものかしら?」 何処からともなくそう囁き交わす女たちの声がする。 その傍らを歩むもうひとりは、性別が分からない。 頭一つ分は背の高い青年の傍らを歩むほっそりと華奢な姿は、何処ぞの姫君かとも思わせる風情なのだが、 颯爽と歩を進める身のこなしは、凛々しい少年を思わせる。 頭から被った紅の薄布の下から零れる長い髪は、何と陽に透ける僅かに青味がかった銀色である。 「銀細工でできたお人形みたい!」 出店の主人の娘らしき幼い少女が台に乗り出し、無邪気な歓声を上げる。 すると、台に乗り出した勢いで売り物の陶器の置物がぽろりと通りに落ちてしまう。 「あ!」 気付いた主人と娘が声を上げるが、もう遅い。 小さな極楽鳥を象った置物は割れはしなかったが、ころころと転がり、件の人物の目の前に止まった。 「ご、ごめんなさい!」 少女が慌てて台を回って通りに飛び出すと、「銀細工でできたお人形みたい」なそのひとが、置物を拾い上げていた。 そして、駆けつけてくる少女の目線と同じになるように身を屈めたまま、置物を持った白い手を差し出した。 置物を受け取るとき、僅かに触れた細い指先が、ひんやりと心地良い。 御礼を言おうと、顔を上げた少女は、薄布の蔭に隠されていたそのひとの容貌を間近に見上げることになった。 予想以上の美貌に目を丸くする。 布の蔭から覗いた瞳は、透き通った水色で、見たこともない宝石のようだ。 白い肌の中で際立つ薄紅色の花弁のような唇が、ゆっくりと笑みを刻んだ。 少女が呆気に取られているうちに、綺麗なひとは、す、と立ち上がり、歩み出す。 その後を追うように歩み出した背の高い青年も、整った唇に優しい笑みを見せてから身を翻した。 この一連の光景を目にした者たちは、実際に、 その美貌を目にすることのできた少女のみならず、何処か夢見心地で彼らの後を見送った。 彼らの周りは空気の色さえ違って見える。 僅かに芳香さえ漂うような印象深さだった。 |
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