哀恋

 

   哀恋 19

 

 瞬間、頭の上で小さな破裂音がした。

そう砂月(さづき)が自覚すると同時に、水が降ってきた。

「うわっ…!!」

 量にすれば、井戸の釣瓶に使う木桶の軽く二杯分に相当するだろうか。

 それだけの量の水を頭から被せられて、砂月は一気に全身ずぶ濡れになってしまった。

 髪から滴る雫の合間から見遣ると、目の前のコウも同じようにずぶ濡れとなっていた。

 コウは片手で顔に張り付いた金の髪を掻き上げると、犯人を睨む。

「…やってくれたな」

 ふたりの間近にいながら、ただひとり濡れていない桜花(おうか)は、自分を睨むコウを、更にきつい眼差しで睨み返す。

 その眼差しは砂月にも同様に向けられる。

「いい加減にしろ。誰が誰のものになるだと?当の俺を差し置いて、ふたりで勝手なことをほざくな。

俺は俺自身のものだ。俺は誰のものにもならない!!」

 両手を細い腰に当て、砂月とコウを睨み上げながら毅然と言い放つ。

 桜花に浴びせられた水で、血が昇り切った頭もすっかり冷えた砂月は、返す言葉もなかった。

 が、反省しきりの砂月に反して、コウは桜花の言葉に嗤った。

「相変わらず強情なことだ…まあ、いい。その強情さも、お前であれば愛らしく映るものだからな」

「戯言は結構だ。他に言うことがないのなら、さっさと消えてくれ」

 先ほどよりも更に冷えていく桜花の言葉に、コウは軽く肩を竦めた。

「容赦がないな。これ以上、お前を怒らせぬうちに、お言葉通り退散することとしよう。

お前が誰のものにもならぬと断言するのなら、会えぬ間も安堵して過ごせるというもの…」

「…!」

「砂月!」

 笑みを含んだ言葉に、砂月が鋭く反応しようとするのを、桜花が押し止める。

「コウ!お前もいちいち砂月を煽るな。早く行け!」

 くっくっと喉を鳴らして嗤うコウの姿が徐々に薄れていく。

「…では、また」

 

……セイ。

 

空気を微かに震わせた砂月には耳慣れない呼び掛け。

焦がれるような懐かしさと愛おしさを漂わせるその呼び掛けは、桜花に向けられたものだ。

 

桜花はその呼び掛けに厳しい眼差しだけで応えた。

呼び掛け自体を拒絶するようなその姿。

砂月には、桜花がコウの呼び掛けに引き摺られないよう堪えているように見えた。

(さき)桜花」という存在として、踏み止まろうとしているかのように。

 

 周囲の色彩に溶け込むように、コウが姿を消すと同時に、彼の作り出した不自然な空間も消滅した。

 潮騒のように、大勢の人の気配が押し寄せてくる。

 戻ってきた慌しい喧騒の中、ふいに大きなどよめきが起こる。

「…短剣がッ…!!」

「消えたぞ…!!一体どういことだ?!」

「殿下!トゥールジン様!!大変です!!聖剣が…っ…我々の目の前で…!!」

 しかし、新たな事件に騒然とする広場に、桜花はくるりと背を向け、歩き出した。

 そんな桜花の後を、砂月は広場を一瞥してから、すぐに追う。

 皆、聖剣が突如消えてしまったことに気を取られているのか、広場から離れるふたりを見咎める者は誰もいなかった。

 

あの聖剣はコウが創り出したものだ。

 それがあの女を倒す為だけの俄作りのものならば、役目を終えて消えたとしてもおかしくはない。

 

 それよりも今、気掛かりなのは、桜花のことだ。

 

 砂月の長い足でも急がなければ追い付けないほどの早足で、桜花は歩いている。

 月光を弾きながら煌き揺れる髪を、涼しげに纏わり付かせた華奢な背中が、

いかなる問いをも拒絶しているように見えて、砂月は声を掛けるのを躊躇う。

 暫し、無言で桜花の後を付いていくと、ふと桜花が立ち止まった。

「…悪かったな」

 こちらに背を向けたまま、発せられた言葉に、砂月は紅と翠の瞳を数回瞬く。

 だが、すぐに桜花の言う意味が分かり、

「ああ…」

苦笑しつつ頷いた。

 

 桜花が砂月の父であるあの男と知り合いであることを、桜花は砂月に黙っていた。

 例え、父であるということは知らなかったとしても、あれほど容貌が似通っているのだ。

 あの男と砂月との間に、何らかの血縁関係があると、桜花が察しない筈がない。

 それなのに、桜花は砂月にあの男のことを一切語らなかった。

 実際、桜花とあの男のやり取りを目にしたときは、かなりの衝撃を受けた。

 つい先程まで、そのことで桜花を責めるつもりでいたのだ。

 しかし…

 

 桜花がくるりと振り返って言を継ぐ。

「コウと砂月の関係については、薄々察してはいた。だが、コウに対する砂月の印象は最悪だったからな。

なかなか言い出せなかった」

 少々気まずそうに苦笑しつつ細い肩を竦める桜花の様子は、

すっかり常どおりに戻っていて、砂月は腹を立てるよりもほっとした。

「…あの男から事実を聞かされていた訳じゃないんだね?」

「そうだ。あいつはいつも言いたいことだけを言って去っていく。こちらの質問にまともに答えることは殆どない」

「そうか……」

 砂月は一瞬沈黙する。

 それから、ゆっくりと確認するように問いを紡ぐ。

「あの男は…人間とは違う…別の種族なんだね?」

「そうだ」

 桜花がきっぱりと頷く。

 それから、少し躊躇うような素振りを見せたのに、

「いいよ、遠慮なく言ってくれて構わない」

砂月は微笑んで続きを促す。

 応えて桜花は紅く色付いた柔らかな唇を開く。

「…コウの種族は特殊だ。それぞれ火や風など…人の能力者より強い自然を操る能力(ちから)を持ち、長命で、老いることがない。

その為か、彼らは自分の血を継ぐ子孫を残すことに対する執着が著しく希薄だ」

「だから、親子の情などは持ち合わせていない、ということか…」

 皮肉気に砂月は呟くが、桜花は断言することに納得がいかない様子で口を噤む。

 自分よりもあの男のこと知っている筈の桜花がそんな反応を示すのを、砂月は不思議に思う。

 或いは砂月よりも知っているからこその反応なのか。

 

 それに…

 

 あの男には親子の情はなくても、執着という感情はある。

 

 砂月は月明りに白く冴える桜花の美貌を見詰めた。

「砂月?」

 今まで見たことのない表情で見詰めてくる砂月に、桜花は軽く首を傾げる。

 それに砂月は微笑して応えた。

「…いや、桜花のおかげでよく分かったよ。例え、あの男が父であろうとなかろうと関係ない。

僕の中であの男を切り捨ててしまって構わないということがね」

 その剣呑な言葉に、桜花が柳眉を寄せるが、何も言わず、小さく溜め息だけを吐いた。

 そんな桜花に、砂月もまた、何の反応も返さなかった。

 ただ、他にも訊きたかった問いを胸に収める。

 

 桜花は自分を人間だと言ったが、本当にそうなのか。

 もしかしたら…あのコウという男と同じ種族なのではないか?

 あの男が愛おしげに呼び掛けた「セイ」とは…桜花のもうひとつの名前なのか?

 

 しかし、それら問うたところで、きっと桜花は拒絶して答えないだろう。

…近付きたいと思うのに、近付けない。

桜花との距離を改めて思い知らされ、砂月はそのもどかしさを噛み締めた。

 



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