哀恋

 

   哀恋 18

 

 瞬間、()(づき)の脳裏に近い記憶が甦った。

 

 波打つ銀の髪。

 虚ろな、しかし、激しい熱を宿した翠色の瞳。

 こちらを怯ませるほどの強い力で、腕を掴んだ細い指。

 

 しかし、現れた金髪の青年は、絶句する砂月に何の反応も示さなかった。

 視界にすら入っていないかのようだ。

 その青年が、流れるような動きで、足を踏み出す。

 砂月の傍らに立つ桜花(おうか)に向かって。

 近づいてくるにつれ、砂月と酷似した青年の容貌がますます明らかとなる。

 

 砂月の髪色は純銀で、この青年の髪色は黄金。

髪の長さも違うが、色彩による印象の違いなど問題にならない。

 ただ、ときに冷たい雰囲気を漂わせもするが、

概ね柔和な雰囲気を持つ砂月に対して、この青年には圧倒的な気迫があった。

 気が弱い者なら、対峙するだけで無条件にひれ伏してしまうだろう、その威圧感は、若々しい外見とは不釣合いだった。

 だが、砂月とこの青年を並べて見たならば、誰もがふたりの間に繋がりを見るだろう。

 血の繋がりを。

 

「詰まらぬ者に隙を見せるなと言っただろう」

 笑みを含んだ声音で言って、青年は桜花の前で立ち止まると、すいと腕を伸ばした。

 桜花の傷付いた左腕に向かって。

 触れられる前に、桜花は伸ばされた青年の腕を、荒々しく叩き払う。

 水色の澄んだ瞳には怒りがあった。

 常よりも一層煌く瞳で、桜花は目の前の青年をまっすぐ睨み据えながら、口を開いた。

「あんたか?コウ」

 コウ。

 そう青年の名をはっきりと呼んだ桜花を、砂月は驚いて見る。

 

 桜花はこの青年を知っていたのか。

 自分と良く似たこの青年を。

 

 訊ねられた青年は、桜花に叩き払われた腕を広げながら、軽く肩を竦めてみせる。

「お前はいつも意図が分かりかねる問いをする」

「とぼけるな。あんたは先ほどの女吸血鬼と貴族青年の顛末を見ていた筈だ。

いや…あのような顛末になるようあんたが仕組んだんじゃないのか?」

 一度言葉を途切れさせた桜花は、偽りを許さない瞳で、コウの瞳を見詰めたまま、言葉を継いだ。

「あの青年に聖剣を渡したのは、あんただろう」

 傍らで砂月は再び息を呑む。

「…桜花!」

 思わず声を上げた砂月に視線を投げ、桜花は頷く。

「あれほど威力を持った聖剣が辺りに早々転がっている筈がない。

あるとしたら、間違いなく神殿で厳重に保管されているだろう。到底一国の一貴族の子弟が持ち出せるものではない。

それをあの青年が持っていたということは、厳重な監視など物ともしない何者かが、密かに神殿から持ち出したか…

或いは、自ら創り出して青年に渡したか、どちらかだ」

「正解は後者だな。

余計な騒ぎを起こしてまでも神殿から持ち出すような回りくどい方法など用いずとも、あれぐらいの聖剣は創れる。

私の能力を受け継ぐ者を滅ぼす為の物ならば、尚更容易いことだ」

「何故、そんなことを」

 全く悪びれることのないコウの言葉に、桜花はきつく眉根を寄せる。

そんな彼に、コウは紅い瞳を細めて、ゆったりと微笑んだ。

「あれはお前を傷付けた。多少邪魔をする程度なら、私にも都合が良いかと放っておいたが…いささかやり過ぎたな。

その報いを与えてやっただけのこと」

「それだけの理由で?」

 ますます表情を険しくした桜花に、コウは却って愉快そうに笑った。

 しかし、笑みを含んだ瞳には、刃のように危うい光が垣間見える。

「何だ、この答えでは気に入らないか?では…」

 言ってコウは再び腕を伸ばす。

 ゆっくりとしたように見えて、素早い動きに、今度は桜花も防ぎきれず、傷付いた左腕を捕らえられる。

「放せ!」

「動くな。傷に障る」

 柳眉を吊り上げて、無理やり腕を振り解こうとする桜花を静かに止め、コウは紅い瞳をす、と僅かに見開いた。

 瞳の中心で、炎のような揺らめきが一瞬立ち昇る。

「ッ……」

 直後、先ほどまで左腕を咬んでいた痛みが消え失せ、抵抗を止めた桜花は、無言で掴まれた左腕を見下ろした。

「あれは死を望んでいた」

次いで発せられたコウの言葉に、桜花は、はっと顔を上げる。

「永久にも近い生に飽き、それに伴う孤独に苦しみ…その終焉を心の奥底で望んでいた」

「何故、そうだと分かる?あの女自身でもなく、あの女にさしたる思い入れもないあんたが」

「分かるさ。あれは私の眷属だからな…それに、私にも多少憶えのある感覚だ」

「………」

「十七…十八年か。短い人の生の半分もない、それだけの記憶しか持たぬお前には分からぬ感覚だろう。

いや…例え、永久に近い生を経たとて、お前には分かるまいな。お前は純粋過ぎる上に、呆れるほど利他的だからな。

周囲の人間が幸せならば、己の孤独など顧みすらしないだろう」

 揶揄する口調で言いながら、金の髪の青年は、桜花を見詰めた。

 

 愛おしそうに。

 懐かしげに。

 また、何処かもどかしげに。

 

 桜花はコウの言葉に応えなかったが、僅かに長い睫毛を伏せ、静かに青年の腕を振り解いた。

ひとり取り残されるような形で、ふたりの会話を聞いていた砂月は、

自分が桜花に対して漠然と感じていたことを、突然現れた青年に言い当てられ、驚くと同時に、不快を感じた。

 …いや、不快に思う理由は別にもある。

 それは……

 

 脳裏で繰り返し交錯する色彩と目の前の光景が重ね合わされる。

「くッ…」

 耐え難い不快感が、痛みにも似た感覚を呼び起こし、思わず砂月は、己のこめかみを押さえた。

 

 間もなく、桜花が伏せていた目を上げ、コウの視線を跳ね返すように、真っ直ぐ見返した。

「言っても甲斐がないことは分かっているが、敢えて言わせて貰う。俺はあんたのやり方は好きじゃない」

「お前ならそう言うだろうな」

「だが今、傷を癒してもらったことには礼を言う」

 ふいの礼の言葉に、コウは紅い瞳を僅かに瞠る。

「余計なお世話だったがな」

そう桜花が一言付け加えると、コウは本当に愉快そうに笑い出した。

「……お前は、変わらないな。だからこそ…どうしても得たいという気持ちにさせる」

 唇の端に笑みを残したまま、コウは流れるような動きで指を伸ばす。

そうして、ごく自然に桜花の胸元に振り掛かる青銀の髪にその指を絡めた。

 

 気付けば、砂月はその青年の腕を無造作に掴んでいた。

 青年の指から、桜花の絹糸のような髪が、さらさらと滑り落ちていく。

「砂月?」

 桜花が驚いたように水色の大きな瞳を瞠るが、砂月はまともに応えられなかった。

 ここに到ってやっと、青年が初めて、今まで見向きもしなかった砂月に視線を向ける。

 先程まで桜花に向けていた笑みを消し、その瞳に邪魔をしてくれた相手に対する僅かな不快感を滲ませて、

しかし、興味の薄い対象を見るように。

 自分の右目と同じ色彩の瞳には、それ以外のものは全く窺えなかった。

 やはり、と思いながら、砂月は背丈も含めて鏡に映したように自分にそっくりな青年を睨んだ。

 

 いや…この青年が自分に似ているのではない。

 自分がこの青年に似ているのだろう。

 

 …吐き気がした。

 こみ上げる不快感を堪えながらも、砂月は確信を得る為に、口を開く。

「貴方は誰ですか?」

 その問いに、青年は人間離れした美貌が際立つ無表情のまま、皮肉気な言葉を返した。

「問わずとも、お前は既に答えを知っているようだが?」

「…ッ!」

再び絶句する砂月を他所に、コウは相変わらず興味の薄い口調で言葉を続けた。

「…そうか、あれは結局、子を産んだのだな」

 他人事のように、淡々と事実を確認する言葉に、砂月は一瞬呆然とする。

「…貴方は一体、母を何だと思っていたのですか?」

 ようやく、呟くように言葉を発した後は、次々と問いが怒りと共に溢れ出してくる。

「あれだけ貴方を想っていた母を、何故、貴方は捨てたのですか?

捨てるならば、何故、彼女の子が欲しいという願いに応えたのか?!彼女は貴方の為に狂ってしまったのに、何故…

こうして生きていながら何故、一度も彼女に会おうとしないのか?!!」

 激しく問いを叩き付けられても、コウは少しも表情を動かさなかった。

「あの女…翡翠(ひすい)という名だったか。あれは私が求めた存在ではなかった。幾ら想われようとも、その事実は変わらない。

それを承知の上で、あれは私の子が欲しいと言ったのだ。私はその願いに応えたまで。

その後、あれがどうなろうと、それはあれ自身の問題で、私には何の関わりもない」

「関わりがない?それでは僕は…僕と星砂(せいさ)は貴方の何なのです?!」

 紅と翠の瞳を燃え上がらせて、詰め寄る砂月から、コウは視線を逸らす。

 気後れしたのではない。

 明らかに元々興味の薄かった存在を見ることに飽いて、目を背けたのだ。

「お前は人間同士にある親子の情について言いたい訳か?ならば、お門違いだ。

お前たちは私の血と能力を受け継いでいる。だが、それは私にとって何の意味も持たない」

「何だと…」

 常軌を逸した相手の無関心振りに、砂月は言葉を失くす。

 目前にいる断じて父とは認めたくはない男に対する怒りは、いや増すばかりだったが、

同時に何を言っても、この男には通じないということも漠然と理解し始めていた。

 

 この男は人ではないのだ。

 人と似た形はしているが、人とは全く違う理を持って生きる別種の存在。

 …そんな存在に人の情を求めても意味がないのだ。

 

しかし、そんな男が桜花を見るときだけは、人以上に複雑な感情を垣間見せる。

砂月の右目と同じ色彩の瞳は、桜花だけを見ている。

 桜花しか、その目に映してはいない。

 彼の興味の対象は桜花のみであり、その場に自分に似た者がいようがいまいが関係ないのだろう。

 桜花に対するこの男の恋にも似た執着心は、傍目で見ていても良く分かった。

いや、それは桜花を同じように想う砂月だから分かったのかもしれない。

それとも、この身体を流れる同じ血が、それを理解させたのか、或いはその両方か。

 どちらにしろ、この男が求めている存在が、桜花のことであるのは明らかだった。

 

 砂月の母、翡翠の双子の姉、真珠(しんじゅ)の子である桜花。

 母親似であると言う彼の面差しは、叔母である翡翠にも良く似ていた。

 …いや、母たち姉妹の面差しが、桜花と似ているということか?

 まさか。

 それでは順序があべこべだ。

 しかし、このコウという青年が、予め桜花の誕生を知っていたとしたなら……

 

 不快な頭痛は、まだ続いていた。

 完全に砂月への興味を失った様子で、コウは力の抜けた彼の腕を外して、桜花の滑らかな頬に触れようとする。

「桜花に触れないで下さい!」

 砂月はかっとして、再び青年の腕を無理やり引き戻した。

「お前にそれを禁じられる謂れはないな」

 先程よりも苛立ちの濃い瞳で、コウが砂月を一瞥し、掴まれた腕を振り払う。

 その思わぬ力に、砂月は内心驚くが、退くことなくコウを睨み据える。

「貴方に謂れはなくとも僕にはある」

「…ほう、なるほど。そういうことか」

 砂月に向けられたコウの表情に、初めて変化が起きる。

端正な口元にゆっくりと笑みが刻まれた。

 相手を完全に見下し、同時に立場をわきまえない相手を哀れむような酷薄な笑み。

その微笑に、砂月の敵愾心は更に刺激された。

「砂月」

 桜花が宥めるように呼び掛けてくる。

だが、とても冷静にはなれなかった。

 耳元で、ちりちりと空気が小さく爆ぜる音がする。

 能力の発現の前兆だ。

 コウがあともう一言でも何かを口にしたら、恐らくこの能力は暴走する。

 常ならばその手前で理性を総動員して、能力を抑え込むのだが、このときばかりはそのような気になれなかった。

 むしろ、思いのままに能力を暴走させて目の前の男に叩き付けたいとすら思っていた。

 そんな砂月に向かって、コウが口にしたのは、砂月の理性を失くさせるのに充分な言葉だった。

「お前ではオウカを手に入れることは出来まい。これの伴侶になるには、あまりにも力不足」

「…ッ!!」

 砂月が両の目を見開き、能力を解放しようとした、まさにそのとき。

 

「いい加減にしろ!!」

 よく聞き知る澄んだ声での、聞き慣れない激しい怒号が響き渡った。

 



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