哀恋
哀恋 17
直後、虚ろになっていた女吸血鬼の紅い瞳が、かっと見開かれた。 次いで、抱き締める青年の胸を突き飛ばして、身を離す。 女の白い胸元には、銀に輝く短剣が深々と刺さっていた。 しかし、その刃の下から零れ、流されるべき血は一切なく、滲み出すことすらない。 それ故、突き刺さった短剣の刃は汚されることなく、淡い月明りを受けて、眩しいくらいに輝いていた。 「…聖剣か」 何処か呆然とした口調で、桜花が呟きを漏らす。 この広場には今、先程の騒しさとは打って変わった静けさが満ちている。 張り詰めた糸が切れるのを恐れるように、大勢の人間が誰一人として動けず、 息を潜め、固唾を呑んで、突然現れた青年と女の様子を見守っていた。
女は周囲の状況など忘れ去ったかのように、己が胸に突き立てられた短剣の柄を握り、それを抜こうとする。 しかし、幾ら力を篭めようとも、魔を滅ぼす為の聖剣は、決して抜けることはなかった。 「は…ははは…はは」 女が乾いた笑い声を漏らす。 「…この私が、たかが人間に…こんなところで……」 「愛しい方…」 と、女がふらりと身体をよろめかせた。 青年がはっとしたように、腕を差し伸ばすが、叩き付けるように振り払われてしまう。 辛うじて自らの足で立っている女の瞳が、徐々に焦点を失っていく。 『お前はここで息絶える』 彼女の頭に直接、焦がれ続けた神の声が流れ込んできた。 『お前はやり過ぎたのだよ。私の大切なものを必要以上に傷付けた』 この顛末は他ならぬこの神の采配だったのだと、次第次第に綻びていく意識の片隅で、女は漠然と理解する。 彼の大切なものとは何か、それに自分が何をしたのか、もう考えるだけの力は残っていない。 ただ、自分の為した何かが彼の不興を買ってしまったのだろうということだけは察することが出来た。 ならば、このような報いを受けるのは当然のことだ。 しかし、次いで彼女の頭に流れ込んできたかの人の言葉は予想外のものだった。 『だが、長く無意味な生を紡いできたお前が死を迎えるということ…そこには、もうひとつの意味がある。 分かるか?それはつまり、万年の孤独の終焉。お前が心の奥底で願い続けていたものだ。 これでもう、お前は伴侶を探して彷徨い続けずに済む…お前の願いは叶う』 「私の…願い……」 声ならぬ声で呟きながら、彼女は悟る。 彼女の残酷で優しい神は、自分に罰を与えると同時に、救いをも齎してくれたのだと。 「我が君……」 彼女は空を仰ぎ、最早良く見えない目を細めて、微笑んだ。 その身体がぐらりと傾ぐ。 「あっ…!」 そのまま仰向けに倒れようとする彼女の身体を抱き留めようと、青年は再び腕を伸ばす。 しかし、その指が彼女の身体に届くことはなかった。 触れる寸前に、彼女の身体は砂となって崩れ、一瞬にして微かな夜風に紛れて消えた。 彼女の身体に突き立てられていた銀の聖剣だけが、青年の指を擦り抜けて石畳に落ちた。
刃が石を打つ硬い音に、呆然と事態を見守っていた皆は我に返る。 沈黙の呪縛から解き放たれたトゥールジンとその部下たちは、 先程まで女が居た場所に駆け付け、捕らえるべき者の代わりに、残された青年を取り囲んだ。 トゥールジンが抑えた声音で問う。 「今のお前は、私の言うことが正しく理解できるか?」 「……はい」 正気であるかと問われ、俯いたまま、青年は頷く。 「では、あの女吸血鬼について、話を聞かせて貰う。良かろうな?」 今度は黙って頷いた青年を、合図を受けたトゥールジンの部下ふたりが、支えるように立ち上がらせる。 「この剣の出所についても聞かねばならぬな」 ごちるように言いながら、トゥールジンは石畳の上に落ちたままの聖剣を取り上げ、 それを傍らの部下に命じて、白布に包ませた。 そのとき、俯いていた青年が顔を上げた。 輪の外でそれを見守っていた砂月は、はっと息を呑んだ。
砂月と桜花が追っている最中、ふいに姿を消し、あの女が追い詰められたときになって、再び現れた青年。 ひとならぬ女に寄せた彼の想いは、受け容れられることはなかった。 だからこそ、その手で愛するひとを滅ぼしたのだろうか。 だが、結局、最期の瞬間まで彼女は、彼を意識することはなかった。 視線を素通りさせたまま、その瞳に彼を映さないままで、跡形なく消え去った。
しかし、報われることのなかった青年は今、その顔に穏やかな笑みを浮かべていたのだ。 何処か満足げですらあるその微笑みを目にした者は、皆気圧されたように黙り込む。 「桜花?」 そのとき、砂月の隣に居た桜花が、すいと動いた。 青年を取り囲む人の輪を擦り抜けて、彼の前に立つ。 青年はすぐに、桜花が誰か気付いたらしい、浮かべた笑みに僅かに申し訳なさそうな色を滲ませた。 「…申し訳ありません。せっかくの貴方のご忠告を…無駄にしてしまいました」 「何故だ?」 「え…?」 「何故、こんなことをした」 硬い表情で問う桜花の傍に、砂月が近付く。 常より一層、儚げに見える桜花。 そんな彼を何かあれば、すぐ支えることができるよう、間近に立つ。 問われた青年は、微笑んだまま首を傾げた。 「さあ…あのひとを、どんな形でも良いから手に入れたかったのかもしれません……」 「滅ぼすことは手に入れることとは違う。実際に、お前のその手には、何一つ残っていないじゃないか」 「そういえば、そう……」 「恨んでいたのか?」 「そうですね…そうかもしれません」 「だが、今のお前は笑っている。そこに俺は、恨みを果たしたという歪んだ満足感を感じない。 むしろ、穏やかな諦めと…静かな喜びを感じる。何故…?何故、そのように笑っていられる?」 桜花の真剣な問いに、青年は遠い何かに想いをを馳せるように、目を伏せた。 「そうですね……私に目を向けてくれていた間ですら、あのひとが私自身を愛していないことには気付いていました。 そのことを悲しく、恨めしく思ったのは事実です。それが彼女に刃を向けた理由のひとつであるのは…確かです。 しかし、同時に彼女に哀れみを感じてもいた。そんな彼女を救いたいとも思っていたのです…… あのひとは、長い間たった独りでした。そんな彼女の孤独を癒せる存在になれるものなら、なりたかった。 そうなれないことが辛く、悲しかった……ですが、ふいに気付いたのです。 私は彼女と共に生きる資格はないけれど、別の形で彼女を孤独から救うことが出来る…と」 「………」 「最期の瞬間、彼女は微笑んでいました…彼女はきっと救われたのだと…そう思います。 ……そう感じられただけでもう、私は満ち足りたようなのです。 この想いが報われず、この手に何一つ残ることがなくても………独り取り残されても。 彼女が永遠の孤独から解放されたのなら……」 そうして、穏やかな笑みを浮かべたまま、彼はトゥールジンの部下に支えられながら、広場から連れ出されていった。
「…桜花?」 黙り込んでしまった桜花の名を、気遣わしげに砂月が呼ぶ。 桜花の薄い水色の瞳は、彼には珍しいほど定まりなく宙を彷徨っている。 その彷徨う瞳が、傍らで呼び掛けた砂月の顔の上でぴたりと止まった。 「…そういうものなのか?」 「え?」 軽く瞬きした砂月の様子に構わず、桜花は問いを続ける。 「決して報われなくとも、諦めきれずに、自分を…或いは相手を滅ぼしてでも、その相手を得たいと思う。 同時に、その為に相手を恨めしく思っていても、想う相手の幸せを願う…… 自分が不幸になっても、自分の身を投げ出して、それを叶えようとする。 …そういうものなのか?そうした相反する感情が交錯するのが…恋というものなのか?」 そう問う桜花の混乱した様子に、砂月は内心驚いて、すぐに答えを返すことが出来なかった。
それがふたりの隙だったのかもしれない。
すっと、広場の喧騒が遠ざかる。 同時に、周囲を満たす空気の動きが止まった。 桜花が大きな瞳をはっと見開く。 その澄んだ瞳に、常の輝きが戻ってくる。 そのことに安堵する暇もなく、砂月は桜花と共に周囲を見渡す。 ふたりがいるのは、先程までいた広場だ。 しかし、トゥールジンとその部下たちの姿がない。 あの女吸血鬼の手法とは異なるが、自分たちふたりだけが元の空間から引き離されたのだと悟る。 この空間には今、砂月と桜花のふたりしかいない。 だが、何処かにふたりをこの空間に招いた張本人が居る筈だ。 一体、何処に? 注意深く周囲の様子を探る砂月。 そのとき。 「あの青年の想い…そして、あの女の想いも、お前には理解できない類のものであろうな…」 低い声が空間を僅かに震わせる。 「以前にも言ったことがあっただろう?セイ。お前は人の世で生きていくには純粋過ぎると」 その声が、砂月が答えられなかった桜花の問いに対する答えを齎した。 瞬間、砂月の心が不穏に騒ぎ出す。 それは初めて聞く声である筈なのに。 背筋を走る戦慄めいた不吉な予感を堪え、砂月は視線を上げる。 その目前の空間から滲み出すように、背高い青年の姿が現れた。 月光に煌く金の髪に縁取られた青年の端正な顔が優雅に微笑んだ。 こちらに向けられた紅い双眸。 自分の右目と同じ…紅。 「あ…」 その姿、その顔を目にした瞬間、砂月は絶句した。
現れたのは、自分とそっくりの容貌をした青年だった。
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