哀恋
哀恋 16
次々と襲い来る炎。 今や、砂月と桜花はそれを防ぐだけで、精一杯になっていた。 空を走る炎そのものが意志を持ったものであるかのように、途中でふたつに別れ、離れて立つふたりを襲う。 それを身軽く避け、跳んだふたりは今度は背中合わせに立った。 「桜花、この前よりも相手の能力が増しているように思えるんだけれど…気のせいかな?」 「ああ。お前も分かるか、砂月」 緊迫した状況ながらも、そう囁き交わし、次の瞬間には、互いに反対方向へと跳び、再び離れる。 彼らが今までいた場所で大きな炎が弾けた。 「…忌々しい」 相手を翻弄してはいるものの、なかなか止めを刺すことができず、女吸血鬼が舌打ちする。
異変の予兆に気付いたのは、桜花だった。 (この気配…!) 思わず気を取られ、一瞬立ち竦んだ桜花を、女は見逃さなかった。 「これで終わりだ!」 炎の玉を立て続けに桜花に向かって、集中投下すると同時に、彼女自身も身を躍らせる。 前に差し出され、空を掴むかのように関節を曲げた指の爪が、ぐんと伸びる。 咄嗟に飛び退ろうとした桜花の背後の闇が、突如として蠢き、その華奢な身体を捕らえる。 「桜花!」 乱れて頬に振り掛かる銀髪もそのままに、砂月が鋭く叫ぶ。 駆け出しながら、炎と女の動きを封じようと手を伸ばすが、間に合わない。
凝った闇に、炎とは別の紅が散った。
砂月は目を見開いて、桜花に向かって更に凶器を振り下ろそうとする女を睨み据える。 彼の紅い右目に炎が宿り… 「何?!」 現れると同時に爆発した炎に、桜花を捕らえていた闇が飛散し、女も遠方に弾き飛ばされた。
「桜花!」 呼び掛けながら、砂月は桜花の元に駆け付ける。 「…つぅ……」 桜花は、右手で左の二の腕辺りを押さえていた。 白いシャツの腕を濡らしながら、紅が細い指先から滴り落ち、闇に紛れる。 首筋の急所を狙って振り下ろされた爪だったが、桜花は辛うじて逃れたのだ。 桜花の無事を確認すると、砂月はひとまず安堵の息を吐く。 それから、砂月は能力を暴走させぬよう、息を整える。 桜花に教えて貰ったことを思い返しつつ、能力を抑制しながら、小さな炎を生み出した。 炎は空間を走り、砂月と桜花を囲むようにしてひとつの輪を成した。 敵の干渉を許さぬ簡易の結界だ。 ようやく起き上がった女が再び忌々しげに舌打ちをし、桜花は傷付いた腕を押さえたまま、何処かのんびりと呟いた。 「やるなあ…」 敵が作り出した空間の中で、自分の作り出した結界が何処まで有効かは分からないが、ないよりはましだろう。 今のところ、女は紅い瞳を光らせながら、砂月らの様子を窺っているだけで、攻撃を仕掛けてくる気配はない。 改めて近付いて見てみると、急所を避ける為に、一緒に襲ってきた炎の全てを防ぎきれなかった桜花は、 白い頬や腕、脚に幾つか軽い火傷を負っていた。 儚さを感じるほど華奢な麗姿であるだけに、それらの傷は一層痛々しく見える。 砂月は思わず、秀麗な眉を顰めて、傷のないほうの滑らかな頬に付いた血を指で拭う。 少し焦げている青銀の髪が乱れているのも指先で少し整えてやる。 「大丈夫かい?」 「ああ、まだ動ける」 端的に答えた桜花が、ふと細い眉根を寄せる。 「桜花?」 敵に注意を払いつつ、せめて腕の傷の止血だけでもと、己のシャツの袖に手を掛けていた砂月が怪訝そうに呼び掛ける。 「…来る」 そう桜花が呟いた一瞬後、それは起こった。
そのほんの一刹那前。 彼らと向かい合う女の脳裏に低い男の声が響いた。 『いささかやり過ぎたようだな…』 優しさと冷たさが交じり合った低い囁き。 「我が君…っ…!」 女が視線を彷徨わせた、まさにそのときだ。
急速に周囲の闇が色褪せ、瞬く間に消え失せた。
代わりに仄紅い光が周囲を満たし、三人はいつの間にか、淡い月光が降り注ぐ元の広場に立っていた。 突然の事態に、砂月は思わず呆然として呟く。 「これは…」 「空間が消失したな」 「何だと?!」 ただひとり、冷静な桜花の声に、動揺した女の声が被さる。 続いて、三方の小道から広場に向かって、ばらばらと駆けてくる複数の足音が響いた。 三方から同じように武装した複数の男たちが広場に飛び出し、統制された動きで砂月と桜花、 そして、彼らと向き合う女吸血鬼を取り囲んだ。 武装した男たちの背後から、凛とした声が発せられる。 「青年と少年の方は、被害者だ。手を出すな。女を逃がさぬよう注意しろ」 「はっ!」 その声に応じて集団が動き、女を取り囲む。 開けた砂月と桜花の視界に、集団に指示した声の主が入ってくる。 砂月は色違いの目を瞠り、驚きの声を発した。 「ハルディン?!」 つかつかと歩いてきて、広場のちょうど中央辺りに立ったのは、確かに、砂月の見知っている楽師の青年だった。 外出する時はいつも頭から被っていた薄汚れた布はないが、それ以外は常と変わらぬ格好だ。 しかし、口調や雰囲気、表情までもが、砂月が知っている楽師のものとは明らかに違う。 呼び掛けた砂月を一瞥すると、この街の民と同じ浅黒い肌に、品のある端正な顔立ちをした青年は、 取り囲まれた女を睨み据え、口を開いた。 「夜ごと特定の人々を襲い、周辺諸国を騒がせていた事件の元凶はお前だな、吸血鬼よ。ようやく捕らえたぞ。 いつか我が国にも現れることがあろうかと、網を張っていた甲斐があった」 その言葉に、砂月はようやく事実を悟る。 改めて、周囲を見渡すと、ハルディンが率いる男たちの中に、見覚えのある顔が混じっている。 ハルディンの傍らにいるのは、砂月らも世話になっていた宿屋の主人だ。 その他にも、宿の泊り客として目にした男たちの顔が幾つもあった。 今、砂月の傍に近寄ってきて、桜花の手当て用の包帯を差し出したのも、宿で見た男だ。
ハルディンという名の旅の楽師は存在しない。 彼がいつも故郷で世話になっている宿もない。 それらは皆、周辺諸国を騒がす吸血鬼を捕らえるために作られ、装われたものだったのだ。
悟ると同時に、砂月はあの宿に入ったときの桜花の不審な様子を思い出した。 恐らく、あの時点で既に桜花は、あの宿が普通でないことに気付いていたのだ。 そして、ハルディンがただの楽師ではないということも。 その証拠に、今の桜花は平然として、事態を見守っている。
気付いていたなら、教えてくれれば良かったのに。 …何と、水臭いことか。 「何?」 視線に気付いた桜花が、澄んだ瞳で砂月を見返す。 「いや…」 この件は後で、物申させて頂こう。 そう苦笑しながら、砂月は受け取った包帯を手に、桜花の手当てを始めた。
ハルディンが女を指差し、宣言する。 「このグァダルーダ国第一皇子、トゥールジンの名において、お前を成敗する。覚悟せよ!」 ハルディン改め、トゥールジンの言葉に応じて、女を囲む輪が徐々に狭まっていく。 一気に取り押さえに掛からないのは、女の能力を警戒してのことか。 一方、女はトゥールジンを睨み返しながら、紅い唇を悔しげに噛んだが、すぐに華やかな笑みを浮かべてみせた。 「たかが人間が、私を捕らえられるものか。出来るのならやってみるがいい」 その余裕ある表情に、その場にいる者は皆、表情を硬くし、身構える。
ただひとり、桜花だけが何の表情も浮かべずに、女を見詰めていた。 彼には珍しい人形のような無表情には、僅かに悲哀が滲んでいる。 包帯を巻かれた腕に手を添えた桜花の様子に、砂月はすぐに気付く。 「桜花?」 「……」 呼び掛けに桜花は答えなかった。
女は内心、抑えようのない不安に苛まれていた。 頭に響いたかの神の囁き。 その直後の自分が作り出した闇の消失。 自分はかの神から能力を注いで貰った筈なのに。
不安を打ち消そうとするかのように、女は思うままに炎を呼び出そうと手を翳す。 しかし。 何も起こらなかった。 幾度か気を集中させようと試み、彼女はようやく気付いた。 先程まで、身体の内側から溢れ出るようだった能力が、消え失せている。 …いや、それ以前に持っていた能力さえ、今のこの身には宿っていない。 その事実に、女は愕然とする。
「まさか…」
あの邂逅の折。 かの方は、自分の能力を彼女に分かち与えたのではなく、彼女の能力を制御する為の箍を外しただけなのではないか。 制御できぬ能力は、身の内から溢れ続け…ついに枯渇して絶えた。 ならば、自分が作り出した空間が突然、消えたのは……
浮かべていた笑みを消し、凍り付いたように、動きを止めた女の隙を捉え、一気に押さえ込もうと、男たちが動き出す。 「…ッ!」 女の紅い瞳が、月光にぎらりと光る。 長く伸ばした爪を振り上げ、向かってきた男たちに振り下ろす。 紅い血が辺りに飛び散る。 「うわぁッ!」 「怯むな、取り押さえろ!」 逃すまいと群がってくる男たちを傷付け、なぎ倒しながら、女は囲みを抜けた。 「逃すな!!」 厳しい声を発しながら、トゥールジンが女の前に立ちはだかる。 その手に持った細身の剣が月光を弾いて煌いた。 焦燥と怒りに満ちた目で、トゥールジンを睨む女の喉から獣のような唸り声が漏れる。 次の瞬間、女は牙を剥いて、トゥールジンに跳び掛った。 「危ない!!」 思わず砂月が声を上げ、桜花も無表情から一転険しい表情となる。 女を取り逃がした男たちが、駆けてくる。 しかし、女の動きの方が早い。 緊迫した様子で、トゥールジンが、手にした剣を翻した。
そのとき。
ふたりの間に割って入るように、何処からか人影が現れた。 人影は、緩慢としているように見えながら、実は誰よりも素早い動きで、トゥールジンに跳び掛ろうとする女を受け止めた。
ふたりの間にきらりと光る何か。
驚愕に見開かれた女の瞳が、自分を抱き留める相手を見上げる。 「………」 しかし、彼女は無言のまま、ふと瞳を虚ろにした。 顔を仰向けたまま、地に崩折れそうになる女の身体を抱き留めながら、相手は女と共に、その場にしゃがみ込んだ。
紅い月光に、俯きがちの顔が照らされる。
それはあの貴族の青年のものだった。
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