哀恋
哀恋 15
今夜の月は、いやに大きくて紅い。 不吉だと感じるのは、これから起こることを危惧するからだろうか。 砂月は視線を空から、件の青年が住まう貴族の邸宅へと向ける。 青年が密かに邸を出るとしたら、ここだろうと桜花が指摘した、 大きな木に接した塀がよく見える建物の蔭に砂月らはいた。 深更を迎える今、邸は静まり返ったままだ。 砂月はちらりと傍らの桜花を見る。 桜花は些細な変化も見逃すまいとするかのように、飽くことなく邸を見据えている。 彼の薄い色の瞳が、赤味を帯びた月光の反射を受けて、夜の虹のような不思議な色合いに輝いていた。 その美しさに見惚れ、砂月は一瞬、不吉さを忘れる。 しかし…
「やはり、出てきたな」 桜花が淡々と囁いた。 はっとして視線を邸へと戻すと、塀を越えようとする人影が目に入った。 慣れているのだろう、塀に接した木の枝を伝いながら、危なげなく塀の外へと降り立つ。 月光に照らされたのは、もう自分の身を危険に晒すことはしないと桜花らに約した筈の、あの青年だった。 予想していたこととはいえ、約した言葉を違えられた桜花は今、どのような思いでいることだろう。 砂月は密かに、桜花の様子を窺うが、怜悧とも取れるほど落ち着いた彼の表情から、落胆を読み取ることは出来なかった。 青年は物蔭から見ている砂月らには気付かぬまま、背を向けて通りを歩み出す。 「行くぞ」 低く言って、青年の後を追うため、物蔭から出た桜花に、頷いた砂月も続いた。
あの女を捜しているのだろう、青年は時折立ち止まり、周囲を見渡しながら歩んでいる。 砂月らはその度ごとに、物蔭に身を隠しながら付いていったが、ふいに、雲が月を隠した。 闇が訪れたのは一瞬。 しかし、再び月の光が差したときには、一瞬前まで確かに目に捉えていた青年の姿は消え失せていた。 「しまった…!」 一瞬顔を見合わせた砂月と桜花は、先程まで青年がいた場所に駆け付ける。 そこは小さな広場になっており、放射線状に三つの小道が伸びていた。 あの一瞬の間に、青年はこの道のうちのどれかに入ったのか。 それとも、彼が入り込んだのは、この世界にはない場所か……
そのとき、再び闇が下りた。 月が翳ったのではない、影よりも濃い闇。 憶えのある感覚に、砂月は身構える。 「どうやらおいでなすったようだ」 傍らには、砂月と同じように隙なく身構える桜花の姿があった。 故意に作られた闇の世界にあっても尚、白く輝いて見える姿に、砂月は安堵し、勇気付けられた。 自分の傍らに、桜花がいてくれるならば、何があろうと切り抜けられる。 そんな訳のない自信を嘲笑うかのような含み笑いが響く。 「何とも…無防備なこと。このように再び、こちらの網に容易に掛かってくれようとは思ってもみなかった。 いささか拍子抜けするほどだ」 艶やかな女の声が響き、闇から滲み出すように、件の女吸血鬼の姿が現れる。 女の術中に嵌らぬよう、神経を研ぎ澄ませながら、砂月は口を開く。 「貴方はもう一度、僕の前に現れるだろうと思っていました」 闇の中で禍々しく輝く紅い瞳が愉悦に細められる。 「私を待っていた…ということか?それは嬉しいこと……」 「あの青年を隠したのも貴方ですか?彼は何処にいます?」 まともな応えは返ってこないだろうと予想しながら、砂月は青年の行方を問う。 すると、女は心底不思議そうに首を傾げた。 「あの青年?何のことだ」 「恐らく、僕の前に貴方が虜にしようとしていた青年ですよ。僕たちは彼を追い掛けて来たんです」 「知らぬ。もう忘れた」 無造作に応える彼女の様子に偽りは見えない。 …本当に憶えていないと言うのか。 砂月は微かに整った眉を顰める。 そんな彼の様子を面白そうに女は眺めている。 ふと、その視線が傍らの桜花に流れ、一瞬その紅い瞳に不愉快そうな光が宿った。 「資格を持たぬ者のことなど憶えてはいない。憶えている必要などないだろう? そんなことよりも…今、目の前にいるお前を手に入れることが大事」 投げ出すように続けられた言葉に、笑みが含まれる。 同時に、滑るように、しかし、飛ぶような速さで女が砂月へと迫ってくる。 身構える砂月の前に、桜花の華奢な身体が立ちはだかった。 「邪魔だ!」 「ッ桜花!」 女の鋭い声と共に空間を走った炎が、桜花を襲う。 砂月は思わず、腕を伸ばして炎から桜花を庇うように抱き締めた。 ふたりをそのまま包み込むかに見えた炎は、その手前で消え失せる。 女が忌々しげに舌打ちをした。 「…またも、水の能力を持つ者が邪魔立てをするか」 「その通り」 切って捨てるような口調で言い放つと、桜花は気を集中させ始める。 触れ合った身体を通して、桜花の清しい気が、砂月の中にも流れ込んでくる。 桜花の意図にすぐ気付いた砂月もまた、彼の波長に合わせるように気を集中させる。
今、自分たちがいるこの空間は、この女吸血鬼の領域だ。 相手が思う存分能力を発揮できるのに対して、自分たちは出せる能力が制限される。 つまり、それだけ自分たちが不利になるということだ。 彼女と対等に渡り合う為には、まず、この空間を消滅させなければ。
しかし。
「させぬ…!」
女吸血鬼が手を翳し、再び能力を放った。 先程とは比べ物にならないほど大きな炎。
気を集中させながらも、女に対する警戒も解いていなかった桜花がいち早く反応するが、向かってくる能力が大き過ぎた。 「…ッ!!!」 「桜花!…うッ…!!」 まず、桜花の細い身体が弾き飛ばされ、続いて砂月の身体も見えない地に叩き付けられた。 「…桜花!」 「……大丈夫だ」 すぐさま身を起こして、心配げに呼び掛ける砂月に応えるように、軽く手を上げて桜花もすぐに立ち上がった。 (以前よりも能力が強くなっている…?) 細い眉根を寄せ、いささか険しい表情となって桜花は、油断なく身構えながら考える。 以前はそれほど感じなかった女の火の能力が、今夜は強く感じられる。 ただの火ではない。 使い手の意のままに動き、容易に消し去ることは出来ない強い炎。 それは、同時に、桜花に僅かな懐かしさをも感じさせるものだった。 脳裏に浮かぶのは、何かを仕掛けてくるかもしれないと危惧していた男の姿だ。 (油断していた。まさか、こんな形で…) 桜花は花弁のように柔らかな線を描く唇を、凛々しく引き締める。
一方、能力を放った女自身も、その予想外の威力に驚いていた。 あれだけの能力を放出したにも拘らず、今も尚、火の気は身の内から溢れんばかりだ。 (どういうことだ…?) そのとき、瞬時に甦ったのは、先程の夢とも現とも付かぬ邂逅だった。 あのとき、彼女の神はこの瞳に触れ、灼熱の能力を注いだのだった。 …ならば、あれは夢ではなく、現であったのか。 あの御方は、勿体無くもこの自分に、自らの能力を分け与えられたのだ。
そう悟ると同時に、彼女の胸は歓喜に満ちた。 「そうか…そうであったか……ふ…ふふ……はははは!!」 高らかに嗤い声を吐いた女は、こちらの様子を油断なく見据える砂月と桜花を傲然と見返した。 白い肌の中で際立つ紅い唇が笑みの形に刻まれる。 自分にはかの神の加護がある。 それだけで彼女は勝利を確信していた。
「愚かな人の血を引く者よ。さあ、遊びは仕舞いだ。覚悟するが良い」
背に肩にうねる黒髪を掻き揚げて宣言した彼女の紅い瞳が、禍々しく輝いた。
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