哀恋

 

  哀恋 12

 

「お手数をお掛けしました…本当に」

 手伝いの使用人を下がらせ、寝台の上で身を起こした青年は、

高い教育を受けた貴族らしい聞き取りやすい公用語でそう言った。

やつれてはいるが、性格の温厚さを窺わせる端正な顔立ち、穏やかな物腰。

初めて出会ったときは夢遊病者のように、虚ろな表情で通りを歩いていた。

 二度目は、何かに取り憑かれ、突き動かされているような狂気に満ちた表情で、桜花(おうか)に襲い掛かってきた。

 どちらも青年が正常とは言えない状態のときに出会っていたので、

桜花たちは今このときに初めて、青年と出会ったような気がしていた。

 痩せ細った身体の方は徐々に元に戻していかなければならないが、

少なくとも青年の心の方は落ち着き、すっかり回復したように見える。

 軽く青年の診察をさせてもらい、桜花はその印象が間違いではないことを確認する。

ほっと息を吐き、青年に向かって微笑んだ。

「いや、俺は大したことはしていない。ここまで回復したのは、あんた自身の力だろう。良かった」

 そう言う桜花を、青年は静かな眼差しで見詰める。

 ゆっくりと手を挙げ、己の口元を押さえた。

「…父から聞きました。私は……吸血鬼になった訳ではなかったのですね。この牙も…偽り」

 そう呟く声音に潜む僅かな翳りに、桜花の傍らにいた()(づき)が気付く。

 桜花の方を見遣ると、桜花もそのことに気付いたことを示すように頷いてから、青年に向かって問い掛けた。

「…不躾なのは充分承知しているが、あんたがこのような状態になった経緯を聞かせてもらっていいだろうか?」

 口元を押さえた手を下ろした青年は頷き、口を開いた。

「はい…あのひとと出遭ったのは、一月ほど前の、月が紅く輝く夜でした……」

 一旦言葉を切った青年は僅かに目を細める。

 自分が心に描く何者かに、想いを馳せ、焦がれているような表情。

 それを見たとき、砂月はこの青年が今でもあの女に惹かれていることに気が付いた。

 青年は束の間の物思いを払うように穏やかに微笑んだ。

「…しかし、私があのひとについて知っていることはあまりないのです。

私が知っていたのは、あのひとがひとではないこと、月夜にしか遭えないこと…孤独であること……それだけでした」

「孤独…?」

 桜花が呟く。

 その声音に僅かに戸惑いが滲んでいる。

 桜花がそのように戸惑うのは何故だろう。

 常に迷いなく進む彼のそんな様子に危ういものを感じて、砂月は不安になる。

 そんな聞き手の様子を他所に、青年は呟くような声音で言葉を継ぐ。

「…それでも惹かれたのです。あのひとの美しさに…寂しさに。あのひとの求める存在になりたいと心の底から願った。

その為なら、ひとならざるものに…化け物と呼ばれるものになってしまっても、構わなかった。

命さえ捨ててもいいと思ったのです」

「そんなことを言ってはいけない。あんたにはあんたを大切に思う家族や友人があるだろう。

あんたに何かあれば、彼らがどれだけ悲しむか」

 桜花の真摯な言葉に、青年は頷く。

「そうですね。あなたの言うとおりだと思います。事実、私が狂気に駆られていた間、家人や友人には心配を掛け、

多くの迷惑を掛けてしまった。申し訳ないことをしたと思います。

けれど…あのひとには、私のように身を案じてくれる近しい者がいない」

「……」

 どう言葉を返していいか分からない表情で黙り込んだ桜花に代わり、砂月が口を開いた。

「お言葉ですが、確かにあの女は孤独であったが故に、あなたをこのような事態に巻き込んだのかもしれません。

伴侶を求めて。しかし、彼女は自分の求める存在、傍に置く者を自分のみの判断で勝手に選別しているように見えました。

まるで店先から気に入りの品を選ぶように。そのようなやり方では、真の伴侶など得られるはずがありません。

何よりも物のように扱われるのは至極不快なことではありませんか?」

 砂月の反論に、青年は顔色を変えて砂月を見た。

 目を瞠り、砂月に向かって身を乗り出し、取り縋るような調子で問い掛ける。

「あなたは…あのひとに遭ったのですか?一体何処で…?私はもう一週間もあのひとに遭っていないのです……」

 砂月は自分の伝えたかったことが青年に届かなかったことを感じ、溜め息を吐いて首を振った。

「申し訳ありませんが、お教えすることは出来ません。

僕があの女に出会ったのは、こことはっきり断言できる場所ではありませんし、それに…

今更、彼女に会ってあなたはどうするつもりです?

また、彼女の言うままに、自分を捨てるつもりだと言うのならば尚更、お教えすることは出来ません。

桜花の努力が無駄になってしまいますから」

 青年は、はっと口を噤んだ。

「砂月」

 言い過ぎだと、桜花が砂月を目で嗜め、砂月もまた口を噤む。

 青年は俯き、上掛けの上に投げ出された己の手を見詰める。

 その様子を注意深く見ながら、桜花はゆっくりと言葉を紡ぐ。

「お父上から少しは聞いているかもしれないが、あんたにはひとつはっきりと理解してもらいたいことがある。

吸血鬼とひととは全く別の生き物だ。だから、どんなことをしようとも、ひとはひとのまま、吸血鬼は吸血鬼のままだ。

ひとが吸血鬼になることはない」

 青年の手がぴくりと震える。

「人である私は、どう足掻いても、あのひとの求める存在にはなれないのですね…」

そう呟いた青年の言葉には、僅かな落胆が滲んでいるように砂月には思えた。

 砂月よりも聡い桜花もまた、恐らくそれを感じ取っているはずだが、

この青年にはしっかりと事実を伝えるべきだと判断したのだろう、青年の呟きにはっきりと頷いた。

「そうだ」

暫しの沈黙の後、顔を上げた青年は桜花と砂月に向かって再び淡く微笑んで見せた。

「そうですね…可笑しなことを言ってしまって申し訳ありません。それに、あまりお役に立てるお話も出来ずに……

もう、この命を粗末に考えたり、家人に迷惑を掛けるようなことは致しません。

私をここまで回復させてくださったあなた方のご尽力とお心遣いに感謝いたします」

 そう目礼する彼の言葉は、心からのものなのだろうか。

 しかし、これ以上、この青年から聞き出すことはない。

 掛けられていた暗示もすっかり解け、あとは時間による回復を待つのみだ。

それについては家人が気を配るであろうから、医師の手も必要ない。

 桜花と砂月は拭いきれない不安を抱えたまま、辞去の挨拶を述べて、座っていた椅子から立ち上がる。

 頃合を見計らった侍女が外から扉を開き、恭しく腰を折りながら、桜花らを送り出した。

「けれど…」

 部屋から出る直前、青年の呟きが桜花の耳に入った。

公用語ではなく、彼らの国の言葉でのかすかな呟き。

 

「愚かにも、私はまだ、あのひとに惹かれているのです……」

 

 

「彼はさっきなんて言ったんだい?」

 貴族の邸宅を後にして、通りを暫し歩いた後、砂月がふとそう問い掛けた。

 砂月も先ほどの青年の呟きが耳に入ったらしい。

 しかし、明瞭ではない言葉だったので、この国の言葉に慣れていない砂月には内容までは、聞き取れなかったのだ。

 桜花はすぐにその問いに応えず、一つ溜め息を吐いた。

 ささやかな息吹に、白い頬に纏わる桜花の細い青銀の髪が揺れた。

「あの男は…自ら望んで暗示に掛けられていたんだな」

 多分に戸惑いを含んだ桜花の言葉に意表を突かれながらも、砂月は頷く。

「そうだね。彼の様子から察すると」

「あのように正気を失くして、人を襲うようになってしまうとは、あの男も当初は考えていなかったのかもしれない」

 そう言って、桜花は次の言葉を捜すように口を噤む。

 砂月は本題からずれているように聞こえる桜花の言葉を遮らずに、彼が再び口を開くのを黙って待った。

「だが、あの男は、もう自分がどのような状態になったか、どれほど家族や知人に心配を掛けたかを知っている。

知った上で、吸血鬼化できなかったことに…あの女の望む姿になれなかった自分に、落胆していた」

「…多分、そうだね」

「あのような目に合わされてもなお、あの男はあの女に惹かれていると言ったんだ」

「それが彼が最後に言った言葉かい?」

 頷いた桜花は、何かを振り切るように顔を上げ、砂月を真っ直ぐに見上げ、戸惑いの理由を口にした。

「あの男は、家族や友人、周りの親しい人々を悲しませると分かっていても、突如現れた…

しかも、自分に応えてくれるかも分からない女への想いが捨てきれないのか?それは、家族への想いよりも優先されるのか?

恋というのは…そういうものなのか?」

 それは砂月にというよりも自分自身に問うている言葉だったが、じっと見詰められた手前、

砂月は何か言葉を返さなければいけないような気がした。

「どちらが優先されるのかはひとによって違うと思うけど…

今までともに過ごしてきた家族、友人…それによって形作られた自分の人生を捨てても良いと思うほどに、

特定の誰かへの想いに縛られてしまうことはあると思う。

陳腐な言い方だけど、恋っていうのはひとを多かれ少なかれ変えるものだからね」

 砂月の言葉に、桜花は細い眉を僅かに顰める。

 よく分からない様子だ。

 ひとの心の機微には自分以上に聡い彼が一体どうしたことだろう。

 先ほどと同じことを考え、ふと、砂月は気が付いた。

「桜花…もしかして君、今まで誰かを好きになったことがないのかい?」

「……」

 沈黙がその答えだった。

 まだ桜花の心に誰も棲んだことがない事実に、心の片隅で砂月は身勝手に安堵する。

 しかし……

 砂月の胸に先ほど抱いた疑問が、ゆっくりと湧き上がってくる。

 

桜花の心の形は、多くの人間とは違っているのでは……

 

 そのとき、すいと砂月から視線を逸らせた桜花が、独り言のようにポツリと呟いた。

「俺にはひととして重要なものが欠けているのかもしれない」

 



前へ  目次へ 次へ