哀恋
哀恋 11
実際どのくらいの間目を閉じていたのかは分からない。 瞼裏を刺すような眩しさが遠のき、やっと目を開けられるようになった砂月は、辺りを見回す。 砂月と桜花が使用している宿の部屋だ。 「うまく抜け出せたようだな」 「…そうだね」 傍らの桜花が呟くのに頷きを返す。 今はもう、砂月を異空間へと連れ込んだ黒衣の女の姿は何処にもない。 代わりにそこに居たのは…… 「あれえ?」 間近で聞こえた素っ頓狂な声に我に返ったふたりは、声の聞こえた方を見遣る。 「お姫さまかよ!一体いつの間に戻ってきたんだ?」 不思議そうに首を傾げるハルディンがそこに居た。 連れ去られる寸前この男が部屋に居たことを砂月は思い出す。 「おかしいなあ…ついさっきまでここには砂月しか居なかった筈なのに…」 ひたすら首を捻る様子から察するに、ハルディンは砂月がこの部屋から姿を消したことさえ気づいてはいないようだ。 もしかしたら、あの異空間での出来事は、元の世界では一瞬のことだったのかもしれない。 しかし、どうにもそのことの説明の仕様がなくて黙っていると、桜花が口を開いた。 「俺はついさっき戻ってきたんだ。お前がそのことに気付かなかったのなら、余所見か居眠りでもしてたんだろう」 「…そうかあ?」 「そうだ」 ハルディンはまだ怪訝そうだったが、桜花が躊躇いなく断言するので、自分の感覚に自信が持てなくなってきたらしい。 「…幾らなんでも、この部屋に人一人入ってくるのに気付かないとは思えないんだが……働き過ぎかね」 参ったなあ、と苦笑しながら頭を掻き、次いで肩を竦めた。 「ま、いいか。 あんたたちがちょっとギクシャクしてるみたいだったから、様子を見に来たんだけど、余計なお世話だったみたいだし。 なあ?」 悪戯っぽく笑い掛けられて、やっと砂月は桜花と手を繋いだままだったことに気が付いた。 「あ」 「いいって、いいって。邪魔者はさっさと退散するからさ。後はふたりでごゆっくり」 お邪魔さま、と言葉を残して、片手を上げたハルディンは、部屋を出て行った。
「…何か勘違いをしてるようだったな」 桜花の呟きに、砂月は曖昧に笑う。 しかし、桜花がさり気なく繋いだ手をするりと解こうとしたので、思わずその手を引き留め握り締めた。 「砂月?」 もうこれ以上、桜花に誤解されるのだけは沢山だ。 傍らで見上げてくる澄んだ水色の瞳を真っ直ぐ見返して、砂月は口を開く。 「朝のこと、謝るよ。僕がはっきりしない所為で、君には不安な思いをさせたと思う」 「そんなことはない。砂月の所為じゃないんだ」 驚いたように言葉を返す桜花に、砂月は穏やかに頷く。 「うん、桜花はそう言うよね。嘘じゃなく本当にそう思って言ってくれてるんだということも分かってる。 でも、これからは少しでも不安なことがあったら、それを僕に教えて欲しいんだ。 それが僕に原因があることだったら尚のこと黙っていて欲しくない。 …不安を打ち明けるには、僕では頼りにならないかもしれないけど。今回の件は僕の頼りなさが招いたことだしね」 「そんなことは…」 戸惑った様子で桜花が口に仕掛けた言葉を、砂月は柔らかく遮る。 「それでも君は、こんな僕のことを大切な友人だと言ってくれたよね。嬉しかった…本当に。 だから、君がくれた言葉に相応しい自分になれるよう、 君にとって頼り甲斐のある旅の相棒になれるよう、これからも頑張るよ。 それでもまた、僕は迷って君を困らせることがあるかもしれけれど…これだけは迷いなく言える。 例え、君が何者であろうと、僕にとっても君は大切なひとだ。もっと君と一緒に居たい。 これからも君と一緒に旅を続けていきたいんだ。僕のこの言葉だけは信じて欲しい」 黙って砂月の言葉を聴いていた桜花が、ふと顔を俯ける。 「…桜花?」 桜花の表情が見えなくなって、砂月は少し慌てる。 何かまた、彼を不安がらせるようなことを言ってしまっただろうか。 彼の華奢な手をいつの間にか強く握り締めていたことに気付いて、少し力を緩める。 自分の胸の辺りにある桜花の顔を見ようと身を屈めかけたとき、とん、と胸元を叩かれた。 桜花が空いているほうの拳で、砂月の胸元を軽く打ったのだ。 長い前髪の下から覗けた花弁のような唇は、僅かに綻んでいた。 「お前は俺にとっては今でも充分頼りになる旅の相棒だよ」 言って顔を上げた桜花は花開くように微笑んだ。
「あの誘拐未遂犯の女が例の貴族青年を奇行に走らせた原因である可能性は高そうだな」 「誘拐未遂犯ってね、さくら…」 桜花の身も蓋もない物言いに、砂月は思わず苦笑する。 誤解めいた擦れ違いが無事解消したふたりは、早速黒衣の女に関わると思われる情報を互いに交換し合った。 そして、その翌日。 ふたりは、桜花がまた訪ねると約した貴族の家へと向かっていた。 「或いは、女吸血鬼でもいいぞ」 桜花の言葉に、砂月は改めて黒衣の女の様子を思い出す。 「吸血鬼か…そう言えば、彼女が傍近くに来たときに、口の中から鋭い牙が見えたよ」 陽除けと目立つ容姿を隠すために薄布を被ったふたりは言葉を交わしながら通りを進む。 それでも、醸し出される不思議な雰囲気で衆目を集めてしまうふたりだが、 彼らの母国語で交わされる話の内容を理解できる者は恐らくいないだろう。 こうしてみると、言葉の通じない国に滞在するのは、必ずしも不都合ばかりではないようだ。 特に、場所柄を気にせず、このような物騒な話を口にするときには都合がいい。 本来なら、周りに知られようが知られまいが、物騒な話はしないに越したことはないのだが。 そんなことを頭の片隅で考えつつ、砂月は疑問を口にする。 「本当に彼女が吸血鬼なら、何故、あの青年に暗示だけを掛けて、仲間にしなかったんだ?」 首を傾げる砂月に、桜花はさらりと言った。 「仲間にしなかったんじゃない。できなかったのさ」 「どういうことだい?」 「言い伝えなんかでは、吸血鬼が人間の血を吸う、或いは互いの血を交換すると、 人間を吸血鬼にすることができるなんて言われてるが、実際はどんなことをしようと、 人間を吸血鬼にすることはできない」 一度言葉を切った桜花は、被っていた薄布の端を持ち上げ、砂月にちらりと透明な眼差しを寄越す。 腰までを覆う薄布よりも長い桜花の青銀色の髪が、光の粉を振りまくように歩みに連れて揺れている。 「吸血鬼は人間の亜種じゃない。見掛けは人と同じ形をしているが、その実、吸血鬼は人間とは全く別の生き物だからな。 猿と人くらいは違う」 「そんなに…じゃあ、人と吸血鬼の間に子が出来るなんてことは…」 「ないな」 きっぱりと応えてから、桜花は腕を組んだ。 「例え、人と同じ形をしていても違う生き物は、大概は交わり合うことはない。まあ、種族によっては、例外もあるんだが…」 そこまで言った桜花は、一瞬何とも言いようのない表情を見せる。 迷っているような、或いは戸惑っているような表情だ。 しかし、すぐにそれは消え去り、その少女のような美貌には元の凛々しい少年の表情が宿っていた。 桜花が見せた一瞬の変化が、僅かに砂月の心に引っ掛かったが、 直接そのことを桜花に問うのは何となく憚られて、砂月は途中だった会話の続きに入る。 「吸血鬼はその例外には当て嵌まらない訳だね」 「ああ」 「じゃあ、何故、あの女は僕にあんな誘いの言葉を掛けたんだろう?」
私にお前の血をおくれ。 代わりにお前には私の血をやろう。 さすれば、お前は長い時を刻む我が眷属となる…
あの黒衣の女は砂月に向かってそう言ったのだ。 「それに、あの青年に、より吸血鬼らしくなるよう、歯に細工したのも恐らく彼女なんだろう?」 「確証はないがな」 「…言動が矛盾しているんじゃないかな?一体どういうつもりで…」 そのときふと、砂月は彼女の言葉を思い出した。 彼女は砂月に、自分の「伴侶」になって欲しいとも言っていた。 「彼女は伴侶が欲しくてこんなことをしているのかな?でも…」 幾ら吸血鬼になったと相手に思い込ませたところで、人は人だ。 その寿命は変わらないだろう。 何をどうしたところで、彼女と共に永いときを生きる伴侶にはなり得ない。 それに、真に伴侶探しが目的ならば、相手に暗示を掛けたり、細工をしたりするのはやはり矛盾している。 何か別の目的があるのだろうか?
だが…
あのぞっとするほどの執着に満ちた眼差しと、自分に伴侶になって欲しいと請うた声音には、 偽りとは思えないほどの熱が込められていた。 その熱が、心の片隅に追いやられてしまっている誰かを思い出させた。
そう、双子の姉の星砂だ。 あの熱意は彼女が砂月に向けてくる盲目的な愛情に似ている。 黒衣の吸血鬼に、あのとき激しい拒絶反応を示してしまったのはその所為かもしれない。
ふと湧き上がる軽い罪悪感に、砂月は秀麗な眉を微かに顰める。 今まで意識してはいなかったが、桜花と出会い、彼と旅をするようになってから、 気付けば星砂のことを思い出すことが殆どなくなっていた。 それまでは離れていても、一日たりとも星砂のことを思い出さない日はなかったのに。 訪れる土地ごとに、色々な出来事に遭遇する慌しい毎日に、ひとり物思いに沈む時間が少なかったこともある。 だが、たまに得られるひとりの時間に考えるのは、今では桜花のことばかり。 星砂はこの世にたったひとりの自分の半身とも言える存在だというのに、我ながら随分と薄情だ。 申し訳なく思いながら、砂月は一瞬星砂に思いを馳せた。 彼女の華奢で美しい姿を。 彼女は自分が送った手紙を読んでくれただろうか? それを読んで、どう思ったことだろう。 彼女のことだから、きっと砂月を自分勝手だと詰り、怒っているだろうが。 砂月は静かに苦笑を噛んだ。
「そこのところが俺もどうも分からない」 砂月の疑問に同意するような桜花の返事に、砂月は現実に引き戻される。 「だが、考えるのはもう少し情報が集まってからにしよう。今の時点で色々と詮索するのは、返って真実を見失わせる。 確かだと思える事実を積み重ねていこう」 「そうだね」 砂月の同意に頷きを返した桜花は、前方を見据えながら言葉を継いだ。 「姿が似ているだけについ、人の尺度で測りがちだが、彼らの常識や物の考え方は俺たち人間とは異なっていることが多い。 そのことにも気を付けておいた方がいいだろうな」 その先を口にすべきかどうか桜花は一瞬躊躇う。 が、結局口を噤んだ。
例えば彼らは血縁に対する執着が薄い。 親子や兄弟への情といったもの自体が彼らの間には元々存在しないものなのだ。
そう心の内でのみ呟いた桜花は、傍らの砂月に悟られぬよう、微かに柳眉を寄せた。
「分かったよ」 桜花の様子に気付かないまま、彼の言葉に頷いた砂月は再びふと、そう言う桜花自身はどうなのだろうと考えた。
彼自身は自分のことを「人間」だと言ったし、砂月もそれを否定する気は毛頭ない。 しかし、人だと言うには、桜花はあまりにも、純粋に過ぎるような気がするのだ。 外見だけではなく、その内面も含めて。 彼の心の形も、多くの人間とは違っているのではないだろうか。 特に、自分のような人間とは。
その疑問は、僅かな澱となって、砂月の心の片隅に沈んだ。
それぞれの戸惑いや疑問を胸に抱きながら、ふたりは件の貴族の屋敷へと辿り着いた。 |
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